Story

星に触れて、願いは叶う。

 

 

序章

 

1.Corqus  それは魂の揺籃である。歌を歌い、呼吸をし、魂を可視化している。しかし言葉を信じるな。

        揺籃は言葉を話さず、葉は気まぐれな魂によって生まれている。

 

 

 

 

 

 ジリジリと耳を炙るような蝉の声、太陽の光。八月。顬を流れる汗を手の甲で拭って溜息をつくと、同じ討伐任務についていた髪の短い女性が声をかけてくる。

 

「お疲れ様。今日は大変でしたね」

 

 ぐっと伸びをしながら、女性──大井叶は黒い外套を脱いだ。軽く折り畳まれてゆくその背には白龍と白百合、そして刀の切っ先が描かれた紋章が刻まれている。十ある塔のうちの二番目、二型の塔章だ。習って外套を脱ぐと、こちらには人魚の骨と煙。美しき七番目の塔、七ノ是の塔章。持ちっぱなしだった銃をホルスターに収め、先に歩き出していた彼女の後を追う。

 今日の任務はフラグメンツを二体討伐することだった。しかし、事前調査で挙げられていた二体を倒した後、すぐに別のフラグメンツが襲いかかってきたため任務完了時間が予定より遅れてしまっていた。

 

「はい、……にしても、調査班がフラグメンツの個体数を間違えるなんてこと、あるんですね」

「ああ、それは多分……ゼペネにくるフラグメンツが多くなりすぎているせいですね。今日だって対象の数は合ってましたが、流石に飛び入りは分かりませんよ」

 

 ──フラグメンツ。それは肉体を改造された動植物で、もとはスターマンだけを襲う存在だった。彼らは星の欠片を細胞に宿しているが、肉体を改造されることで、魂とも言える「星のひかり」が欠けてしまっている。それを補うために、星の魂を持つスターマンや、星の欠片をもった俺たち天児を襲うのだという。それらから身を守り、また戦えない者を守るのが、俺たち隊員の役目だ。

 

「なんでも西の方での戦争で、大陸を守っている妖のひとりがついに欠けてしまったとかで」

「ええ!? それって、結構不味いんじゃ……」

「そうね、亡くなられたのは四聖って訳じゃないらしいんだけど……」

 

 この極東の国ゼペネに上陸するフラグメンツが増えたのは、数ヶ月前の国外での戦争が原因だったらしい。四聖という女性の姿をした妖──北を守る玄武、西の白虎、東の青龍、南の朱雀。彼らのうち、玄武というひとが固めていた守りが一月に突破された、という話を風の噂で聞いた。フラグメンツはどうやら北に多く生息しているようで、北の守りが弱くなってからこちら、ゼペネに来るフラグメンツは随分増えた。それを抑えるために全天21煌の一部がフラグメンツの巣穴を潰し、天児とスターマンは協力関係を結んだ――星の誓い――そうして、フラグメンツを滅ぼし互いを守りあうための準備を整えた。

 

「それじゃあ、四聖の弱ったあとに死んじゃった、ってことなんですか?」

「どうやらね。誰だったかな、四凶でもなかった気がするけど……まあ、国外のことは私たちはあまり知らされないし、考えても意味ないですよ」

 

 大井はふうっと息を吐いた。足元に旋風がおきて僅かに砂埃を立てる。彼女の能力は「風業」。風を操り、それ自体を刃とする能力。天児の基本的な能力種のうちのひとつである。風の弱い今日のような暑い日には、喉から手が出るほど欲しい能力だ。水業や氷業も、同じくらい欲しいと思うけれど、それらは冬が辛そうだ。

 

「忙しくなりますよ、これから」

 

 眩しく青い空を、大井は鬱陶しそうに見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.Faisa  私は正しい。私には裏も表もないからだ。

          しかし震え途切れた視線によって、私はいつも嘘つきであると言われる。

 

 

 

 

 

「…ったく、何処もかしこも怪我人ばっかりで手に負えない」

 

 包帯を巻く手を止めることはせず、やや青みがかって見える黒い前髪を真ん中から分けた男性、看護班の川村はぐちぐちと文句を言う。この炎天下でもきっちりとマスクをし、暑さにぼうっとしている様子もない。

 僕の腕の打撲を確認し、ため息を吐くと、丁度傍を通りがかった大荷物の青年に声をかける。

 

「おい、加藤! その布一枚くれ」

「ちょっと凉さん……俺両手塞がってるんだから、自分で取ってくださいよ」

 

 ホワイトアッシュの髪をした、四白眼の、一見軽薄そうな加藤と呼ばれた男は抱えていた籠の大量の布のうちから小さいものを引き抜き、川村へと放った。投げんな、と呟きながら、川村は危なげなくそれを掴んだ。

 

「お前、それ運び終わったら今日は上がって良いぞ、海春さんも言ってたし。明日明後日は休みだろ」

「マジですか! いや嬉しいなぁ!」

「緊急の時は来てもらうけどな」

「えぇ~っ! そんな……」

 

 落胆した様子の加藤は不意にピタリと動きを止め、何かに気づいたかのようにまじまじと僕を見た。においを嗅ぐような小さな音がしたあと、彼の小さめの黒目がキロリ、と川村に向けられた。

 

「そんな事より凉さん、その人背中と太腿をぱっくりやっちゃってるみたいですけど」

「えっ!?」

「はあ?」

 

 川村の三白眼がぎろりと僕を睨む。頬に当てられていた布越しの手に力が籠もったのを感じて冷や汗が流れ出す。

 

「お前、そういうのは早く言え」

「ええと、僕も気づかなくって」

 

 すみません、と呟くと呆れたような溜息を吐いて、川村は包帯の入っていた木箱を漁りだした。加藤は籠を傍において、すぐ隣にしゃがみこむ。そして小さな声で、よかったな、と言った。

 

「何処もかしこも麻酔が足りないんだ。川村さん診てもらえるなんて、あんたラッキーだったかもな」

 

 ほら、と言って彼が指し示した方からは悲鳴が飛んできた。思わず引き攣った口の端を見て、彼は軽く笑う。少しの憐れみが含まれたそれが胸に刺さる。炎業で傷口を炙られるのは酷い痛みをもたらす。もう二度と経験したくない、苦い思い出だ。

 

「川村さんは看護班で唯一、氷業が使えるんだよ。麻酔がない時は無理にでも治療するしかねぇから、冷やして麻痺させてもらうのが一番だな」

「加藤、邪魔」

「ああ、すんません。じゃ、俺はもう行きますよ」

「向こうに滝沢さんが居るから、ここらの治療が終わったら花梗屋に行って備品もらってくるって伝えてくれ」

「了解です」

 

 加藤はさっと籠を持って立ち上がり、長い脚で颯爽と行ってしまった。川村は小さいナイフで僕の隊服を切り取ると傷の検分を始めた。背中か、いや腿が先だな、という呟きの後、取り出したゴムで脚の付け根を縛り上げる。

 

「いだだ、痛い痛い、痛いですよ……!」

「ああ悪いな。煩いから黙ってろ」

「適当すぎません……!?」

 

 彼は手袋を外すと、手を消毒し、僕の傷口付近に触れた。傷の上に手を翳し目を瞑る。間もなく冷気が僕の脚を包んだ。ごく繊細な作業だ。冷たすぎて壊死させてもいけないし、温すぎてもいけない。時間がかかりすぎて負荷をかけてもいけないし、早すぎても細胞に悪い。黙っていると、川村が顔を上げて目を細めた。

 

「お前、氷業か?」

「え? あ、ええ、はい」

「だからか。冷えに耐性があるせいで効きが悪い。業を強く掛けるが、我慢しろよ」

「はい……」

 

 ぱき、と小さな音が聞こえて、一気に脚が悴んだ。皮膚が凍み、骨が軋んで震えが身体を襲った。目を上げれば、川村は針に糸を通し、消毒した後に鮮やかな手際で傷口を縫い始めた。針が薄皮に侵入する緊張した空白、次いで僅かな痛みが傷を横断する。くるり、針と糸の回転。糸に引かれて僅かに持ち上げられる皮膚、ほんの僅かな出血で治まるように調整された針の深さ、時折薄らと透ける細い鉄色。ひとつ、塞いで結び目を作る。取り出した鋏で糸を切り、次の一針へ。その繊細な光景に僅かな吐き気を感じていると、再び溜息。

 

「苦手ならまじまじと見るな」

「わかりますか」

「苦手な奴とおかしな奴はよく見たがる」

「へえ」

「……俺たち天児の治癒能力はそこらの動物と同じだ。応急措置は応急措置でしかないし、『癒業』を使うことができるのは今のところ看護班長しかいない。どうも、そのあたりの仕組みはスターマンも同じらしいな」

 

 一呼吸をおいて、彼は話し始めた。僕の気を紛らわせるためだろうか。手は未だ蝶のように盛んに動き、作業が遅れる様子はない。

 

「スターマンはある程度の傷ならば自己治癒できるらしい。昔、吹っ飛んだ腕を再生させた奴に会ったことがある。それでも治りが遅いことがあるらしくて、そういうときは看護班長みたいに『治癒』の力を持ったスターマンに診てもらうんだと」

「へえ……詳しいんですね」

「こう見えても十年は働いてるからな。ある程度のことは知っておく義務がある」

「十年というと、今の塔主さまと同じくらいの歳ですか」

「……そうだな、ああ」

 

 川村は片眉を少しつり上げて、どこか不機嫌そうに頷いた。何か嫌なことでもあるのだろうか?

 

「今の奴らは殆ど『黎明期』の出身だ。俺はその一個上。『不作の百期生』さ。ま、そんな不名誉な呼び方をされても、俺は仕事で失敗したこと無いけどな」

 

 口を開く前に、はい終わり、と肩を思い切り叩かれる。痛みに顔を顰めるが、彼は素知らぬふりだ。文句を言おうと口を開いたとき、向こうからこちらにやってくる男性が見えた。思わずどきりとするような美男子だ。背は平均的で、すらりとした手脚をジャケットに包んでいる。やや長めの黒髪はハーフアップで纏められ、黒瑪瑙のような瞳は強い光を反射している。

 

「楓白、お前もいたのか」

「いや、西でつい先程まで任務をしていた。竜種を三匹。それで少し腕を切って、こちらの討伐大隊に看護班が付いていると踏んで来た」

「竜種三匹ぃ? さらっと言うなよ。やっぱり『灯台守』で『翼撃』持ちは違うな」

「どうも……って痛えよ、やめろ」

 

 川村が男を肘でどつく。彼の言葉を聞いてピンとくるものがあった。『灯台守』。塔主に次ぐ実力者たちで、曲者揃いと噂されている存在。男の右手にある深紅の鞭と川村の言葉からするに、彼は『波の灯台守』である花仙楓白だ。塔主に指名されるだけでも途轍もないことなのに、さらに実績を持っているとは、まったく稀有な人物に出会ってしまった。竜種を一体討伐するにも三人は必要なのに。彼は僕をちらりと見た後、やや声を潜めた。

 

「……一週間後、北で流星群が降るらしい。海辺の奴らは皆知ってる。詩人が小声で歌っていた」

「……まさか。この時期に?」

「詳しくは俺も知らない。見に行くつもりはない。お前もだろう?」

「今日は斗方まで行くつもりだが」

「既に幾つか降り始めている。よく見ていろ」

「ああ」

 

 そんな話は初耳だ。川村はよっぽどの星好きなのだろうか。それにしても、花仙は外見に似合わない詩的な話し方をするな、と驚いていると、花仙は再び僕を見た。検分するような眼差しは、ふと緊張で固まる僕から逸れて宙に向けられる。瞳はさらに黒く澄んで、異常な空気を纏わせていた。突然の変容に声を掛けようかと迷っていると、川村に腕を引かれた。

 

「黙ってろ」

「でも、」

「いいから」

 

 突然、花仙が口を開いて独りで話し始めた。ぎょっとして川村を見れば、妙な生き物を見るような目で見てくる。こちらも同じような目をしている自信がある。

 

「北、東、影は? 五つずつ、そうか。北には俺が行く、彼問にいる神兵討伐大隊の軽傷者と看護班を東に動かすと……ああ、雪後に伝えろ。それから清瑞に、明日に飛魚に寄るから例の箱の処分を手伝うと伝えろ。雪後が優先だ」

 

 幾つか呟いた後、花仙の目は元に戻った。何事も無かったかのように腕時計を確認し、川村の木箱から道具を数個取り出して腕の手当をし始めた。未だ混乱している僕を見て、川村が口を開いた。

 

「なんだお前、口寄せを見るのは初めてなのか?」

「く、『口寄せ』?」

「さっきのだよ。霊と会話してるんだ。そいつらを経由して同じ力のある奴と連絡を取り合ってる。ちなみにこいつ、自分に向けられた心を読むこともできるから、失礼なこと考えてると一発でわかるぞ」

「ええ……」

「変な奴だと思っただろう。まあ、いい。ここの隊長に話をつけてくるからさっさと準備しろよ、凉。道中に斑の群だ」

「運がねえな」

「日頃の行いのせいだろ」

「んだと」

「それよりそこのお前、気をつけろよ。その背中の傷、前にも負傷している位置だな? 戦い方に癖がついているか、もしくは――」

 

 なんてな、と呟いて不思議な美男子は去って行った。瞬間、ぞわりと悪寒に襲われ、鳥肌が立つ。強い日差しがかえって不気味な静けさで僕の肩を温めた。花仙の、筋肉の動きに合わせて動くジャケットの背、そこには。

 

「黒い龍と桜、切っ先……」

「な、わかっただろ。彼奴は霊能の塔、十桜の隊員。……百期生さ」

 

 川村はどこか得意そうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.Cnimus  それが胸にあるという考えも一理あるだろう。胸は沢山の臓器で満たされている。

             しかし、脳に支配された肉体は、まったくの空虚であると言ってもいい。

 

 

 

 

 

 音も立てずソーサーに着地したカップの中で、薔薇色の水面が揺れていた。薄いピジョンブルーの柔らかな髪、その下の真っ直ぐな睫が上下して、紅茶よりも濃い紅色の瞳が静かにのぞいた。その瞳の奥の炎が雄弁に、彼の正体を語っていた。全天21煌であり、メリディエースのひとり、南の魚の王――フォーマルハウト。彼の拠点のそばを通りがかった私を座らせて、なぜか一緒にお茶をしている。日中の強すぎる日差しはもう沈み始めていた。

 

「ほんとう、嫌になっちゃうよね。ついこの間チナンの東で『獣の巣穴』を三つも潰してようやく帰ってきたと思ったら、今度はゼペネに行って『お話』して来い、だってさ……同じ仕事をしたアンタレスとプロキオンは西で仕事ができるのに、俺だけ出張なワケ。旅好きだからってさ、忙しく外交するのも好きだとは言えないだろう?」

 

 男はぱちぱちと瞬きをする。その度に睫の先で赤い鱗粉のような火の粉が煌めいた。遠くから差し込むオレンジ色の、夏特有の夕日がテーブルの白を美しく見せた。じっと見つめていると、彼はくすりと笑ってカップを手に取った。今度も、音はしなかった。

 

「美しいだろう、なかなか良い審美眼を持っているみたいだね」

「ありがとうございます」

「美しいものを見つめるのは良いことだよ。その本質に気づくことができるんだ」

 

 目を上げると、あの紅色とぶつかり合う。よく見ると、瞳孔の黒を取り囲む光が青や黄金に揺らめいていた。まるで炎のように。ふと、視界の端で別の赤色が煌めいた。きらり、夜の薄暗さを際立たせるような光。カットされたガーネットの深みをそのまま引いてきたような赤い髪、身軽そうな背の高い身体をアイアンブルーの外套で飾り、コルセットから伸びた黒いリボンを風に遊ばせている。

 

「東にとんぼ返りだって? 災難だね、フォーマルハウト」

「お、君もゼペネの北まで行かないかい、『ナパピーリの英雄』さん」

「やめてよ、もう随分昔の話なんだから」

 

 薄闇から姿を現した女性は、印象的な釣り目を細めた。髪と同じ色の瞳は瞬きの度に、一瞬だけ青緑色に輝いて見えた。ちょうど、宝石が角度を変えて別の光を反射させたような変化。ヘルクレスの王、ラス・アルゲティだ。彼女は私にもこんばんは、と声を掛けてフォーマルハウトに向き直る。彼は椅子に座り直して、アルゲティを上目遣いに見上げた。

 

「君が来てくれたら、天児も直ぐに頷くと思うんだけどなぁ」

「またまた。きみだけでも脅威だろうに、どうせ独りでは行かないんだろ。誰を連れて行くの?」

「ペルセウスと麒麟、カペラにアルタルフ、そして俺。どうだい、ちょーっと威圧感に欠けるだろう?」

「十分だと思うけど。それに、私はこれから出かけるんだ」

「おや、どこに?」

「『ナパピーリ』まで竜退治」

「それは良い。気をつけて」

「きみも。じゃ、良い旅を、フォーマルハウト」

 

 彼女はくるりと身を翻すと、軽い足取りで去ってしまった。遅れてついて行くリボンが長い尾を引いていく。彼女のブーツが地を蹴る度にきらきらと舞う淡い光の粒を見つめながら、フォーマルハウトが紅茶を一口飲む。

 

「一週間後、ゼペネに行くんだ。天児の首領に、スターマンと手を組んで破壊者と戦うか勝手に滅びるかを選ばせるんだ。……どちらを選んでも戦争になるんだけどね。俺たち21煌は本格的に戦争を始めることにした。今度始まるだろう『第二十三次全天戦争』、そこで全て終わらせる。『天柱』――知ってるかい、天児たちの首領のことなんだけど――彼らの人数がここ二百年くらいで一番多くなっているらしいんだ。スターマンはこの好機を逃がすわけにはいかない。なんとかして味方につけて一緒に戦ってもらって……そうしないと、俺たちは滅びてしまうかもしれない」

 

 わかるかい、と言うので頷く。『破壊者』たちは年々力を増している。今はどの勢力も拮抗していたが、何時均衡が崩れるとも知れない。現に玄武が弱り、『四罪』のひとりが死んでからはフラグメンツの移動がより活発になっている。力をつけ始めたのは『破壊者』だけでは無い。彼らに生物兵器となるフラグメンツを提供している『施設』もまた、規模が大きくなり始めていた。ここ数年で妙な種類のフラグメンツも増え、星の力を持っているものや知性のあるもの、明らかに人間を使ったようなものが現れ始めた。逆に、スターマンの人数は少しずつ減少し、力も衰えている。全天21煌のように強大な力を持つものと、そうでないものの差が大きくなりつつあった。

 

「『破壊者』は、一体何がしたいんでしょう……」

「彼らは恨みを晴らしたいのさ」

「恨み?」

「そう。大昔の話だよ、『星』そのものの力が今よりもっと強くて、スターマンがもっと栄えていた時代。彼らの多くは熱心な星辰崇拝者でね、星の細胞を持った『花』を捧げて『星』に願いを叶えてもらっていたらしい。けれどあるとき、大きな流星群が降ってきて空が暗くなった。大災害がたくさん起きて沢山の生き物が絶滅したし、『星』も『観測者』もその使者たちも三分の一くらいが滅びた。もちろんスターマンも。厄災から助かろうとして、『破壊者』たちは危険を冒して『花』を捧げたけれど……結局、彼らの願いの殆どはかなえられなかったんだ」

「それで、復讐を……」

 

 カップを戻す。辺りは既に暗く、光の強い星々が夜闇に浮かびだしている。美しい暗闇、私たちの時間だ。フォーマルハウトは頷いて、小さな蝋燭に触れた。静かな熱が灯る。もしもその天災とやらが起きなかったら、もっと沢山の星が見られたのだろうか。

 

「『破壊者』たちは『星』から生まれたスターマンに目をつけたのさ。どういう経緯か知らないけど、彼らは天災の原因となった流星――この世界に昼が生まれた理由になった『蝕』と呼ばれている現象なのだけど――その『蝕』を行ったとされる獣たち"Eclipse"から『蝕』の方法を学び、その逆のプロセスで『遮光』を編み出した。そうしてできたのが"ECLIPSE"と呼ばれる新しい宗教団体、つまり『破壊者』なのさ。ちなみに『施設』の連中は好奇心が強くてね、彼らが作っているフラグメンツは"Eclipse"を目指したものなんだろうと言われているよ」

「"Eclipse"って、もう絶滅しているはずじゃ」

「うん、大分昔にね。今生きているひとだと、おおいぬ座のシリウスや、猟犬座のコル・カロリ、鳳凰座のアンカアが狩り尽くしているはずだよ。彼女たちはもう狩りのことを忘れかけてるらしいけど…………ボケ始めちゃったのかな。旅をしていると彼らの骨の残骸や痕跡を見ることがあるよ。噂に違わず、竜よりも巨大で強靱だ。並大抵の奴じゃ肉を裂くことさえ難しいだろう」

「へえ……。そういえば、その厄災については何処で知ったのですか?」

「ああ、天児が持ってる優秀な考古学のチームに宗教の研究をしている人たちがいてね。ニシヤという双子の兄弟が五、六年前に出した論文を見たことがあるんだよ。随分詳しく書いてあったし、信憑性も高い。実に興味深いよ。その礼も兼ねて、"Eclipse"の骨片や皮膚片でも持って行こうかな」

 

 いそがしくなるよ、と言いながら彼は立ち上がった。倣って立ち上がると、彼はにっこり笑って手を叩いた。先程まで座っていた椅子もテーブルも一瞬で消え去り、後には赤い火の粉のような物が舞うだけだった。

 

「逃げるなら今のうちだよ、美しい星。君がスターマンとして戦う必要は何処にも無いのだから。何か悪いことが起こりそうな気がするしね。事が大きく動くような、そんな予感が」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.Nnbes  帰路を隠すは白い幕。波間を跳ねる魚のように、翼を広げるあなたの影があった。

        狼煙を上げろ。戦いが始まる。

 

 

 

 

 

 走れ、もっと速く。コンクリートの街を抜け、二手に分かれて森の方角へ。水路を飛び越えたところで三人と合流。はやく市街地から離れなければならない。ゼペネを離れたここ、チナンではフラグメンツが溢れかえりスターマンも手を焼いている、というのは本当だったらしい。ここ数日だけでも何十体ものフラグメンツが目撃されていた。

 

「どこまで引きつけますか!?」

「むこう、あと数百メートル先に開けた場所があったはずだ、そこで……!」

「りょーかいです!」

 

 五人の上に、大きな影が三つ差す。空を切る鋭い音、羽ばたき。

 

「伏せろ!」

 

 部隊長の指示に反射で体勢を低くする。頭上すれすれを大きな物が通り過ぎた。斜め前を走っていた男性の頭部が吹き飛び、胴体がおかしな方向にねじ曲がって倒れる。悲鳴。今回の標的である、妖を使って作られたフラグメンツ『斑』の爪が当たったのだ。生臭い鉄の匂いに涙が滲んだ。少しだけ振り返ると、追ってくる六つの影。顔が無い犬の頭部、長すぎる四本の鳥の脚を畳み、大きなコウモリの翼を広げている。調査班の情報では『吸血鬼』と書かれていたけれど、正直何処を取って何と報告しても許されそうなくらいごちゃごちゃな身体だ。血でぬれた草を踏み、目的地を目指す。森が近いため、頭上高くを鳥が飛んでいる。

 

「待って、あれ、隊員じゃない!?」

「はぁ!? なんで」

 

 慌てて進行方向に目をこらすと、確かに隊服の外套が見えた。三人、全員武器を持っているため、どうやら斑の討伐隊ではなさそうだ。斑には武器よりも能力が効くし、武器が効くような相手は獣のフラグメンツ『神兵』で、その両方が必要なのが星の力を持つ『妖星』である。つまり、向こうに見える三人は神兵の討伐隊である可能性が高い。彼らもこちらに気づいたようで、俺たちの後ろをついてくる斑に顔を強ばらせた。

 

「おい、どうした!?」

「市街地から離れてきた! そっちは!?」

「神兵を追ってきたんだ、逃がしちまって、」

 

 応答と同時に彼らの後ろに巨体の狼のようなものが群れで現れた。数は五体。なんということだ、別の部隊とかち合ってしまったのだ。基本的な隊員数は五人だが、別隊には三人しかいない。残りの二人は負傷で離脱したのか、それとも……。

 

「とにかく何とかしないと……! このままじゃ全滅だ」

 

 仲間と距離を取らねば神兵に一網打尽にされてしまうが、分断されると斑の攻撃を四方八方から受けることになってしまう。こちらは斑の討伐に慣れていても、神兵の討伐経験は少ない。どうする、どうしたらいい? 敵は待ってくれない。隙を突いて飛び込んできた巨大な狼がすぐ隣にいた三留の男性にのしかかり、頭部を咥え込んだ。突き飛ばされて尻餅をつくと、すかさず別の個体が寄ってくる。

 

「ぎゃああああああッ!!!」

「ひっ!」

 

 劈くような悲鳴と、頭蓋骨が砕かれる音。狼が首を激しく振るせいで、襲われた彼の首は今にも引きちぎられそうだ。血と脂、生臭い臭いが忽ちに広がる。体勢を整えて回避。立ち上がって手のひらに意識を集中させる。大きく息を吸って。熱が腕を駆け抜けた。

 

「『火箭(かせん)』!」

 

 炎業。手の内に生まれた火球を近寄っていた神兵の顔に目がけて撃つ。怯んだ獣が後退るが、ふと見た足下に影。背後。完全に振り返る前に、細い槍が斑の頭を刺し貫いた。同時に熱気。

 

「『營炎(ようえん)』」

 

 熱業。『四核』の派生塔、『九否』で生まれた業だ。肉の焼ける臭いが鼻をうつ。刃を引き抜かれた頭蓋は、大穴から血を垂れ流しながら揺れる。穴の中は焼けただれて異臭を放っていた。顔を顰めると腕を引かれて立たされる。熱業を使った青年が、凄みのある表情で周囲を警戒しながら呟く。

 

「貸しだ」

「はあ!?」

 

 突然の発言にイラッとして叫ぶと鬱陶しそうな一瞥。――これだから九否の連中は! 普段は華やかな雰囲気で物腰の柔らかそうな態度をしておいて、一火の前になるとずけずけと勝手な発言をする。どちらが本性か知らないが、見た目ほど柔らかくも繊細でも無く、寧ろ一火より泥臭くて武闘派なんだ、騙されてはいけない。胸の内で叫んでから青年に目をやると、彼は何やら緊張を滲ませた顔をしていた。斑も神兵も、じっと息を潜めている。

 

「おい、どうした?」

「いや、何というか……空気が湿っぽくなってないか?」

「え?」

「副隊長、気圧がどんどん下がってます」

「お前か?」

「いえ、私ではこれ程の早さと規模ではできません。そちらに風業を使う方はいませんか?」

「いない」

 

 『八』の女性に青年が返すと同時、こちらの隊にいた『四核』の女性――たしか正体は雷獣だった――がはっとした表情で空を見上げた。秋晴れの青く静かな空だ。雲は一つも無いし、一羽の鳥も飛んでいない。一羽も。静かすぎる。この異常な緊張感は一体何だ?

    鋭い鳥の声が静寂を引き裂いた。

 

「鷹……!?」

「な、何だ!?」

 

 突如、先程まで晴れ渡っていた空に暗雲が立ちこめた。周囲が夜のように暗くなり、皮膚を走るような緊張感がその場にいた全ての生物を圧倒した。フラグメンツでさえ、身を固くして空を見上げる。

沈黙。

空白、一瞬、雲間を駆け抜けた紫。

スパーク。

天を飛ぶ龍のように、放射される光。

一拍、遅れて獣の唸りのような大きな音。

何かが近づいてくる。

静寂、数瞬。

空を這う閃光と水を激しく打ったような音。

同時に力強い雷と轟音が空を引き裂いて俺たちとフラグメンツの間に、落ちた。皮膚を駆ける畏怖に背骨が震える。目も眩むような光、びりびりと震えるその落雷の中心に、ゆらり、人影が立ち上がる。

 

「はぁ……あっつ、てか湿気うざい…………」

 

 明滅の収まった場所に立っていたのは一人の男だった。翻る黒い外套、その裾から覗く右手の薬指には翼を模した大きな銀の指輪がある。黒い短髪を風に揺らす気だるげな背に、塔章を背負っている。雷を纏う大鷲、南天の葉、『八』。自然現象を操り、地の利を作り出すことができる、最も平均能力値の高い塔。どうして彼がここに?

 

「吉川さま!」

 

 先ほど気圧を読んだ女性が、感極まったように叫ぶ。

 雷と共に現れた男は、塔の頂点に君臨する最強の天児、『塔主』の一人である吉川稀助だった。フラグメンツは強烈な星の気配に沸き立ち、興奮して吠え立てる。吉川が煩わしそうに睨みつけると、地面を青い電流が走った。

 

「うるさい」

 

 彼の指が僅かに摺り合わされると、彼を中心に強い電流が放たれる。隊員を全て避け、うねる雷は全てのフラグメンツを捕らえて一瞬で焼き焦がした。すごい。自然と口からこぼれ落ちた呟きに、女性はますます嬉しそうに目を輝かせる。全ての敵が地に伏せたのを確認し、吉川はくるりとこちらを見た。いつの間にか雲は消え、射した日の光が彼の黒い瞳の底を照らし出す。そこには僅かな焦りが滲んでいる様にも見えた。森の奥から、何かを引きずる音が聞こえる。真っ直ぐにこちらを目指して。

 

「今すぐここを離れろ」

 

 言うが速いか。森の木をなぎ倒しながら現れたのは、白い、

 

「蛇……?」

「下がれ!」

 

 突然飛来した水の塊が電流に取り囲まれて蒸発する。吉川が庇ってくれたようだ。後退して乱入者を見上げた。高さは優に五メートルはある。膜に包まれたような白い皮膚を持った人間の上半身、口は蛇のようで目は無く、自分の肩を抱くように組まれた腕の片方は蛇の姿をして怪物の首を締め付けている。下半身は蛇の尾で、長さは十メートルはあるだろうか。今までに感じたことの無い恐怖が脚を竦ませる。

 

「始原のフラグメンツ、その中でも最も古い、はじまりの『アダム』……」

 

 九否の男が呆然と呟いた。『施設』が作り出すフラグメンツは生物的な面では失敗作ばかりだと言えるだろう。けれど何千年も前に作り出されたと言われる最初の四体――はじまりの『アダム』、終わりの『イヴ』、苦痛の『ノア』、怒りの『パンドラ』――彼らは知性があり、完成されたフラグメンツとして知られていた。天児最強の塔主でさえ彼らには敵わない。歴代の塔主の死因は殆どが彼らによるものだった。この『アダム』も、十年前の全天戦争で前代の四核の塔主を殺している。見るのは初めてだ。再びアダムの周囲に現れた水が、今度は凝結して矢のように降り注いだ。間一髪避けることができたが、濃い血の臭いが広がった。誰か、死んでしまったかもしれない。つぎは俺か?

 

「塔主さま、」

「離れろ」

 

 彼の身体が電気を帯びる。逆さ雷、赤みを帯びた光の龍が空を這って消えた。隙を突いて打ち込まれる氷の礫を避けながら、吉川は後退する。彼を追う蛇の尾が地面を叩きつけて揺らす。足を取られそうになった吉川は距離をとるために走るのを止め、尾に近づきすぎないように同心円を描くように動く。

 

「人間が戦うような相手じゃ無えだろ……『啼蛇(なきかがち)』」

 

 電流が蛇のように蛇行しながら凄まじい速さでアダムに肉薄する。雷が直撃したアダムは上半身を激しく振り回しながら後退る。制御を失った氷が無造作に降り注ぐ。しかしアダムの体表は火傷の痕も無く、腕は僅かに痙攣していたが動きに鈍った様子も無い。滑り込む動きで一気に吉川との距離を詰め、捻る身体で尾を振った。吉川は僅かに跳躍し、膝を使って尾を蹴ることで詰められた距離を離す。着地までの隙を狙った巨大な水の塊がアダムの周りに漂う。あれに捕らえられたら、いくら塔主でも脱出は難しいだろう。絶望的な状況に声が出そうになったとき。

 

「『天氷(あまつらら)』」

 

 浅い男の声、夥しい数の氷柱がアダムに降り注ぎ、体表に薄い切り傷を作った。氷柱は水塊を凍らせて落とす。次いで、鶯、と言う声がすると、何も無かったはずの宙に四口の短い日本刀が出現した。

 

「『鶯合わせ』、……向日葵、『空(うつお)』」

 

 ピィと鳴き声のような音を鳴らし、宙に浮いていた刀たちがアダムを縦横無尽に切りつけた後、頭部に向かって集約する。アダムは金属音のような音で吠えると巻き付いていた片腕の蛇で刀を振り払う。そして頭上に降ってきた白いもの――白い外套と髪の人物が体重を乗せて振った長大な刀を、その人ごと弾き飛ばした。空中でくるりと宙返り。間髪を入れずアダムに飛び込んで行ったのは純白の龍。肩口に噛みついた瞬間、炎が巻き起こる。龍はすぐさま離れ、空を旋回すると咆哮した。広がる光に一瞬目を閉じ、リンと響いた鈴の音に再び目を開けたときには龍は消え、二つの白い人影が空から落ちてきていた。二人は難なく静かに着地するとこちらを振り向く。

 

「やっほー、稀助。赤い雷を見て、一緒にお茶してた雨覚も連れてきちゃった!」

「南二百メートルに『イヴ』。北上してきてるよ、あと数秒でこっちに来る」

 

 先程の刀を持っていた人物は背の低い男性だった。その特徴的な外套から塔主であるとわかる。小林雨覚、『五柳』の塔主にして『パンドラ』討伐者。特段目立った能力があるわけではないが、安定した戦闘能力と経験の多さで塔主に上り詰めた人物だったと記憶している。

 溌剌と吉川に声をかけたのは『九否』の塔主であり龍人の卯月裁花。龍の姿とは打って変わった黒髪と左耳の赤い耳飾りが揺れた。爛々と光る赤い瞳は情熱的だが、何処か冷静な色を宿している。白い着物に身を包み、左手には鈴のついた深い紅色の日本刀を持っている。俺の近くにいた九否の男性が、リーダーの登場に瞳を輝かせた。

 小林が何かに反応して、来た、と呟く。同時に蛇の鳴き声のようなものが聞こえ、アダムの隣に白いドレスを着た巨大なフラグメンツが現れる。体長は同じくらいだが手脚は無く、宙に浮いている。殆ど面影の無い顔は引き攣れて後頭部へ向かい、巨大な蛇の頭部へと繋がっていた。口は黒いベルトで縛られ、目だけが強い緑色に光っている。三対二、分が悪すぎる。同じ事を考えたのか、吉川が顔を顰めた。

 

「他の塔主は」

「私の可愛い弟妹は仕事でお留守番。刑告も斑の討伐中だし、雨覚がこっちにいるから排歌はゼペネに残ってるわ」

 

 戦力的に問題あるけど流石に二人同時に抜けちゃうのはね、と卯月が溜息をつくと小林が続く。

 

「ここに来る途中で戦闘中の断丸を見た。それからスターマンの――」

 

 言葉を切る。雲雀、と呟く男の声。卯月と小林の間に大きな尾が叩きつけられる。躱した二人は短刀を抜き、引いてゆく尾に突きつけた。やはり重いのか僅かに小林が引きずられ直ぐに刀を引いた。卯月は突き立てた刀に力を込め、ぐいと切り込む。彼女が引いたタイミングで尾を追うように雷が走る。

 

「切れた?」

「ううん」

「やっぱ硬いわね、刃が通んないわ。熱業で通るもの?」

「雷業でも身体の芯までは通った感触が無い。切り傷でもつくって流し込めば違うだろうが……っ」

 

 魚の群れのように飛び込む数多の水。吉川の雷に包まれて蒸発するが、僅かに残ったものが氷塊へと変じる。礫と吉川の間に滑り込んだ卯月が刀で弾く。刃のように帯となって打ち付けられたイヴの水を、一歩前に出た小林が翳した両腕で凍結させて返す。真っ直ぐアダムへと飛んでいった氷はイヴの頭部に防がれたが、傷のついた様子は無い。

 

「あいつらも動き回ってるし。んで、あんたは刀使えないしね。私たちの身体を通したりなんてしたら、先に私たちの方が消し炭だわ」

「断丸の風業で抑えられないかな」

「あいつら抑えられるくらいの風なんて吹かせたら、皆飛んでっちゃうわよ」

「龍の状態なら歯が通るんじぇねえの」

「嫌ね、あいつに超接近戦なんて。雨覚のほうが向いてるでしょ。それに龍としてなら裂のほうが強いし」

「あー、面倒だな。排歌がいれば今頃、解決策の一つや二つ出てた。……いっそ『涯業』でも使えば攻撃通るんじゃないか。リスク高ぇけど、早く終わりそうだ」

「やるなら援軍が来てからだ。今は危険すぎるよ」

「稀助、あんた相変わらずの脳筋ね。役割分担、雨覚はサポート、稀助は攻撃、私は防御。薙丸程じゃないけど、力には自信があるから任せて!」

 

 素早い動きで近寄ってきたアダムが重い尾でなぎ払う。最も近くにいた小林が、向日葵、と呟き手にした身の丈を超える大きな太刀で地を刺し食い止めようとするも、弾き飛ばされて左へと吹き飛んでいってしまう。多少勢いの弱まった攻撃を、卯月が構えた短刀で押さえ込むように食い止め、押し返す。黒い下駄が地面に深い溝を生んだが、卯月の口元は笑っていた。

 

「あー重い! ホームランね、雨覚は」

「あいつ何処まで飛んだ?」

「ざっと五十メートル。着地の音がしたから、戻るまであと六秒」

 

 アダムとイヴが一瞬動きを止めた、と思ったら森一つ覆えそうな程の大きさの、厚い水の層が宙に生まれた。

 

「まずい、防げるか!?」

「こっちはね、けど規模が大きすぎて後ろの子たちが無傷でいられるかは、」

 

 いよいよ押し寄せる水の塊に心臓が早鐘を打つ。一か八か、炎業で緩和できるだろうか? 構えた両手に大きな炎をイメージして、

 

「『火せ――』」

「『煙焰天漲(えんえんてんちょう)』」

 

 天を、炎が焼いた。夕焼けの様に辺りが真っ赤に染まり、圧倒的な熱量が水の膜を一瞬で蒸発させる。ごうと吹き荒れる熱風が目を塞ぐ。前にいた二人は一瞬顔を見合わせて脱力したように見えた。

 

「よお、助けが必要かよ、稀助?」

「お前を呼んだわけじゃねえけど」

 

 せっかく来てやったのによ、からりと笑う男の声に振り返る。熱風に揺れる黒髪、その間からこちらを射貫く黒い瞳の奥には燃える炎が揺れている。歩調にあわせて翻るジャケットの裏地は深い赤、炎を纏った両手は黒い指ぬきグローブで覆われている。入隊前、街を襲った神兵の群れを二十五体同時に討伐し『其守』の実績を手に入れた、『大火の瞬(たいかのまたたき)』と呼ばれる伝説を持つ英雄――一火の塔主、鈴木逸頼、そのひとだ。高いカリスマ性と豪気さに魅了され、一火の多くは彼を『大火神(おおのひのかみ)』と呼ぶ熱狂的なファンである。そんな人物が目の前にいて、さらに間近でその火を見られるなんて。思わずじっと見つめていると、彼の目がふとこちらに流れ、目が合ってしまった。

 

「お? お前は一年前に入隊した奴だな、よく覚えてるぜ。半年前の十玥(とがち)防衛戦で『火箭』の命中率が九十パーセントを超えてた。……今回もよく持ちこたえたな、後は俺たちに任せろ!」

 

 そう言ってにかりと笑う。尊敬する人からの言葉に感動で打ち震えていると、イヴの頭を避けて後退してきた卯月が刀の鞘で鈴木を小突いた。

 

「気障ね……いつもはそんな殊勝な事言わないくせに、格好つけてんじゃないわよ。そんな暇あるならさっさとあいつらの体力削りなさいよ。あんたじゃ傷一つ付けられないんだから」

「ハァ? 人のこと見てる暇あんならあいつらの動き止めるくらいしろ。手前じゃ火力不足で決定打にならねえ」

「お前ら言い合いしてないで手伝え!」

 

 前方から吉川が叫ぶ。二体のフラグメンツの間を縫うように電流が流れ、それを上手く躱しながら二口の短刀で切り込む小林の姿。刀の纏った水が氷に変化してイヴを切りつける、アダムの放った激流がそれを折って小林に迫る。次にやや短い日本刀が彼の手の内に出現し、彼に握られ氷を纏って水流に潜る。流れは凍り付いて曲線を描き、小林は刀を放して駆け上がりアダムへ接近。イヴの水が降り注いで、回避。追尾していた吉川の電流が網状に広がって小林を守る。くるりと宙返りする、彼の手には先程手放したはずの刀が。

 水と氷の二つの業、現れたり消えたりする刀に混乱していると、鈴木が声を掛けてきた。

 

「雨覚が気になるか?」

「ええ、はい。あの、彼は二つの業を使うのですか、それと、あの刀は……」

「ああ、あいつは陰性が氷業で、密度を調整して水を作ってる。前の塔主から見て覚えたっつってたから、威力は弱いし能力値も低い。あいつの真価は『呼業』だろうな」

 

 『呼業』? 聞いたことも無い業だ。察したように鈴木が笑う。

 

「最近じゃ珍しい業を使う奴も増えたよなぁ。呼業ってのはまあ……読んで字のごとくなんだが、ものの名前を呼ぶことで引き寄せることができる業だ。さっきから花の名前や鳥の名前呼んでるだろ、あれはあいつの持ってる刀の名前だ。意味不明であやふやな部分も多いけど、大雑把に言えば『仕組みのわかっているものに干渉する能力』らしい。密閉された物に物を入れる、融合させる、分解する、空中に武器を仕舞う、とか。いろいろ制限付きで戦闘じゃ一見役に立ちづらく見えるが小回りと機転がきいて便利だぜ」

 

 ほら見ろ、と指された方。アダムの蛇の左腕に脚を巻き取られた小林が空中で身を捻っている。あっと思わず声が出るが、周りの塔主は至って冷静だった。彼の脚が折れる、と思った瞬間、その腕が不自然に弛緩した。アダムの絶叫が響く。鈴木は苦い顔をして左腕を摩った。

 

「あれだよ、あいつは超接近戦が得意なんだ。アダムの腕の骨溶かしやがった。……ありゃ痛えよ」

 

 経験談ですか、と思わず聞きそうになってすんでの所で飲み込むと吉川から声がかかる。

 

「逸頼! いつまでぼさっとしてる、消耗戦になるぞ!」

 

 同時に飛んできた氷は鈴木の手に触れられて昇華した。彼の掌を照らす真っ赤な炎が球体になる。

 

「『火箭』」

 

 弾のように打ち出される火球が勢いよくアダムを叩く。焼けてボロボロになった皮膚に卯月が刀を刺し、そこから吹き出した炎が裂傷を深くする。炎は蠢き、刀の抜かれた傷口に潜り込んで細胞を溶かす。振り回された尾を踏み台に回避した卯月がアダムの胴を力一杯蹴り飛ばした。バキッと派手な音がしてアダムの上体が倒れるとすかさず龍に化け、炎を纏う牙で首を狙う。イヴの飛ばした水が割り込み、離脱して旋回、地面のすれすれを飛んで小林を鷲掴みにすると上空からアダムの上に落とす。時鳥、風信子、呟き両刀を掴むと左に掴んだ長い方の刀をを上空へ投げる。卯月は柄を咥えると恐ろしい速さでイヴに接近、蛇の首をなぞるように飛んで切りつけた。龍の力によって僅かに食い込んだ切っ先が長い切り傷をつくる。鈴木の手から放たれた炎がイヴとアダムの水を一度に蒸発させ、その湯気の隙を這う雷がイヴの傷を舐めた、途端、ボッと大きな音と共に湯気の向こうから薙ぎ払われたアダムの尾が吉川を狙う。間に割り込んだ小林が長い刀に氷を纏わせ地に突き立て、数瞬遅れた卯月が人型となってその刀を抑える。避けた吉川の胴にアダムの左腕が直撃し、先にある蛇に噛みつかれそうになったところに小林の短刀が投げつけられて頭部を貫通する。大きく後退した吉川が鈴木の隣に並び立った。

 

「くそ、折れるところだった」

「先にアダムの左腕を潰そう。骨が無いとは言っても振り回されるだけで邪魔くせえ」

「裁花と雨覚に任せる、俺たちにできるのは追撃ぐらいしか……」

 

 そこへ、大きな影が差す。新たなフラグメンツかと慌てて見上げると、そこには卯月よりも二回り巨大な白い龍。白く硬い頬に白銀の鬣、翡翠の大きな瞳が鋭く戦場を見下ろした。卯月と小林が数歩引いたのを見て身体を翻し、アダムとイヴに襲いかかる。身体に風を纏って飛び回り、大きな嵐を巻き起こしアダムに一つ噛みつくと、再びこちらに戻ってきて着地した。常に身体の周りを吹いている風が近くにいた塔主たちの外套や髪を揺らす。龍が大きく咆哮すると渦巻く風が強まり、白い鱗が魚群のように舞い上がった。風に乗って木蓮の香りが広がり、最後に柔らかな波を起こして風が止んだ。龍のいた場所には背の高い着物姿の男性が立っている。黒く長い髪を一つに結い、腰に刀が差してある。黒い羽織には二型の塔章。

 

「もしかして出遅れちゃったかな」

「断丸、あんた遅いのよ!」

「ごめん裁花、スターマンが二人いたから追ってたんだ。こっちに向かってたから援軍だと思うよ。それにしても、稀助の鷹が案内してくれたから助かっちゃった」

 

 卯月の兄、同じく龍人であり二型の塔主である皐月断丸。ぱちぱちと瞬く翡翠は柔らかな色合いで、荒々しく思われる龍にはとても見えない。彼は直ぐそばにいた吉川に話しかける。

 

「作戦は?」

「無え」

「無いって……どれだけ脳筋なのさ」

「アダム、左腕。体表が硬いから俺と裁花で傷を付けて二人が追撃」

 

 下がってきた雨覚が説明をする。皐月は一つ頷いて、思案するように首を傾げる。

 

「来るときに赦理を乗せてきたから、そろそろこっちにも参加できると思うんだけど」

「なら、マークが要る。雨覚の短刀の反射と稀助の雷、俺の『火箭』でポイントすれば意図に気づいてくれるだろ。その辺りから距離を取れば赦理も安心して攻撃できる。あいつの鉛が通らなかったことは無え」

 

 逸頼の提案で一同が配置についたとき、凄まじい光がアダムとイヴに直撃した。二体は後ずさりながら咆哮する。星のような輝きは一瞬で霧散し、二人の男女が塔主たちの前に降り立った。鈴木が警戒するように顎を引く。

 

「何だ」

「スターマン、さっき断丸が言ってたひとたちじゃないの」

 

 二人は深く礼をすると顔を上げた。どちらも薄い銀髪で、男は青緑に薄い黄色が浮かぶ瞳をもち、女の方は美しい水色の瞳をしている。女が右手に持っていた槍を一振りすると、それは光の粒となって霧散した。

 

「突然の介入、失礼いたしました。私たちはスターマン……いえ、ここでは『青の一族』の者といっておきましょう」

「『青の一族』!?」

「……逸頼、話は後にしよう。きみたち、――『青の一族』、俺たちはアダムの左腕を落としたい。可能なら致命傷を負わせる。イヴの足止めを頼める?」

「良いでしょう、わかりました」

 

 返事を聞くが速いか、小林は真っ直ぐアダムに向かって駆けだした。吉川と鈴木の業が先行し、アダムを襲う。一方ではスターマンと龍の兄妹がイヴを妨害している。イヴの周りに浮かぶ水は皐月の風によって動きを鈍らせ、卯月が作った傷口にスターマンたちが武器やスピリットで追撃する。

 アダムに投げつけられる刀は、日を反射してキラ、キラと光る。吉川の雷も、鈴木の炎も、寸分違わずに左腕を狙った。尾による攻撃は徹底的に避けられ、避けきれなかったものは雨覚が威力を弱める。暫くの攻防の後、アダムが突然不自然に上体を揺らした。何処か遠くで、タン、と静かな音。鈴木の口元が笑みに歪む。同時。アダムの肩が弾け飛んだ。傷口は鋭利な刃物で執拗に切り込まれたようにズタズタに裂け、骨も複雑に千切れている。ゴトンという音を立てて腕が落ち、アダムの耳障りな絶叫が響く。

 

「赦理が来た、駒がそろった!」

「野村さんが……!?」

 

 一体何処に、と隊員が見回すが、『七ノ是』の塔主である野村赦理の姿は何処にもない。いつの間にか下がってきた皐月が周囲に目を向ける。

 

「んー、ああ、あそこかな? あ、鏡が光った。すごい視力だなあ、人間なのが信じられないや」

「さっき急にアダムの肩が裂けただろ、あれが赦理の銃弾だ。鉛を撃ち込んで体内で分裂させ、飛び散った破片をもう一度集約させてるらしい、っと」

 

 再びアダムの尾が割り込んでくる。塔主たちは難なく避けたが、攻撃に転じる様子はない。イヴはまだ上手く足止めを食らっているようで、皐月の代わりに吉川が攻撃を仕掛けている。アダムは再び水塊を浮かべた――が、それは力を失って地に落ちた。

 

「そろそろか」

 

 鈴木が呟くと、アダムが身体をくねらせて暴れ回る。小林が想思鳥、と呟いて宙から引き出した鋭い短剣を龍となった皐月が器用に咥えた。刃に触らないでという忠告に頷いてアダムへと近づいていく。先程できた傷口に一度だけ刺し込んだ。再び絶叫が響く。皐月は直ぐに離脱し、小林に剣を返してから人型に戻る。小林は丁寧に布で刃を拭くと、鈴木がその布を燃やしてしまった。アダムは少し動いたかと思うと身体を強ばらせて倒れ伏した。鈴木がすかさず炎で焼き尽くす。炎の中でアダムは暫く痙攣していたが、やがてそれも無くなり静かになった。小林が短剣を手に近づいたが反応しない。

 

「……死んだ」

「本当、」

 

 皐月と鈴木が同時に大きな息を吐いてしゃがみ込む。小林はイヴの方へと援護に向かった。その背を視線だけで追って、鈴木はもう一度大きく息を吐いた。

 

「赦理の、いや、遠藤さん、だったか。そいつと奥田さんの毒が無きゃ死んでたかもしれねえな」

「だね」

「あの、何が起こったんですか」

「赦理の撃った弾は鉛で出来てたが、その毒性を最大まで高める力を持った人が七ノ是にいて……。その業で中毒症状を起こした。もちろんアダム相手じゃ決定打にはならないし、即効性もない。だから雨覚が持ってた短剣に塗っておいたらしい毒、妖怪の奥田さんからもらってきたやつで仕留めたってところだ」

「奥田さんの毒、普通の生き物なら数秒で死んでしまうからね。アダムに効くのには少しかかったけど……そこはやっぱり始原のフラグメンツ故なのかな」

「ちょっと! あんたたち、イヴが逃げるわよ!」

 

 卯月の声に目をやれば、イヴはふわりと飛び去ろうとしている。相手をしていた卯月たちはそれぞれ怪我をしてはいるものの重傷者はいないようだ。突然、ガラスの割れる様な音が辺りに響いた。慌てて周囲を確認する。音の発生源はどうやらあの二人のスターマンのようだった。彼らの周囲には薄いガラスの破片のような物が舞い、彼らの皮膚も硬質になってひび割れていく。そして彼らの身体は崩壊した。

 

「え……」

「どうした!?」

「避けて、フラグメンツだ!」

 

 空気中に飛び散ったガラス片の群れの中から、何かの影が飛び出す。一方はフラグメンツほどに大きい鷲、もう一方は一回り小さい梟だ。その体表は生物と呼ぶにはやや硬質で、神秘的な白さを持っている。二羽は飛び上がるとイヴに接近し、周囲に浮かぶガラス片を飛ばして攻撃し始めた。爪で、あるいは嘴で、イヴの皮膚を切り裂こうと飛び回る。対するイヴも氷塊で叩き落とそうとする。

 

「待って、追撃は止めよう。深追いは危険だ」

 

 援護に回るのも危険な状態に終止符を打ったのは小林だった。その声に鳥たちは攻撃を止め、イヴは去って行く。二羽は地上へ降り立つ瞬間に再びガラス片の群れへと姿を変え、人の姿となって俺たちの前に立った。鷲は男、梟は女のスターマンだったようだ。彼らはやや不満そうにちらと空を見た。やれやれという風に疲れた顔をした鈴木に耳打ちする。

 

「良かったのですか?」

「怪我人が多ければ勝機は減る。死人を出すわけにはいかない」

「そうですよね……にしてもアダム、案外呆気なかったですね……?」

「馬鹿言うなよ、今回は運と戦力が良かっただけだ」

 

 それに、と鈴木は手を組んで前方に伸びをする。

 

「死ぬときってのは呆気ないもんだぜ?」

 

 鈴木の隣に立つ卯月は地に伏すアダムを見つめ、一言ちいさく呟いた。

 

「刑告、悔しがるかな」

「……どうだろうな」

 

 散らばっていた隊員たちが集まりだしているなか、小林は斑の死骸を熱心に見つめていた。静かに翼に触れ、惜しむように目を伏せる。そこには何か、フラグメンツに対する敬意のようなものが感じられた。

 

「何だか、珍しいですね。小林さまみたいな人って、処理班だけかと思ってました。塔にはフラグメンツを恨んだり、怖がったり、倒すことに誇りをもったりする人が多いじゃないですか」

「あー」

 

 鈴木は右の人差し指の付け根を揉みながら暫し思案した。

 

「悪いことは悪いって言えるが、個人よりも環境や原因を正そうとするタイプだからなぁ、あいつ。ひとや命の瑕疵にあれこれ言うことも、無理に正そうとすることも滅多に無えよ」

 

 小林は立ち上がってスターマンに話しかける。そばに駆けた卯月が元気に背中に飛びつく。卯月が何事かを話しかけると、よろめいた小林が笑う。先程まで鬼気迫る様子で戦っていた二人とは思えない。背の低い二人はスターマンの傍にいるとより小さく見えた。

 

「悲しみは悲しみのままに、傷は傷のままに。それがあいつの美学なんだよ、多分な」

 

 鈴木も皆の方に歩み寄る。二人のスターマンは目礼し、鈴木は片手を挙げて応えた。

 

「噂の、『青の一族』だな。今回は助かった」

「ええ、こちらこそ……。俺は青の一族『騎士』、かみのけ座のベータ・コマエ・ベレニキスです。こっちは――」

「同じく『騎士』、帆座のミュー・ヴェーロールム。よろしくね」

「俺は鈴木逸頼。そっちの二人が卯月裁花と小林雨覚、あっちの不機嫌そうなのが吉川稀助、でかいのが皐月断丸、後で合流するのが野村赦理。全員塔主だ。ここに集まってんのが隊員。んで、まず聞きたいんだが……あんたら、さっきのフラグメンツみてえな力、何だ」

 

 ピリリとした緊張感を滲ませて、鈴木は二人を見た。ベレ二キスと名乗った男は目を伏せて、意を決したように顔を上げた。女性の方は不安げに男を見上げる。

 

「この際、はっきりさせておこうか」

「ベレニキス」

「ヴェル、俺たちは話し合わなきゃ……。俺たち青の一族は、分類上はフラグメンツだ」

 

 ざわりと空気が揺れ動く。卯月や鈴木、吉川も明らかに殺気立った。小林と皐月も警戒したように二人を凝視している。ベレニキスは徐に右手を差し出して、手のひらに先ほどのガラス片のようなものを見せる。薄い欠片は彼の手の上で不思議な高い音を立てながらくるくると回転し、握られると消滅した。

 

「これが証拠だ。これはフラグメンツが特有の力――レムナントを使うときに表出するものだということは知っていると思う。青の一族は全員フラグメンツでありながら、理性を保つ存在なんだ。そして、俺たちの目的は施設を破壊すること」

「けれど、君たちはスターマンだろう? 何故フラグメンツに……」

「貴方たちの研究チームの上層部はもう気づいていると思うのだけど、『妖星』というフラグメンツはただ単に星の力を持った存在ではないの。彼らは元スターマンよ。施設は星細胞を持った生物のDNAを組み替えて別の動植物に移植する実験――『レセプター計画』を繰り返した。彼らはやがて知性のある完璧なフラグメンツを手に入れるためにスターマンをも使うようになった。DNAの組み換えや移植はとても難しい実験で、体や生命を保つのは困難なの。多くは体が崩壊し、腐り落ち、三日と経たずに死亡する。運よく生き延びても自我は崩壊しているし、自我が保てていたとしても調教の末に自殺したり、ショックで壊れたりする。けれど、本当に時々、正気を保ったまま生き残って逃げ出すものがいるの。それが私たち青の一族」

 

 元スターマン? それなら、彼らスターマンは同士討ちをしていたということになるのか? スターマンを恨んだ者たちが作り上げたスターマンの改造体を、彼らの殆どはそうと知らずに憎んで殺していたのだ。そして、俺たち天児も、殺したことがあるかもしれないということだ、特に塔主たちの多くは。込み上げる吐き気に思わず口元を覆う。塔主たちも皆顔を顰め、黙り込んで話を聞いている。

 

「例外は始原のフラグメンツね。アダムとイヴも元スターマン。ノアは獣をベースに多くの生物と何人もの人間やスターマンの脳を移植され、パンドラは太古の妖を基に作られた。彼らが施設で完成品と呼ばれ、手を焼くのは、その強さと意思があるから」

「……『完成品』って、随分妙な表現ね。傾向はあるの?」

 

 卯月が尋ねると、ヴェーロールムは指を四本立てた。

 

「私たちは彼らにとって生き物ではなく創造物だもの。傾向は……そうね、幾つかあるわ。まず、ベースとなる個体がアルビノに近いこと、成長期前であること、星細胞を持っていること。これは移植の成功率に反映されるわ。それから、孤児ね。親が施設の協力者である場合はその限りではないけれど」

「孤児なら足が着きにくいってことか。親が関係者なら取引の金銭問題や手間、誘拐の危険性が減る」

「クソが……古臭い因習のために子供を売る親が何処にいる」

 

 小林と吉川の呟きに、二人のスターマンは頷いて口を噤んだ。

 

「……私たちはまだいいわ、実験が進み正気を失う前に前に青の一族の幹部に助けられたから。今は子供や妖を保護したり、主要研究員を殺したりしているの。青の一族のことは数日前、既に全天二十一煌に知らせたし、もうスターマンの間には広がり始めているはず。こっちにも組織性があるから、『王』と『王女』、それから私たち二人の『騎士』くらいしかメンバーは明かせないけれどね」

「あそこで受けた仕打ちを忘れることはできない。たくさんの子供や生き物たちが今も残酷な実験を受けている。……フラグメンツは加害者ではないんだ。ひかりを欠いた死にかけの状態で生きるのは辛い」

 

 ベレニキスはアダムやフラグメンツたちの死骸を見つめた。彼らの中にも、多くの生き物の魂が混ぜ合わされて眠っている。このままフラグメンツの討伐を続けても良いのだろうか。確かにフラグメンツは俺たちを襲い、殺す。今日だって沢山の仲間が殺された。恨みは募っていくばかりだ。けれど、じゃあ、彼らは問答無用で殺されるべきなのか? さっきまで事実を知らずにただ討伐を続けていたような無責任な俺たちに、大義を掲げて殺されても仕方がない存在なのか? そんなはずはない。けれど。今日も仲間が死んだ。殺したのはフラグメンツだ。破壊者でも施設の人間でもなく、俺たちを殺そうとするのは間違いなくフラグメンツなのだ。先ほど鈴木が小林のことを話したように、直接の理由ではなく根源を恨むなんてこと、俺にはできない。そんなことができるのは塔主だけじゃないだろうか。俺たちとは違う、やはり何処か逸脱したものでなければ不可能だ。青の一族や、すでにパンドラの討伐を果たした百期生の小林のような、人間離れした能力ある人間でなければ。

 俺はきっと、明日もフラグメンツを恨むし、憎しみで彼らを殺す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.Ibola  私は正しい。私には裏も表も無いからだ。

         しかし永遠私についてくる影というものは、現れたり消えたり、あらゆる方向に居て、いつも嘘つきである。

 

 

 

 

 

 心臓が早鐘を打っている。十月から班に所属することが許された俺は、念願の調査班本部、『朝風函』で一番大きい調査指令室のドアの前に立っていた。何を隠そう、班長に挨拶し、初の仕事をもらうためだ。

 ──調査班は、塔のもつ十個の班のうちの一つである。戦闘員として隊に入っていない者でも研究や支援を行えるのが『班』だ。その中でも厳選された人員しか加入できない班のひとつに調査班がある。まず、例外的に隊員でなければ加入できない。しかも、階級は醒以上、灯台守と班長の認可付き。三回に渡るテストを行い、判断力、行動力、性質、身長や体重、運動能力、癖などを分析して選抜する。つまりいくら力のある人物の推薦であっても、定められ、現在求められている基準をしっかり満たしていなければ調査班には入れない。

 仕事内容は至って単純。塔外の組織から情報を盗み、フラグメンツの個体数と種を調べて報告·討伐隊の編成·依頼をし、新種のフラグメンツを討伐する。あらゆる僻地へ赴き、必要があれば戦闘する。故に条件が厳しい。機転や度胸、そして高い運動能力、加えてキレる頭脳が重要。危険度が高いが給料も高く、保証も素晴らしいために志望者が後を絶たないのだ。しかし人気の一番の理由は名声を得られるから。厳しい試験を抜け、危険ながらも栄えある班に入り、エリートとして行動する。それは周囲から嫉妬や羨望の目で見られることに繋がった。残念ながら、天児にも自尊心の高すぎる者たちはいたが、彼らの殆どは調査班に入ることは叶わない。その心を班長に見透かされているのだと、専らの噂だった。

 調査班の最も重要な性質は、『生き残る』ことにある。それは班員の命のことではなく、情報のことだ。何としてでも情報は伝えること。そのために、頭のネジが一、二本抜けた人間が必要になる。強い責任感や正義感、生き残りたいと願う醜いまでの執着心、死への恐怖心、他人を見捨てられる薄情さ、他人を生かそうとする自己犠牲の精神。どこかねじ曲がった性質を持つ多様な人間が多く配属されるため、統一感はないものの仕事はしっかり完遂される。それが調査班なのだ。

 さて、と気持ちを切り替え、意を決して重い扉に体重を掛ける。ドアを開けた瞬間、丁度出てきた背の低い隊員にぶつかりそうになった。しかし、突然その姿は消え、目の前に白い霧が立ち込めて俺を通り過ぎた。一瞬の後、背後に気配。ゾッとして振り返ると、黄色いメッシュの入る刈り上げられた髪の後ろ姿が、軽い足取りで去ってゆく所だった。

 

「な、何だ……?」

「おい、はやく入ってくれないか」

 

 堅い女性の声にハッと意識を戻す。いつの間にか霧は消えていた。

 

「悪かったな、あの子はうちの班員だ。周りを見ないところがあって……。お前もノックくらいしてくれ」

 

 室内に入ると、所狭しと積まれた紙類の間を行き来する数人がじろりと俺を見た。こういう目つきは好かないが、残念ながら調査班に入るような連中はこういう目の者が多かった。探るような目だ。室内は冷えていてやや暗く、壁は全て棚で埋め尽くされている。窓は天井にある小さいものだけで、射し込む光が舞う埃を薄らと照らしていた。中央にある大きな机に山と積まれた書類の間から声をかけたのは、驚くほど黒い髪を持った女性だった。

 

「調査班班長、十桜の雪後琳だ。これからよろしく」

 

 忙しく紙類の上を行き来していた左手を一瞬だけ止めて、彼女は真っ暗な夜色の瞳を上げた。一目で誰もが美女だと判断するだろう白い肌の顔に彫り込まれたやや細い目は長く量の多い睫毛に覆われ、隙間から覗く瞳は爛と輝いている。その漆黒にゾッとして目を逸らせば、彼女の目は再び紙面に向けられた。ペンを握る手はおおきく、関節にいくつかの傷跡がある。

 

「早速で悪いが、仕事を一つ。彼問地方にある鳩羽書籍館へ行ってくれ。新種生物の資料が入っている。記録班班長の三ツ矢という女性に直接渡すように。何時間掛かっても良いが……調査班に入れるくらいだ、脚には自信があるだろう。それが終わったら、明日の夜でいいから久樹地方の生栄にある過訓館へ行って、さっきの奴と合流して過真の調査資料を持ってくるように。彼女は現という名前で、今日にはジュピターと覗舎斗で資料を受け取っている筈だから……」

「ちょっ、待ってください!」

「なんだ」

「明日の夜って、今昼ですけど……!? 間に合いますか? しかもさっきの子って、ええ? ここからジュピターのある五百まで二千キロくらいあるじゃないですか、 五日歩いたって間に合いませんよ!」

「彼奴は業を使えばそこらの車より速いし、海の上なら直線距離で行けるからな。それに今は北風だ。疲れたら龍にでも獣にでも乗せてもらえば良い。お前も好きにしろ」

「いや、いやいやそれでも有り得ない速さですし、忙しすぎでしょ!?」

「声が大きい」

 

 動揺して叫べばぴしゃりと窘められる。と、硬質なノックの音が部屋に届けられた。雪後の片眉が神経質そうに釣り上がり、濃密な睫毛から覗いた瞳がドアをぎりりと一瞥した。俺もドアの向こうでこんな風に迎えられたのかと思うと肝が冷える。

 

「どうぞ」

「よー、雪後。なんか外まで聞こえてるけど?……新人か」

 

 入ってきたのは、びっくりするほどのイケメンだった。やや痩せて背が高く、赤みがかった茶髪に、耳には沢山のピアス。派手な風貌に似合わない無表情は、緩い視線と共に俺に向けられた。深い瞳の色にドキリとして目を逸らせば、彼は興味を失ったかのように顔を背け、雪後に書類を差し出した。

 

「清瑞。悪いがそこに置いておいてくれ。それと、頼みがある。此奴と一緒に書籍館まで行って、それから過訓館まで飛んでくれないか。お前に任務は無いはずだ」

「俺の愛機に乗せろって? 急すぎ……まぁ、いーですけど。駄賃」

 

 突然指されて内心跳び上がっていると、清瑞と呼ばれたその男の目が少々面倒そうに歪む。向けられた清瑞の手のひらを雪後はちらと見て、それから俺を見て、また書類に目を戻す。

 

「後で其奴から貰え」

「俺にとって価値のある物が此奴に出せるって思ってんすか」

 

 雪後の溜息、清瑞のあきれたような視線。

 ごもっともで。こんなイケメンが望むものを果たして俺が持っているだろうか。答えは否だ。

 

「私の友人をお前の部屋に貸し出す。それでどうだ」

「ふうん……新しい子が良いな、モリオンとか。天眼でもいい」

「残念だが彼らは掃除中だ、今は出かけられない。……小さいが、モリオンと不錆白銀でできたピアスならやってもいいが?」

「すっごく欲しい」

「決まりだな」

 

 モリオン? 直属の部下か? しかし、人とピアスを一緒に「やる」ってどういうことなんだ。班長はやはり人使いが荒いのだろうか、などと考えていると、清瑞は身を翻してドアに手をかけた。あわててついていくと、彼は徐に振り返って雪後を見る。

 

「雪後、此奴もう短いぜ」

「……そうか」

 

 よく分からないことを言い残して出ていく清瑞を追おうとすると、雪後の硬い声に呼び止められた。彼女は真っ直ぐな目で俺を見ている。

 

「本来なら久樹に行くのは私の仕事だったんだが、今日は夜に外せない任務があるんだ。……悪いな」

「あっいや、いえ……」

「おい、早く来いよ」

 

 再びドアが開いて清瑞が顔を出す。失礼します、と言って退室すると、眩しい陽光が網膜を焼く。数歩前を歩く清瑞に追いつくと、先程までとは打って変わって上機嫌に、そしてどこか得意げに彼は笑った。

 

「鉄の龍に乗せてやる」

 

 

 

 

 

 また重厚な扉の前に立っている。フラフラな足とダンスする胃袋を連れて。清瑞の言った「愛機」やら「鉄の龍」やらはバイクか何かかと思いきや戦闘機のことだった。朝風函の近くにあった小さな飛行場に行くと、清瑞は何人ものパイロットらしき隊員たちに声を掛けられていた。人を乗せるのですか、やら、珍しいですね、やら。数人が駆け寄ってきて、彼を「エース」と呼んだ時は驚いて声をあげてしまった。そばに居た隊員曰く、清瑞は飛行隊トビウオの中でも腕利きのパイロットらしく、龍型と呼ばれる機体を操る者たちのエースなのだそうだ。トップパイロットとしてはとても若く、彼の次に若いのは三つほど年上のウワジマという女性らしい。清瑞は俺と同い年くらい──最近成人したのだが──に見えるため、そのウワジマも相当若い部類なのだろう。

 しかし、その腕利きパイロットによる空中案内は……はっきり言って酷いものだった。あの時パイロットたちの憐みの視線を受け止め、話をしっかり聞いておくべきだったのだ──清瑞はその無茶苦茶な飛び方で有名だ、と。

 『龍』と呼ばれる型の戦闘機はその大きさ、重さ、何より火力の高さが人気の理由で、どんな大嵐の中でも、本物の龍に煽られようとも、安定して悠々と飛び続けられる機体なのだそうだ。しかも新人でも酔いづらいのだとか。重くて操縦慣れには時間が掛かるが、慣れればマスターするまでが早いのだとか何とか。飛行中に受けた清瑞からの説明は殆ど覚えていない。何しろイケメンによるドラマチックな空中エスコートで俺の心臓は酷くドキドキさせられたし、内臓は全員ダンスパーティーに参加していたし、はっちゃけすぎた胃袋のおかげで今にもゲ…………いや、この話は止そう。

 にこにこと送り出してくれたイケメン君と一時間後の約束を取り付けて鳩羽書籍館の第一資料室へ。もう二度と乗りたくないと考えながら扉を開ける。若くして記録班の班長だという三ツ矢はいったいどんな人物なのだろうか。

 

「失礼しまあす……」

「ミッちゃん、今日の中央都市での迎撃戦の事だけど──」

 

 さて、意外にも資料室は明るく、空気は澄みきっていた。壁や天井、壁を覆う大量の扉付き書棚は真っ白で清潔感があり、タイルだけは海のような落ち着いた青緑色。資料室というには大きな窓からはさんさんと日光が入り、静かな空間をより美しく見せていた。書棚の間を行き来しているのはたいてい小柄な若い隊員たちで、ときおり角を生やした龍人や巨大なトカゲ、氷でできた蝶の群れ、大きな武器を担いだ男女が棚の間を通る。

 入ってすぐ左の書棚の間に目的の人物はいた。アシンメトリの黒髪にぱっちりとした二重瞼をもつ勝気な釣り目の女性は、梯子の中ほどに座り込んで資料を読みふけっている。傍に立つ同い年くらいの女性は肩口で切りそろえた髪を揺らして班長を見上げていた。彼女は俺の声にパッと反応して振り返る。オドオドとした表情で俺を見た後、梯子上の女性に呼びかける。その女性もまたすぐに俺の姿を見とめると、一息に梯子を降りて前に立った。なるほど、その体捌きから記録班といえども腕の立つ人物であることが窺えた。

 

「初めまして、記録班の三ツ矢栞です」

 

  彼女は小脇に資料を抱えると、左手を差し出して握手を求めた。握手を返すと、人のよさそうな笑顔でもう一人の女性に視線をやった。

 

「えー、こっちはシーちゃん」

「シーちゃん……?」

「密花です……。滅多に会わないかもしれないけど、よろしくね」

「あ、うん。よろしくね」 

 

 彼女とも握手をする。意外にも彼女の指はしっかりと硬く、握力が強かった。手の傷は殆どなかったが、袖の捲られた腕にいくつかの大きな古い傷跡が見えた。気弱そうでとても隊員には見えなかったのだが、どうやらそれなりの経験があるらしい。目ざとく俺の反応を見た三ツ矢はふふんと笑った。

 

「気づきました? シーちゃんは『灯台守』なんですよ。『盾の灯台守』、河端密花」

「え、灯台守? 嘘だぁ……。でもカワバタって、あの名家の?」

「やっ……違うよ、想像している川反じゃなくて、分家のカワバタのひとつなの……。ミッちゃん! 言わないでよ……」

 

 川反といえば、ゼぺネの名家の一つだ。知略の紅斗、武力の鳴守、天賦の針嶌に研鑽の糸桐。そして永続の川反。彼らは多くの優秀な天児を輩出し続け、塔の伝統と威厳を守り続けている。それぞれ独特で複雑な文化を持っているのだが、川反は分家の多さと本家の長男に対する異常なまでの依存で有名だった。『河端』、『川将』、『河機』など、分家の数は数十にも上る。川反家の長男の多くは第六番塔の塔主として抜擢されやすく、歴代塔主の六割以上を占めているらしい。しかし、現塔主である霜月の前代である川反は力を扱いきれず、川反の名を汚したという話は有名だ。

 この河端も、恐らくそんな男の家の分家と知られるのが嫌なのだろう。ただでさえ名家の出身は目立つ。三ツ矢は呆れたように嘆息した。

 

「黙ってたってすぐ分かるよ。隠すようなことじゃないって。さて、君は……うん、今日から調査班配属の百二期生、入隊から三年で班に入るなんてそれなりの優等生ですね。五日前の午前九時二十三分に雪後さんからメールもらってますよ。新種生物に関する資料の提出。内容は両生類二種、昆虫類十三種、フラグメンツ『斑』の新形態個体三種……それから、えー、君について。総合評価は八ポイント六、筆記試験は七ポイント四でしたが、技能試験では九ポイント八。以前の……半年前の実技試験より一ポイント八増加していますから、その成長を認めての配属許可だと内藤さんがおっしゃってましたね。じゃ、資料提出を」

「今のって雑談……?」

 

 あまりに正確で赤裸々な話に羞恥心が沸き起こる。河端を見やれば、強張った微笑でこちらを見るだけ。此処じゃ何ですから、と奥へ向かう三ツ矢の後を追いながら問いかける。

 

「あー、何でそんなに覚えてんの?」

「君の試験結果を集計したのは私ですから」

「にしたって、他人のことをいちいち全部覚えてらんないでしょ、普通は」

「ああ、そんなことですか」

 

 ふむ、と彼女は思案した後、河端の方をちらりと見てから口を開いた。

 

「私の能力は『記憶』。古いスターマンたちと同じくらいの記憶力を持っていて、生まれてから現在までの出来事を全て記憶しています。実は私は業を持っていません」

「すごいな、だったら良いことだらけじゃないか。試験だって満点だろ」

「良いことばかりではないですけどね。忘れたいことだってたくさんありますよ」

「それでもさ、良いことの方が多いだろ」

「持つ者は持たざる者の苦悩は理解できませんし、その逆も然りですよ」

 

 三ツ矢は呆れたような表情で俺の手から資料をひったくると梯子のある区画へと足を進める。彼女の外套に描かれた柳と蛇がゆらゆらと蠢いていた。蛇の青緑の瞳に睨まれている気がして、俺は目を反らす。

 

「忘れることが救いだと思いますか。忘れられることが幸福だと思います? ……忘れないことが羨ましいですか」

 

 三ツ矢は歌うように話しながら、棚に架けられていた梯子を登ってゆく。彼女の革靴が鳴らす、カンカンという音が小さく響いた。河端は複雑そうな表情で、何を考えているのかは分からない。窓から射し込む光は強くなったり弱まったりと緩やかに明滅している。三ツ矢は手早く資料を分類し、引き出しへ仕舞う。

 

「何にせよ、忘却は死を除いた場合、人にとっての唯一の救済です。死と忘却は不可逆かつ一方的であり、それは殆どの生物と、それらが生み出したものに与えられるのですが──忘却を否定するのは不可能。記録によって忘却を阻止することもできません、だってそれは忘却を前提にした行為ですからね。原子や分子レベルで話をするならば、この世に循環しないものはありません。全ては『輪』のなかにあって、それを逸脱したものだけが喪失を手にする」

 

 面倒くさく考えればね、と彼女は付け足した。

 

「では、『輪』と『外』に分類される基準は一体何でしょうか。記憶や現在……そういうものは一過性ですから『外』。その他は『輪の内』。私はそう考えました……けれどある日、ある人に言われたんです。『三ツ矢栞の記憶の完全性は一体誰が証明できるの?』」

「『誰にも証明できないし、私の正しさは決して私には証明できない』」

「よく覚えてるね、シーちゃん」

「私はそうは思わないけど……ミッちゃんは何時だって完璧だもの」

「どうかな……。君は面倒で答えの出にくい話題が苦手そうですから、この話は止めましょうか。とにかく、私は自分に救済方法がひとつ欠けていると思ってるし、だからといってどうしようもない体質についてずっと悩むのは好きじゃありません。……そうだ、これから考古学班に会いにいくなら覚悟した方が良いですよ。彼らは兎角お喋り好きですから! じゃ、さっさと出てってください、私無駄は嫌いなので」

 

 出口まで送られるのかと思いきや、資料室を出た瞬間にドアが閉められる。三ツ矢班長は冷たい。出口に辿り着くとかのイケメン君が大理石の柱の傍にクールに立っていた。

 

「思ってたより早いな」

「追い出されたんだよ」

「良かったな。早く離陸しよう、雲が出てきたし風も強くなってきた。荒れればそれなりに運転も荒くなる」

「嘘だろ……」

 

 

 

 

 

 お察しの通りだ。本気で吐きそうだ。吐きそうに本気もなにもないが、翼に立って手を振ってくるイケメンのあの笑顔が腹立たしかったのは確かだ。悪気はない、と言ってはいたが、話によれば一流のパイロットたちは安定した飛行ができるように訓練されているらしい。つまり滅茶苦茶な運転をする必要はなかったのだ。そう言えば彼は、歩けないくらいくたびれた方が良いぜ、と訳の分からないアドバイスをくれた。何だそれは。突っかかろうとしたのだが、彼は颯爽と飛び去ってしまった。――あれ? もしかして帰りは徒歩か?何故置いて行かれてしまったのか分からないが、イケメンにもそのくらいの抜けがあった方が良いのかもしれない。

 顔を上げて考古学班本部、過訓館を見る。巨大な石造りの建物は博物館や美術館のような威厳があった。扉は重厚で大きな古い釣鐘が備え付けられている。周囲は雑木林に囲まれ、随分古風な雰囲気だ。鐘には花の模様が彫られ、ひもの部分は昇り龍の飾りが取り付けられている。鳴らせばコロコロとした耳に心地よい音が響く。しばらく待つとゆっくりと扉が開いた。

 出てきたのは背の高い男性だった。白っぽい髪を羽を模した簪で留め、仕立てのいい羽織と着物を身に着けている。特徴的なのはその緑色の爬虫類の瞳と青みがかった一本角だ。見るに龍人なのだろう、けれど龍人にしては珍しく柔和な雰囲気で親しみやすさを感じる。ややスパイスの効いた甘い花の香りが鼻先を掠める。彼は俺の顔をじっと見たあと目を細めて笑った。そして存外低い声で柔らかく話す。声からも雰囲気からも年齢を推定することは難しい。

 

「おや、お客さんが来るのは珍しい。調査班の方ですね」

「はい、」

「到着は明日だと思っていましたよ。どうぞお入りなさい、散らかっていますけれど。――ちょっと三人とも、お客さんですよ! お酒は片付けてください!」

「あ、いえ、お構いなく」

「秋月」「さん」「お客さんだって?」「だってさ」

「西谷くん、ちゃんと片付けてから出迎えてください」

 

 開かれた扉の奥のホールは夕陽に照らし出されてもなお、しんと冷たく、停滞した静寂で満たされていた。しかし間を置かずに足音と声が近づいてきた。秋月さん、というのはこの男性の名前だろう。途切れ途切れの声を不思議に思っていると、驚くべきことに出てきたのは二人の青年だった。そっくりな姿かたちは彼らが双子であることを証明している。交互に話すせいで途切れて聞こえるようだ。顔は似ているが、声は集中して聞くことで少しだけ違うことが分かる。西谷というらしい彼らは、まるで奇妙な生き物を見るかのような、物珍しそうな目つきで俺をじっと見てくる。正直怖い。

 

「お構いなくって」「言ってたし」「俺たち」「は遠慮しないよ」

「いい、良いですよ、ほんと。突然来たのは俺の方ですし」

「まったく……隠さんは?」

「まだ爪」「塗ってる」「艶」「っツヤにね」

 

 秋月に案内されて応接室のような場所に通される。西谷兄弟はさっさとソファに腰かけた。丸テーブルの上には様々な瓶とシェーカー、マドラーやストレーナー、つまみだろう数品のおかずとナッツやハムが並べられている。秋月は二人の西谷の向かいに腰掛ける。その脇には刈り上げの子供が椅子の上で三角座りをしていた。昼にぶつかりかけた人だ。十月だというのに薄手の黒い半袖と短パンという出で立ちで、首にはこれまた黒いチョーカーをつけている。そいつは小さな小瓶に入った青いマニキュアを熱心に塗っている。

 

「あーっ! お前、今日ぶつかりかけただろ!」

「誰です?」

「隠さん、彼は調査班の新人さんだそうですよ。覚えていませんか」

「昼間、俺にぶつかりかけて消えただろ。あれどうなってんだ」

「あー、そういえば新人さん……いたような気がします。ええと、現です、よろしくお願いします」

「え、あ、ど……どうも」

 

 現はマニキュアを塗っているので、と握手はせずに礼をした。その体格からすると中等部くらいの年齢だろうか。西谷兄弟はなにやら面白そうにこちらを窺っている。ぶつかりそうになったことについては特に何も話そうとしない現に困惑していると秋月が助け舟を出してくれる。

 

「隠さんは面白い業を持っているんですよ」

「へえー」

 

 期待を込めて見れば、彼女はちらりと此方を見てから指先に息を吹きかけた。すると、その指先がみるみるうちに氷に覆われ、巨大な五本の鉤爪が現れた。青く透き通る濃密な氷。おお、と感心していると西谷たちがまた賑やかに喋りだす。

 

「な」「ばりーチャン」「そっちじゃなく」「てあっち」「だよ」

「あっち?」

「だめだめとぼけちゃ」「見せつけておやり」「なさー」「い」

 

 現は口をへの字に歪めた後、大きく息を吸ったようだった。途端、室内に僅かに霧が立ち込め、その後晴れる。先ほどまで彼女がいた場所には何もいない。慌てて室内を見渡しても彼女の姿は見つからず、まるで初めから居なかったかのように影も形もない。そして再び視線を戻したとき、彼女はソファで膝を立てて座りながらこちらを見つめていた。

 

「え、今の何……てか、もしかして隊員?」

「私の業の一つです。隊員ですよ」

「その消えるの、どうなってるんだ?」

「身体の星細胞を霧に変換して身体を分解するんです。……もういいでしょう、秋月さんの話の方が面白いですよ。不老不死ですから」

「不老不死……!? え、本当ですか」

「ええ、まあ。見ての通り、私は龍人ですから」

「でも、全部の龍人が不老不死って訳じゃない、そうでしょ?」

 

 秋月は俺の食いつき様に苦笑いをした。話題から外れた現は満足そうにカシューナッツを口に入れる。秋月は頷いて少々考えた。

 

「私がたまたまそういう種だった、というのが正しいでしょう。確かに全ての方が不老不死という訳ではありません」

「種?」

「ええ、そもそも龍人というのには種類があります。塔主兄弟姉妹、それから九否の塔の女性エースパイロットのように、月の異称がついた十二の龍人は『暦龍』と呼ばれています。満月、新月、三日月、弓張月などは『形龍』、立待月、居待月、夕月などは『時龍』と呼ばれ、秋月、春月、朧月や寒月は『季龍』、雨月、無月、薄月は『天龍』、他にも月の見え方や色によって分類された沢山の種類の龍人がいるんです。龍の姿をしたままの者もいれば、私たちのように人の姿を基本とする者、そもそも龍の姿をとれない者。飛べない者、泳げない者、様々います。私は少し特殊な種でして、あるルールを守ってさえいれば死ぬことはありません」

「そんなに種類があったんですね。ルールって?」

「明かせませんよ。彼らにも言っていません。察している可能性は否定できませんが」

 

 西谷を見れば片方はにこにこ、片方は無表情。現はそっちのけで爪を見ている。

 

「何年くらい生きていますか? 二百年とか!」

「惜しい、三百年と数十年です」

「へえ、じゃあ、考古学も三百年分は楽勝ですね!」

「ううん……そういう場合もある、とお答えしておきましょうか」

 

 秋月は苦笑した。

 

「過去を記録し続けるというのは容易なことではありませんから。特に生き物にとっては。岩石に地層、生物の遺骸、天体、戦跡や芸術品として遺された歴史は非常に優秀な記録者ですが……そういうものでさえ、読み取り手の手腕によって全く誤った解釈をされてしまいます」

「えーと、思ったんだ……ですけど、俺たちの体内の星細胞って考古学では調べないんですか。俺たちの持つ『星』って、本物の星と違うの?」

「その辺りは生物班に聞いた方が良いかもしれませんが……考古学的な視点から見るなら天体としての星と私たちの『星』は似ていると言えます。多くは物理的な作用――摩擦や呼吸、温度上昇などによって活発化します。一説では、というより多くに信じられている噂話では、貴方がた天児はスターマンが生まれた時の副産物的存在と捉えられています。天体としての星の放つ光がこの地上に届くとき、その光は『星脈』として地上に残ります。そしてスターマンたちはそこで肉体を構成し、『ひかり』を宿した現在の姿を得ます。しかし天児の肉体は本来人間と同じなのです。ただ、生まれる前……およそ母親の肉体に生まれる前に、父親の肉体に取り込まれた星のひかりが細胞に宿り天児の肉体の基となります。さて、そのひかりは何処から来たのか、と言いますと……これは未だ解明されていません。私たち考古学班の一番の仕事ですね」

「ふうん、星の光は過去の物だって聞いたことがあるから、考古学の視点で見れば何かわかるのかと思ったけど……」

「ええ、そこが星の光と『ひかり』の違いですよ」

 

 秋月は席を立ち、ウィスキーの瓶と光沢の美しいアイスペールを持ってきた。いくつかのアイスボールを小皿に移して現の前に置き、ウイスキーグラスを四つ並べた。一つを俺の前に差し出したので丁寧に断る。強い酒は苦手なのだ。西谷兄弟の片割れは――俺には二人の見分けがつかない――グラスを受け取って、そこに黄金を注いだ。彼がややかさついた低い声で「ナバリーチャン」と現に呼びかけたので、ここでやっと現の名前と左に座った西谷が声の低い方であるということが分かる。

 

「彼、意外と」「詳しいんだね」「ね、星」「でもちょっと頭」「固いみたいだ」「ね」「ねえ」

「星が百年前だっていうのは変な話ですねぇ、百年後っていう可能性は無いのですか」

「だって隠、光の到達に」「は凄く時間がかかるんだよ」

「向こうからこっちに来る光がそうだって言えるのは分かります。でも、星を見て言うのは話が違うでしょう。光を見ているのか、星を見ているのか、それは誰にも分かりません。星を構成するガスは目に見えず、それが燃えていても見ているのは炎そのものなのか光なのか」

「星の定義によるね」「ね」

「私たちが見ている『星』が光であれば過去を、ガスや様々な物質であれば未来の可能性もあります……でも、ガスや物質を『見る』という視覚的な情報のやり取りでは、私たちは情報を受け取る受動の立場にありますから、やっぱり見るのは過去なんでしょうか」

「星の位置にもよる」「ね」「たぶんね」「銀河の中心方向」「なら、星はそこから生まれる」「から、過去を見ていることになる」「銀河の縁を見る」「なら、先に生まれた星が膨張に乗って広がっていく」「から、未来を見ているとも言える」

「新しく中心から生まれた星なら、膨張し続ける宇宙の比較的新しい位置にいるはずですから、こちらに到達する光はともかく、物質としては地球の後に生まれた過去のものですね。そして縁方向は先に生まれて既に前へと進んでいる、光も物質も未来ですか」

 

 頭が混乱してきたので聞き流すことにした。もうだめだ、俺には付いていけない。三ツ矢の言っていた『お喋り好き』とはこういうことだったのか。現は再び爪を眺めて、少しだけ顔を顰めた。

 

「さっき使ってもう駄目になってます。やっぱり改良してもらったのを使わなきゃいけないみたいです」

「残念だ」「ねえ」「あの一瞬」「瞬で」「きれいだ」「ったのに」「一瞬ってなんだ」「この間使わない」「ようにしようって」「決めただろ」「ああ、うん」 

「『一瞬』。一瞬とは、何でしょうね。どれだけ細かく時間を割っても、『瞬』というものはありません。どれほど細かな時間にも始まりと終わりがあります。誰かが言った『一瞬』を、私たちが捕まえることは不可能です」

 

 ついには秋月まで話し始めたので、そろそろお暇を……と立ち上がると彼は口を止めて心配そうな顔をする。双子は相変わらず梟のようにこっちを見てくるし、現は無視して鞄を漁っている。

 

「もう夜中ですから、泊まっていきなさい。今晩北へ戻るのは危険ですよ」

「え、どうしてですか」

「今日の夜は中央都市と守庭地方の灯我で迎撃戦があります。塔主が出るような戦いだから、行くと足手纏いになります」

 

 何ともなしに現が答える。彼女は取り出した、変わった瓶に入った青色のマニキュアを塗り直しながら、秋月が出してくれた酒用のアイスボールを齧っている。ガリガリと噛んだ後にテーブルの上に置かれたフォールン·エンジェルに手を伸ばす。慌てて手を捕まえようとするとサッと避け、怪訝そうな顔で俺を見る。

 

「あ、まだ成人してないでしょう、お酒は二十歳になってから!」

「私は成人してます。同じ百二期生の調査班ですが、きみのひとつ上です」

「えっ! 先輩? しかも掛け持ち……?」

 

 彼女は俺の手避けてグラスを持ち、ぐいと煽る。ショックのせいで西谷兄弟の、あら失礼しちゃうわねぇ、というハモった笑い声も遠い。え、年上? この小さいのが?

 

 「きみ、もしかしたら周りの人のことをずっと若いと思っていませんか」

「え、そうなの……? じゃなくて! そんな大事な戦闘があるのに、なんでここに居るんすか! 俺たち調査班みたいな、それなりに戦えるやつも出るべきなんじゃないのか!?」

「さっき言ったでしょう、足手纏いになるんです。塔主の戦闘についていくなら、同程度の実力者じゃなきゃいけないんです。余計に動ける人は不要です。私たちの死因は、フラグメンツだけじゃないんですから」

「今回は」「中堅以下の戦力」「育成も兼ねて」「るからね、」「塔主も二人」「だからダイジョーブ」

 

 喋りすぎました、と呟きながら彼女は小瓶を仕舞った。西谷兄弟が同時に「かもねー」と呟く。秋月は静かに微笑んでウィスキーを飲んだ。

 

 

 

 

 

 と、同時。

けたたましく鋭い、今まで聞いたことも無いような音がした。風のような、嵐のような。氷のような硝子の割れる音のような。変わったテンポで鳴り続けている。出所は現のようで、彼女は先ほどまでの眠たげな瞳から一転、鋭い目つきで襟元からペンダントのようなものを取り出した。双子は何かを警戒するかのようにじっと黙り込んで身動ぎもしない。秋月は心配そうに彼女を見守る。

 

「何事でしょう」

「六式の特殊通信です。ちょっと待ってください」

 

 彼女が呟くと同時、俺の端末にも着信が入る。見れば班長の雪後だった。繋がるや否や彼女の焦ったような声が聞こえた。

 

『聞こえるか、緊急連絡』

「班長、どうしました?」

『お前はそこで待機だ。現に伝えろ、出来るだけ腕の立つ奴に声を掛けながら急いで中央へ向かってくれないか、と。私も今から向かう。塔主の皐月殿が灯我へ、佐々木殿が中央へ援護に向かってくれているが──』

「…………え、」

 

 後に続いた言葉を聞いた瞬間、現は無言で身を翻して駆け出した。双子は何処かへ連絡を取ったり外套を羽織ったりしている。秋月は顔を蒼白にして立ち上がった、その瞳の色を恐怖に染め、強張った手が俺の肩を掴む。

 

『──中央に、イヴが出没した』

 

 そこで通信は切られた。秋月の落ち着いた声が音の消えた部屋に響く。

 

「三人とも私が送りましょう、西谷くんたちは中央で降ろします。貴方は海堂まで──雪後殿は居ないでしょうけれど……。準備ができたら知らせてください。私はその後、中央へ加勢に行きます。あそこには逸頼殿がいますから……すぐに劣勢になることはないでしょう。兎に角、急いで」

 「俺も中央で降ろしてください!」

「行ってはいけません、巻き込まれればすぐ死んでしまいます」

「でもっ俺も戦えます! 彼奴だって、現だって呼ばれてた!」

「いけません。これは命令です、上司として。そして貴方を知る大人として、お願いします」

 

 厳しいようで、悲しげな瞳が俺を見つめていた。西谷兄弟は既に佩刀して黙ってこちらを見ている。渋々頷くと、秋月はほっとしたようにその瞳の力を緩めた。三人の後を追って部屋を出る。黒い夜の闇が窓の外にへばり付いていた。

 俺は何のために入隊したのか。フラグメンツをできる限り討伐し、友人の仇を討つためだろう。ここで大人しくするつもりはない。完全に龍になった秋月は小回りが利かないだろう、そこを突いて町へ飛び降りればいい。危険な戦場を前に退いては調査班の名が廃る。俺はフラグメンツを殺すんだ。

 行こう。覚悟を決めて過訓館を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6.Oblivjon  「うん、夜中だ。まもなく朝になるにちがいない。ああシンクレール、きみはぼくを忘れないでくれたんだね!

            ゆるしてくれるかい?」

           「なにをさ?」

                 「ああ、ぼくはまったく醜かった!」

 

                                                                                                                                                                     (Herman Karl Hesse / UNTERM RED)

 

 

 

 

 

 地平線へと沈んでゆく紅を見つめる黒い瞳は、底に炎を飼っているかのようにちろりと輝いている。今夜、西の方角から中央都市にかけてフラグメンツの群れが通過するという調査班の報告により、この場所には多くの隊員が集められていた。しかし実力は皆中の下ほど。安全性の高い迎撃戦を展開し、一気に部隊の経験を積むという目論見があるのだそうだ。

 

「見える、見えるよ、逸頼」

 

 我らが大将、鈴木逸頼の前、宙で揺れる青紫の炎が明るく、しかし狡猾そうな笑みを含んで話しだした。今回の作戦には二人の塔主が参加する。本来ならば通信を用いて行われるはずの会話は、辺りに散らされた鬼火によって行われていた。鬼火から発される女性の声の主――四核の塔主、中野刑告は愉悦を含んだ声のまま続ける。

 

「西の方角六キロ、ざっと八千匹ってとこだね」

「なら十分でこっちに来るな」

 

 鈴木は短く息を吐いて、グローブを嵌めなおす。何度か握ってもう一度息を吐くと鬼火が一瞬赤くなる。止めろよ、と騒ぐ中野に軽く謝って彼は肩を回した。天才肌の彼は他人の炎にも干渉できるほどの力を持っている。いま中野の鬼火に干渉できたのもそのためだ。彼の師匠であり兄貴分だった前代の塔主はさらなる天才肌で、おおよそ普通の天児には扱えない青い炎を生まれながらに持っていた。彼に学び、彼のあとを継いだ鈴木は、今や海外からも期待を寄せられる存在となっている。特に若い隊員の中には彼を神聖視する者も少なくない。塔主はもとより人間を逸脱した存在として見られがちだが、鈴木の場合は特に顕著だった。彼はそれを心得ているようで、新人隊員の扱いも上手かった。だから今回の作戦に抜擢されたのだろう。

 

「人員の配置はちゃんとしたかい。私んとこは藤洋と藤森も出すよ」

 

 ハァ? と鈴木は訝しげな声を出した。後頭部を搔きながら呆れた様子で呼びかける。

 

「おい、若いヤツはぜってぇ死なすなよ」

「わかってるよ。群れてんのは雑魚ばっかりだ。もしもの時は私が全員守ってやる」

 

 どこか鬱陶しげに返事をする中野もまた統率力の高い人物だった。鈴木と決定的に違うのは、寄せられる信頼の種類だった。鈴木に付いていく者は皆、その安心感と輝きに魅せられている。中野の場合は、入隊時に行われる模擬戦闘で皆コテンパンにされて、そうして監視と統率の元に彼女をリーダーとして認めてしまうのだろう。(四核以外の隊員の多くは、彼らのことを何処となく動物のように見ていた。それはきっとこのような風習から来ている。)彼らのお陰か、現代の塔主たちは前代に比べ親しみやすかった。十人のうち二人を除けば同じ百一期生で、塔主同士の仲も良い。年長組である佐々木排歌と小林雨覚だけは厳しい雰囲気を纏うこともあったが、概ね優しい印象だ。

 二人は出来損ないと揶揄される百期生だ。彼らの年代は丁度天児の人数も少なく、高い能力値を持つ者も少なかった――おそらくグロリア、セージと呼ばれた前二代の印象が強すぎたのだと思うが――そのために元々期待されていない代だった。人員が不足している中で彼らが中等部を卒業し入隊したころ、悲劇は起こった。戦争だ。歴史に残るであろうその大戦、『第二十二次全天戦争』は世界中に大きな爪痕を残した。塔主は七名中四名が殉職。残りの三名は重傷を負って塔主の座を降りた。あの栄光と呼ばれた時代の者たちが、だ。言わずもがな、百期生からは多くの死人が出た。初陣の年に生き残ったのはたったの十数名。それも現在では五人しか生き残っていない。篩にかけられ、必死に逃げ回った者たちだけが生き残った。彼らは生き抜く術を熟知しているし、そうしようとする意志も格別強い。佐々木排歌を除いては、確かな実力は持っているものの皆どこか狡猾で逃げ足が速く、正々堂々とは戦わない。そういう印象だ。

 対して現在の塔主たちは清く正しく、後ろ暗いものもなく素晴らしい経歴を持っている。今回迎撃戦を行うこの若い二人の塔主も、前代たちに強く推されて塔主となったのだ。

 

「気ぃつけろよ、刑告」

「あーい、オマエもな!」

 

 真っすぐ前を見据えて発された鈴木の声は硬く、対する中野の声は勇気づけられるような力で満ちている。鬼火たちは夜の闇に溶けるように消え去り、唯一、大きな炎だけが鈴木の元に残された。鈴木は深く息を吐いて身体を解し、振り返って一人一人の顔を見た。力強い瞳は俺たちの瞳を焼いて、心に火を灯してくれる。

 

「そろそろ始まるぜ。調子の悪い奴はいないか? 早めに教えろよ」

 

 ニッと笑って、彼はまた前を向く。その一瞬に見えた彼の顔は冷静に、しかし確かな闘志を持っていた。

 

「ああ、大火神さま……」

 

 若い男性が神を見るような目つきで鈴木を見た。彼でなくとも、多くの隊員が魅了されたかのように統領の背をじっと見つめている。緊張、高揚、不安、そういったものが空気を練り上げ不思議な一体感を生み出す。ピピ、と音がして、鈴木は通信機器を取り出した。 薄らと聞こえてきたのは小さな男の声だ。

 

「逸頼」

「ん? ああ、雨覚か。どうした」

「……武運を」

「おう」

 

 普通、今にも作戦が始まるという時に通信をすることはない。ましてや塔主であるならば。しかし鈴木は嬉しそうに笑って通信を切った。傍に立っていた金髪の女性が鈴木に何事かを話す。彼女の腕には調査班の腕章が付けられていた。鈴木は頷いて、俺たちをもう一度見た。

 

「始まるぞ」

 

 何かの鳴き声や羽ばたきが遠くから近づいてくる。羽虫の大群の羽音のような不快な音、悲鳴のような、ガラスを引っ搔くような高い音。それに紛れることなく我らが塔主の声はただ真っすぐに届けられた。いいな、と彼は真摯な眼差しで告げる。

 

「勝つためじゃねえ、俺たちは生きるために」

 

 良いな、と彼は笑った。見る人を圧倒するような力強い覇気で。鬨の声が響く。戦いが、始まる。

 

 

 

 

 

 様子がおかしい、と気づいたのは戦闘開始から四時間が経過したころだった。フラグメンツが全く減らないのだ。事前の連絡によればフラグメンツはゼペネの上空を通過するだけ。例え全滅させることができずとも彼らの多くは東の海へと向かうはずだ。しかし彼らはこの場に留まるように集まり、増え続けている。東がこうなのだから、中野の率いる西軍はさらにフラグメンツで溢れかえっている可能性がある。不味いことに、疲労によって怪我人が増え、こちらの人数は徐々に減り始めていた。幸い、まだ死人は出ていない。適切なタイミングで鈴木が後退し、隊員に指示を出して下がらせるためだ。彼は前に出続け、フラグメンツの注意を引くように動いている。無論フラグメンツたちは強い星を食らおうとするため、一直線に鈴木へ向かう。空を焼くようにたなびいた紅が奇形の鳥たちを焼いて落とす。時折現れる妖星は調査班の女性が支援して確実に討っていく。

 やや上がった息のまま、鈴木は呟いた。

 

「沙羅、何か変だな」

「はい、こんな数、確認されていなかった! 東は押されています、殆ど壊滅で……」

「だろうな。こんなんじゃ、塔主がもう一人必要だ……っと!」

 

 深く身を屈めて獣の突進を避ける。距離をとって火を放ち、傍に転がった隊員を引き起こして斜め後ろに引っ張る。鈴木は顔を顰めて女性を見た。さら、と呼ばれた女性は心得ていたかのように数歩下がっていた。

 

「異常だ、救援要請を出せ。塔主を……排歌か雨覚を呼んでくれ」

「はい! ……もしもし、はい、大沼です。救援要請、大隊と塔主――」

「待て沙羅」

 

 鈴木の声が空気を裂いた。彼はぴたりと動きを止め、何かに聞き入るように黙り込んだ。白み始めた空の光が彼の横顔に影を差す。黒い瞳はじっと西を見つめ、流れた汗が顎を伝って落ちた。不気味なほど静かになったフラグメンツが此方を窺うように周囲を歩き、飛び回る。

 

「聞こえるか」

「……はい」

 

 鈴木が苦々しく口端を歪めて笑った。強張った頬を、もう一度汗が伝う。

 ズルズルと重い何かを引きずる音。そう、例えば。

 

「イヴだ」

 

 蛇のような。

 悲鳴が上がった。逃げろ、と誰かが叫んだ。これほど大きなフラグメンツを見たことのある者は少ないだろう。西の夜の暗がりから這い出てきたのは腕のない、真っ白な蛇の頭をもつ少女。首には比較的新しい裂傷が長く刻まれている。後退、と叫んだ鈴木の声によってどうにか全員が後方へ退く。手足が震えた。恐怖に引き攣った内臓が震え、吐き気を催させる。

 

「随分血腥い。来る途中で沢山殺したんだな。……しかも食っていない、殺しただけだ。手前はノアみてえに悪趣味じゃないと思ってたんだが」

 

 鈴木の握ったグローブからギシリと音がした気がした。彼は近くにいた腕の立つ隊員たちに何事か指示を出し、俺たちを更に下がらせる。同時に水の塊が飛来して俺たちの真上に来た。割り込んできた黒、赤。鈴木の両手が空に触れて、蒸発。白い煙が辺りを覆う。大沼は震える手で通信機を握りしめている。その手は白く、声は震え、けれどイヴから目は逸らさずに。

 

「はんちょう、班長、雪後さん、イヴです、中央都市大隊、鈴木塔主の場所に…はい、はい……」

「どうだ?」

「さ、佐々木さんが。来てくれるそうです、西には、皐月さんが」

「分かった。どのくらいで?」

 

 頷いて、鈴木は大沼の肩を軽く叩いた。視線だけはイヴを捉えて離さない。大沼は水気を増し始めた瞳を一瞬だけ鈴木に向けた。

 

「三十分」

「……そうか」

 

 一度目を伏せて、また上げて。彼は安心させるように笑った。大きく頭を振り回すイヴが再び勢いのある水塊を飛ばす。掴むように指を立てて、噴き出した炎が水蒸気を生む。飛び散った水滴が彼の頬を濡らした。唸り声。真っすぐにイヴを見つめて、鈴木は目を細めた。次いで、空を覆う氷柱。一瞬蠢いて、降り注ぐ。雨のように、滝のように。鈴木は駆け出して間を縫うように走る、走る。左から水塊、両手から吐き出された炎が弾く。上空、降りかかる水、屈んだ鈴木は歯を食いしばって顔を上げた。その口から吐き出された炎がそれを消し飛ばす。巨大な氷柱が彼を襲った、左へ回避、脇腹を掠ってシャツに血が滲んだ。顔を顰めたのが一瞬だけ見えた。降り注いだ氷柱が頬や腕に細かな傷を付ける。彼から外れたものが後ろにいた隊員たちを襲う。鈴木は炎で守ろうとする、守り切れなかった者たちから鮮血が噴き出す。ガシャン、とガラスが割れるような派手な音がして、衝撃波のように波打つ流水が彼に肉薄する。それは硬度を変えながら蛇のように鈴木を追う。走り、屈んで、攻撃の隙を与えないように火を叩きこむ。時折大沼が援護のために炎を放った。しかしダメージを与えることは叶わない。イヴの蛇の頭が彼に直撃し、吹き飛ばす。辛うじて受け身をとった彼の頭に氷の礫が当たって、頭を揺らす。顔を上げた、浴びた水に混ざった血が顎を伝って落ちた。

 ふらりと立ち上がった鈴木は徐に手首に触れた。指先に引っ掛けられ、濡れたグローブが脱ぎ去られて地に落ちる。右手、濡れた指先、伝って、その指し示すための指には明星のような黄金の輪。ひどく優しく、彼は笑って見せた。

 

「お前らじゃ、束になっても勝てねぇ。だから絶対に手ェだすなよ! 動けねぇ奴らを頼んだぜ!」

 

 誰かが震える声で呟いた。大丈夫、大丈夫。鈴木様がいるから大丈夫。死なない、殺されない、大火神がいれば助かる、助かる。手指を組んで蹲る者もいた。彼を見つめてぼうっと立つ者も。鈴木の広げた手の中、あの黄金色の中心に緑の星が吠えていた。眩しい、眩しい、一体何だ、あれは、彼は? なにか、なにか何かが始まろうとしている!

 イヴがたじろいだ。音がしない。沈黙、誰も何も言わず、動かなかった。ただひとりだけ、炎を纏った男を中心に、脈動のような熱気が渦を巻いていた。男は――鈴木は、何も言わず目を見開いて、その真っ赤な瞳を煌々と輝かせていた。まるで太陽だ。どくどくと拍動、巻き上がった熱は彼の髪を揺らした。

 彼が息を吸った。

 深く、

 深く。

 青く。

 

 

 

 爆ぜた!

 渦を巻いた。彼の手のひらから噴き出す炎は鮮やかな青色をしていた! 額や腕の切り傷は焼け塞がり、頬は灰のように罅割れ始めていた。けれど彼は笑った、青い瞳で、凪いだ瞳で、けれど、けれど彼は笑っていた!

 

「……嗚呼、俺は、この日のために生まれてきたんだな」

 

 灰色の頬で笑った。彼の青は彼の身体をも焼きながら、渦を巻いて近づくものを燃やし尽くす。翻るジャケットも、髪も、自らの指先でさえも灰にした。

 

「見せてやるよ、本物の炎ってやつを」

 

 燃え盛る青が、闇を照らしている。高く高く、掲げられる灯火のように。強く強く、舟を導く北の星のように。

 誰かが、どこかで彼の名前を呼んだ。

 皆口々に彼を呼んだ。

 

「大火神……」

「『涯業』」

 

 『涯業』。一生を懸けた大技。一度使えば数年は後遺症が残るような業だ。今の彼が使っては、――いや、彼は、彼は気づいているんだ、知っているんだ、

 

「『劫火焼夷』」

 

 自分がもう生きていけないということを。彼は何かを掴んでしまったんだ。

 青、うねり、波、海、そのように、圧倒的な広がりと速さで押し寄せた光、熱、白い蛇が燃えている。イヴの口を抑え込んでいたベルトが焼け落ち、劈くような少女の悲鳴が上がった。鈴木の足がふらついた、イヴはのたうち回って頭を振り回し、大きな、大きな渦潮を呼んだ。突然、何処からか飛び出した黒髪の女性が鈴木に向かって走ってゆく。誰も止められなかった、大沼ではない、隊員ですらない、彼女は何か小さな物を持って鈴木の炎に手を突っ込んだ。肉の焼ける臭い、鈴木は彼女を見て、少しだけ、笑った。彼女はほんの一瞬だけためらって、走り去った。大波が彼を飲み込む。渦巻く水流が炎を飲み込んで離さない。それは正しく日没だった。日暮れの太陽が海から逃れることは、決してない。海の中で彼は震えながら泡を吐いた。一度瞬きをして、それから、それから……永遠に目を閉じなかった。

 呆然とした隊員たちの声が周囲に零れては散らばった。

 

「鈴木様が……」

「鈴木様、」

「鈴木さま」

「そんな……」

 

「ああ、神様……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしました、刑告さん」

「……いや」

 

 中野は赤色の片目で東の方角をじっと見つめた。冷たい夜の風が静かに頬を撫ぜて、僕も釣られてそちらをみる。何も無い。夜の闇に包まれた山陵が僅かに見えるくらいだった。辺りは血の海に沈み、彼女の割れた仮面が落ちている。

 

「なんでもないよ」

 

 一陣の風が中野の黒い髪を揺らした。

 

 

 

 

 

 

 

 先程まで呆然と立っていた隣の男性が、顔を真っ青にさせてぶるぶる震えていた。唇は紫色で、手足はまるで病人のように痙攣している。

 

「ウソだ、ああ、戦えねえよ、もう……! 俺たちの神様が死んだ! は、は……勝てるわけが無い……死んじまう!」

「ちょっと、落ち着いて……!」

「し、死ぬ……私たちも鈴木様みたいに死んじゃうんだわ……!」

 

 どこかでヒステリックに叫ぶ女性の声。斜め前にいた小柄な男性が泡を吹いて失神する。突然始まった恐慌は止まるところを知らず、恐ろしい速さで雪崩のように、崩壊しながら伝わっていく。イヴは重度の火傷を負った体を引きずって、それでもこちらへと向かってくる。

 

「落ち着きなさい……! まだ敵はそこにいるのよ!」

 

 皆を宥めようと叫んだ黒髪の女性が泣いていた。先程逸頼の近くまで走って行った女性だ。看護班の腕章をつけている。彼女は毅然として、やけどを負った手を挙げる。しかし混乱に包まれたこの場所で、彼女の話を理解できそうな者は殆どいない。絶対的なリーダーを失って露見する、これが一火の弱さだったのだと、ここにいる誰もが知らなかった。

 

「お願い落ち着いて! 怪我人は私が治すから、こっちに、」

 

 空が明るくなり始める。神を失い、絶望に沈んだ女が俺の隣で呟く。

 

「ざんこくよ、ひとがしんだのに、あしたはくる」

 

 地に伏した鈴木の透明な青い瞳が、朝日を美しく反射していた。やがてその色が弱まり黒になる時、飛び込んできた影があった。

 

「逸頼っ!」

 

 

 

 三留塔主の佐々木排歌だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.Poela  何が彼を駆るのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。

                                                          (梶井基次郎 / 冬の日)

 

 

 

 

 

 駒を置く音だけが静かに室内に響いていた。三留の塔内にある談話室の暖かなワインレッドのソファに腰掛けた二人の男がチェスに興じている。一人は狐のような目を常に伏せた黒髪の青年で、太陽を模したイヤリングと雨を模したイヤリングでそれぞれの耳を飾っている。深い緑の扇で口元を隠しながら、他方の手で駒を選びとって配置する。対する茶髪の男は柔和な雰囲気で、静かに紅茶を飲むとクイーンを手に取り、先程差し出された駒を弾いて君臨した。

 

「あら、嫌ぁな動きをするねえ」

「ふふ、君が餌を撒いたんじゃないか」

「あたしは女王陛下だけは呼びたくなかったんですけどねえ」

 

 軽口を叩き合いながら、二人の男は互いの意図を探り合う。黒髪の男は再び駒を手に取り、クイーンを弾く。

 

「チェック」

「ああ、入城したかったんだけどな……守れそうな駒が間に合わないし」

「まだまだ、師匠には負けられないからねえ。それに、分かっていたんでしょう、負けるって」

「中盤までは勝てると思ってたよ」

「どうでしょうねぇ」

 

 剣芳榮太郎──肩を竦めた黒髪の男は、三留のなかでも際立った存在感を持った人物だ。灯台守の一人、『盤上遊戯』を制する者。このゼペネにおいて、彼にボードゲームで勝るものは居ない。また『剣芳』は芸能界では有名な一家で、特に落語で知られている。彼もまた落語を仕事としていた。

 私たちの属する塔、三留には言葉や芸術を用いてあらゆる事象を起こすことができる天児が集っている。他の天児と決定的に違うのは、物理的な要素がひかりの力を高めるのではなく、精神的な要素が能力に大きく作用するという点だ。心の生み出そうとする音や色といった感覚的な物を容易に表出することができる。勿論他の天児もそうやって各々の能力を繊細な『形』として練り上げることが可能なのだが、三留の多くは『形そのもの』を生み出す。つまり、氷業で花の形を作るのではなく、花そのものを作り出せるのだ。個人によって表現方法は異なり、音楽によって花々を生み出す者もいれば、美しい踊りで水流を生む者もいる。

 それら多様な手法の中で基本とされるものが『詞業』のひとつ、『吟律(ぎんりつ)』だ。言葉を発することで、その内容を現実に引き起こす業。言葉が真っ直ぐであればあるほど、その言葉は理解されやすく、強く現実に作用する。しかし、そんな神がかった能力には一般に婉曲的な言葉が用いられる。理由はただひとつ。言葉の扱いが非常に難しいからだ。短くストレートな言葉ほど威力は計り知れない、それは端的さ故でもあれば概括さ故でもある。長い詞で表される言葉はより限定的で、攻撃性も少ない。誤って仲間を傷つけたり敵を逃してしまったり、という事態になりにくくなるのだ。また華やかさも異なる。詞を扱う人の微細な表現の違いによって、表出した事象の見た目や効果が変わる。端的な言葉は華やかさが失われてグロテスクなものが生まれやすくなるため、避けられやすいのだ。

 そして、天児の中で現在最も素晴らしい詞の持ち主──三留塔主の佐々木排歌は、他の者たちに『詩君(うたき)』と呼ばれて親しまれるほどの力と美しさを持っている。彼は百期生であるにも関わらず非常に優秀だった。彼は名家『紅斗』の出身である前代塔主の紅斗蝶羽を師匠に持ち、中等部在学時から塔主候補として著名だったらしい。武芸を苦手とする者が多い三留のなかで飛び抜けて実技成績が良く、当時の第六番や第十番の塔の隊員に負けないほどだったのだとか。おまけに態度も柔和で親しみやすく、誠実でリーダーシップもある。そして彼──剣芳のチェスの相手だった男の一番の武器はその頭脳だ。知識は元より、戦略、機転、交渉といった、あらゆる面で力を発揮する。戦闘時もその明晰な頭脳と素早い判断で部隊を上手く動かす。どんな状況でも――むしろ切迫した状況であればあるほど、彼の脳は冴えわたる。

 

「さて、さて。おや、『明け侍りぬなり』」

「ふふ、『いまさらに、な大殿籠りおはしましそ』」

 

 欠伸を扇で隠しつつ笑みを含んだ声で剣芳が時計を見て呟けば、佐々木が返す。なるほど、腕時計を確認すれば午前二時半である。思わず丑四つ、と呟くと彼らはくすくす笑う。剣芳は立ち上がって傍に設置されていたテーブルに近づき、「吟律、分福茶釜」と言いながら扇でティーポットを叩いた。するとたちまちに白い陶器はくすんだ鉄へと姿を変え、口から湯気を吐き始める。彼は三つ分の湯飲みに何やら粉を入れて湯を注ぎ、盆に乗せて帰ってきた。受け取ってみれば優しい香りのするお茶が入っている。礼を言って口を付けようとすると、佐々木が口を開いた。

 

「抹茶かな? それにしては小豆みたいな香りがするね」

「ご明察、抹茶善哉茶ですよ」

「へえ、今回も変わり種だね。…………。……………う、うーん」

「はずれでしょう、あたしが買ったものは皆飲まないからねえ、なかなか減らないのさ」

「君の買うものは当たりはずれの差が大きいから……」

 

 苦笑いの佐々木はもう一口飲んで、少し渋い顔をした。習って口を付けたものの……噴き出さなかっただけマシかもしれない。堪えた顔を剣芳が笑った。

 

「置いておきなさいな、あたしが後で飲んでおくから」

「すみません」

「良いのさ、あたしの準備したものだからねえ」

 

 彼は羽織の裾を整えて座りなおす。夜中だというのに彼らは隊服を身に纏ったままでいる。彼らは今夜の大きな戦いに備えて待機していた。新入りたちの育成を兼ねた迎撃戦は、午前三時頃には完全に収束する予定だ。現在戦っているだろう一火と四核を中心とした二つの大隊は東西に分かれ、そこで両塔の首領の指示の元に戦闘する。西には中野刑告率いる妖の群れ、東には鈴木逸頼の率いる幾つかの小隊がいるはずだ。彼らの作戦が終了次第、塔主である佐々木排歌と皐月断丸がそれぞれ小隊を率いて残党狩りをする。現在は廃止されている『夜行作戦』と呼ばれた手法に近いらしく、待機の必要のなかった今回の作戦に異を唱えた小林雨覚による提案だった。彼はかつて夜行作戦に何度も参加していたらしく、夜間の戦闘に通じていた。葉月裂と野村赦理が持ち場を遠く離れている状況で念には念を、ということで彼の意見が取り入れられ、三留と二型を中心に待機命令が下っている。残る五柳と九否は在日していた強力なスターマンたちと夜間の巡回を行い、六式と八、塔主不在の七ノ是と十桜には待機命令が出されている。

 二人の青年は時計を見た。三留を象徴する鳩の意匠がなされた時計だ。長針は九を指している。

 

「……そろそろ合図が来てもいい頃だけど」

「ええ、ええ。ちょいっとばかり遅いねえ。また調査班の報告ミスでもあったかな」

「どうかな。刑告なら兎も角、逸頼はダラダラ遊ばないし。雪後班長に代替わりしてから報告ミスは大分減っていたけど、ここ数年で増え始めている気がする……研修と伝達方法の再検討が必要かな。あとは雨覚と一緒に政府への報告書を練って、ああ、『庭』も――」

「はいはい、琳ちゃんにはあたしから言っときますよ。灯台守の皆で相談しておくからねえ」

「うん、俺も考えておく。ちょっと引っかかっていることがあってね」

 

 佐々木は指折り数えて目を閉じた。剣芳は軽く息を吐き、手を袖下にしまい込んだ。コチ、と針が動いた。遠くからぱたぱたと走る音がして、ノックもなしに勢いよく扉が開かれた。入ってきたのは可愛らしい顔立ちの隊員。しかし薄桃色のくちびるからは切れ切れの息を吐き、顔色は悪い。乱れたハーフアップを気にもせず、彼――冬北悰逸郎は殆ど叫ぶように報告した。

 

「先生っ! 逸頼さんのとこに、イヴが!」

「…………」

 

 佐々木が息を詰めたのが分かった。それも一瞬だけで、彼は直ぐに外套を羽織り小さなナイフをベルトの背側に差し込んだ。剣芳は通信機で部下に連絡を取ろうとしているようだ。

 

「榮太郎、『四季』を動かす。春夏を西、秋冬を東に。俺は東、真っ直ぐイヴを追う。四季は塔主の周りで補佐をお願い。悰逸郎、……三十分と、伝えてくれないか」

「分かりましたよ」

「……うん!」

「そこの君」

「はいっ」

「伝令役として着いてきて。そして、もしも……もしも俺が死んだら、それを調査班に伝えて。俺は全力で君を守るから」

 

 あまりに静かな声だった。それだけで分かってしまった。彼は覚悟をしているんだ。いつも、いつでも自分がどこかで死ぬのだと信じているんだ。そうでなければこんな言葉は言えない。剣芳と冬北を置いて出ていく背を追う。もはや殆ど走るようにして、佐々木は足早に外へ出た。やがて早足は本当の駆け足になり、意思を持って、けれどどこか、何かに引き摺られているような足の運びで彼は行く。中央都市からそれなりに離れているにもかかわらず、辺りには沢山のフラグメンツが犇めきあっている。佐々木はできる限り安全な道を選び取り、フラグメンツの相手も程々にひた走る。息を切らして追う私を、彼はちらりと見て、後ろから横から迫る獣たちから言葉の盾で守ってくれる。

 

「急がせてごめんね、でも俺から離れないで。この辺りは危険すぎる」

 

 頷いた、彼はそれを見て、拳に少しだけ力を入れた。何も言わず、走る、走る。いつの間にか町は遠ざかり、林へ。木々の間、狭い空を見上げれば奇形の鳥や怪物たちの群れが飛んでいく。行く先は同じ。佐々木は苦しそうに顔を歪めたように思えた。何も言わない。言わない。やがて空は薄らと白み、木々の群れは突然にして途切れた。深い草原に放り出されて、私たちは自然と空を見上げた。

 黒から濃紺へ、空、西の空が、いや、目指すべき方角には一等星が、いや、いや!

 遠く夜空が、青く燃えていた。

 此処に来い、と叫んでいる。

 此処に居る、と叫んでいる。

 あれは。

 呆然とした呟きが上から落ちてきた。

 

「逸頼」

 

 それは血を吐くような声だった。

 

「逸頼は、きっと大丈夫」

 

 光を目指してひた走る。佐々木の脚は迷うことなく動き、誰よりも速く前へ前へと進んでゆく。息が激しく切れる。今も人が死んでいるかもしれない。今まさに苦境に立たされている人がいるかもしれない。誰かの命が、誰かの星が、いま、いま燃えている。彼の瞳は星を見つめている。ただ真っすぐに、彼は信じている。信じている。

 海、草花の海を渡った。熱風が額を撫ぜた。渦巻いて、脈打って、静かに、力強く。それが、命なのだと分かった。

 もう一度木々の海に飛び込んで、走って、走って、そして、視界がぱっと開けた。

 

「逸頼っ!」

     

 佐々木の明晰な脳は、見たものを正しく、素早く、理解してしまう。恐慌に陥った異常な様子の隊員たち。燃えゆく蛇、それよりずっと近い場所に、新しく生まれたばかりの星が、青い星が、瞳が、ただ一度の瞬きもせず、ゆっくりと静かな夜に沈みながら彼を映していた。まさか。まさか、彼が? 瞬きをしない、いまするかもしれない、否、いや……彼は動かない。少しも。まさか。見て、待って、ちゃんと。……まさか。佐々木は息を詰めて、そうして初めて脚を止めた。燃えていた友人の瞳が、あれほど輝いていた炎がもう二度と夜闇を照らすことがないのだと、彼は知った。もう瞬かないのだと、知った。

 連絡が来てからほんの三十分だ。イヴは、怪物は、新しく現れた塔主の姿に興奮したように叫んだ。宙に浮いて、焼け焦げた鎌首を振り回す。佐々木は鈴木から静かに視線を外した。

 

「『落ちろ』」

 

 呟き。イヴの身体が大きな音を立てて墜落する。起きようと藻掻くも、首も胴も地に擦り付けられるばかりで、まるで縫い留められた蝶のように無力だ。佐々木はまだ動かない。あれほど混乱していた隊員たちも、身動ぎ一つしない。

 

「『沈め』」

 

 吼えるような声だった。酷い音がしてイヴの身体が、骨が、湾曲して地に押し付けられていく。背骨が曲がり、引きちぎれた肉の間から黄ばんだ骨が覗く。悲鳴も、声も上げることが叶わず、イヴはただ沈黙の中で佐々木を睨んだ。じっと見つめていた佐々木は、自分の真上に差した巨大な翼の影を見止め、詰めていた息を吐くように咳をした。黄金と赤の輝きは静かに羽ばたきを止めて彼のすぐ傍に降り立つ。

 

「鈴木っ、間に合ったか!?」

「成瀬さん」

 

 ひどく動揺した様子の生物班班長――迦楼羅の成瀬帝旱は辺りをみて、そして横たわる影を見つけた。

 

「……佐々木」

「一火塔主、鈴木逸頼、殉職しました」

 

 ただ這いつくばるイヴを見据えて、佐々木は報告した。そんな彼の肩を成瀬は大きな手で鷲掴み、軽く揺さぶった。

 

「お前、友達が死んだってこと、忘れるな。死んだのはお前の友達だ、大事なヤツだ。塔主が死んだと思わなくていい、報告も要らない、嫌なことは言わなくたっていい、今は。……死んだと、そんな言葉で言わなくても」

 

 お前はホント頑張ってるな、と彼女は口端を歪めた。ここで初めて、佐々木の口元と目元が強ばった。そんな彼の肩を、成瀬は力強く叩いた。

 

「気張れ、守るぞ、食い荒らされないように。アイツらは鈴木の星を食いたがってるだろうからな」

「はい」

 

 イヴがやっとのことで上体を起こす。濁った瞳がこの場でたった一つだけ動かなくなったものを見た。佐々木はその視線を追った。そうして歩み出て、再び怪物を睨み上げた。

 

「『吟律、蛇の口裂け』」

 

 鮮血。イヴの大きな口が八つに裂けた。飛び散った血液が周囲を濡らす。成瀬は何も言わずに佐々木をちらと見た。一度に強すぎる負荷をかけられ続けたイヴはもう殆ど動けない。やはり、佐々木はその場から動かなかった。立ち竦んでいるようにも、立ち塞がっているかのようにも見えた。彼の言葉は失われて、獣のような瞳だけがあった。

 

 

 

 やがて一等星も明星も消えて、そうして夜の怪物が全く動かなくなるまで。

 佐々木の目は決してイヴから逸らされることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.Essc  Thomas Aquinas / Theologia / Sum:infinitivus

 

 

 

 

 

「そうか、イツライが死んだか」

 

 まだ暗い夜の隅で、鷲の王アルタイルはぽつりと呟いた。透き通る金髪は宝石のように闇に光を散らし、片方だけ開いた瞳は彼の好むワインのように赤い。伏せた左目はそのままに、彼は腕を組んで黙り込んだ。相対するフォーマルハウトはワインのグラスを小さく回して暗い東の夜空に目をやった。あの東国は既に朝を迎えている頃だろう。

 

「天児もやりやがった、始原を既に三匹も殺した。正直、俺は天児なんて星屑の集まりだと思っていたよ。あんな風に何かを遺して消える奴も居るもんだな。……傷であろうが、希望であろうが」

 

 アルタイルは肘をついて口端だけで笑った。あんな風に死にてえ、と呟いた男を、フォーマルハウトは呆れたように見る。

 

「これからどうするつもり? このままじゃゼペネは落ちるよ。天柱たちはともかく、下の方は明らかに戦意を喪失している」

「しっかしね、俺たちだって十二分に危ないよ。スターマンは元々滅びゆく種族だ。それは分かっているだろ。他に手を貸してやる余裕はない」

「スターマンは滅びないさ。普通の生物系統から外れているからね。俺たちは星の脈から生まれてる、星脈は空に星がある限り無くならない」

「『星がある限りは』……ねえ。破壊者が本格的に遮光をしてみろ、俺たちは終わりだ。いっそ天児の持つ切り札に期待しようかね」

「……確実なのかい」

「どうだろうな、生かすも殺すも天児次第ってところだ」

 

 二人の男は本来二人きりでなされるであろう会話を人目も憚らず続けている。僕を含めた数人のスターマンが近くのテーブルで食事をしているにも関わらず。とは言っても、僕らは力も名前もない、アルタイルの言うところの『星屑』的な存在だった。名前を持たない星々を彼らが気に掛けることは滅多に無い。僕らはスターマンであると同時に、無に等しい存在だからだ。僕らが何をしていても、何をしていなくても、彼らにはほとんど影響しない。彼らはそれほとまでに力のあるスターマンだった。

 二人は全天で最も影響力のある全天21煌のメンバーである。己が信念の元に正義を行い、世界中に散らばるスターマンたちを統率する象徴的存在。強大な星の力と圧倒的な戦闘センスを持ち、長い間ゼペネや破壊者、施設といった大きな組織を牽制し力の均衡を保ち続けていた。

 彼らのうち、特に『王家の星(ロイヤル·スター)』であるレグルス、フォーマルハウト、アルデバラン、アンタレスの四人は幾分保守的な人物として扱われる。特に世界各国の星脈を守っているメリディエースのひとり、フォーマルハウトはその代表格と言ってもいい。厳しい面もあるが人当たりがよく、博愛的で、なかなか人気があった。

 殆ど真逆に、アルタイルは革新的な印象だ。フォーマルハウトのように他を救うことなく、ただスターマンにとってよりよい世界を作ろうとしていた。彼にとっては天児も破壊者も施設も青の一族も、果てはスターマンでさえ敵になる。彼は『アル』という有名な一族の出身だ。『アル』はこのご時世に珍しく、家族を構成する。産まれてくる子供たちは皆有能な両親の力を引き継ぎ、一族というものが廃りやすいスターマンの中では随分長い間繁栄し続けていた。その一族の本家筋の出身であるアルタイルもまた妻子を持ち、愛妻家として有名だった(時折年上の21煌に『パパ』と呼ばれてからかわれているところを目にする)。数多のスターマンが自分のため、種のために戦う中で、彼は非常に珍しい、血のために戦う者だった。

 

「フラグメンツに近い奴がいるんだよ。しかも塔主に、一人か、二、三人。ほら、スターマンにも怪しいのがいるだろう、例の『青の一族』っていう……」

「まさか。天児の星の力は微弱だ、フラグメンツとして使えるわけがない」

「少しでも可能性があるなら施設の奴らは使うだろうさ。それに……お前も見ただろ、フォーマルハウト、全天の星々が誓った日──天柱の力を俺たちは見た。はっきり言ってありゃ異常だ。あの力は人間の度を過ぎている。分かるだろ? 天柱であっても俺らの足元にも及ばなかった数百年前とは訳が違う。アイツらは異常に発達し始めて、今は21煌と拮抗するまでに力をつけた」

「…………」

「あんな力を持つ天児は正常じゃない。混血や人外ならまだしも、言葉だけで始原のフラグメンツを殺したり制限なしにものを変質させたり、雷に乗って移動したりなんて人間には到底無理だ。イヴやパンドラを殺したアイツら──ハイカとか、ウカクとか、真面には思えないな。警戒するに越したことはないぜ」

 

 アルタイルは腕を頭の後ろに組んで背もたれに寄り掛かった。彼が呼吸をするたびに、キャンドルの光が緩やかに大きくなった。ファーマルハウトが深い溜息を吐くと彼の持っていた小さな紙切れに火が付き、灰塵となって消え失せる。鷲の王は初めから興味深々な様子で紙切れを見ていたのだが、消えたのを見て口をへの字にひん曲げた。右に流されたやや長めの前髪がチカと光を弾く。

 

「青の一族、か。南十字のガクルックス、望遠鏡のイオタ……俺はハダルも睨んでいいと思うけどね。まあ彼奴は21煌だし、まだまだ若い。それに彼はシリウスと殆ど対極の正義感を持っている。裏切りはしないだろう……扱いやすくもあるし、扱いにくくもある」

 

 指折り、フォーマルハウトは数える。南のうお座の唯一の生き残りは憂鬱そうに目を伏せた。彼は勘繰りを嫌っていることを明言している。彼にとって今の状況は大変不本意なのだろう。アルタイルの方は寧ろ楽しそうにニヤニヤとした笑みを隠さない。王道や正義心を好む『輝』の属性の割に、彼は策略を好む節があった。

 

「ハダルは……そうだな。まあでも、根っからの『輝』の属性だし、あの若造はシリウスには勝てないさ。今のところ『青の一族』を名乗っているのは騎士の男女とエリダヌスのクルサ、獅子のロー·レオニス……嗚呼、厄介な奴らだ。特にレオニスのほうは守りの堅い獅子座。あのレグルスが手出しを許すはずがない」

「レグルスを手懐けなよ。よく絡んでるじゃあないか」

「無茶言うな、あのライオンキング、俺を視界の端に入れただけで潰しにかかってくる」

 

 子供っぽく顔を顰めたり片眉を上げたりしながら、鷲の王は文句を言った。獅子座の王レグルスは王としての自覚が強く、従って自尊心と責任感も人一倍強い、比較的若いスターマンだ。彼は姑息にちょっかいをかけてくるおじさんを毛嫌いしているようで、アルタイルとレグルスの殺し合いは頻繁に見られた。長い脚を組みなおしつつ、アルタイルは拗ねたような声色で喋り続けた。

 

「『雲』のレオニス、『転』のクルサ……属性だけでも十分面倒くさいな。その上、フラグメンツの力を持っていて、更にクルサは"WITCH"。二つ目の星座もまだ持っているはずだが、所属は何処なのか……はぁ、エリダヌスにはアケルナルも居ることだし、彼奴に任せようかな。何かの手違いで肩入れされちゃ困るけど」

「彼は良くも悪くも中立的だからねえ、歳食った分別のあるレグルスだと思ってた方が良い」

「……ただ面倒さが増しただけだな。ああヤダヤダ!」

 

 "WITCH"。そう呼ばれるスターマンたちは度々、二重人格者を表すような言葉で語られた。本来スターマンは生まれながらにして一つだけ、星座と、星のもつ力を持って生まれる。それらは物理的な性質に留まらず、ある者はその神話にまつわる力を、ある者はその名前による力を。そして極々稀に、二つの星座と力を持って生まれる者がいた。彼らは相反する力をその身に宿し、やがて反発しあう力に体と魂を引き裂かれ死亡する。しかし"switch"という手法が編み出されてから、彼らは死ななくなった。ある条件を定め、満たすことで両極の力の一端を発現し、もう一端を眠らせておく。切り替えの力によって彼らの寿命は飛躍的に延びた。鷲の王アルタイルもその"WITCH"の一人だ、瞑る瞳によって力を切り替える。しかし彼は、自分のアルターエゴを生み出してからは一つの星座にしか属していない。彼は肉体でも精神でもなく、自分のもう一つの存在理由から新しい星を作り出したのだ。

 

「クルサなんて、もしもの時は君が相手をするのが妥当じゃないか。君も"WITCH"なんだから」

「俺は王であるために星座をひとつ捨てた。例え全天を統べる21煌で気高い鷲の王だろうが……そんな薄情な奴が、律儀に二つの座を守り続けている奴に勝てると思うか? "WITCH"だからこそ二極を守るべきなのに?」

「……相対する二つの事物に同時に存在するなんて不可能だよ、それが出来るのは本当の天才か純粋な子供だけだ。君は天才でも子供でもない」

「……」

「好きにしなよ」

 

 アルタイルは黙りこんでフォーマルハウトの目をじっと睨みつけたようだった。フォーマルハウトはもう何も言わずに、一度考え込むように目を伏せた。

 

「とにかく俺は、ゼペネの西谷兄弟にもう一度コンタクトを取る。彼らは実に忠実でしっかりしてるけど、それはあくまで個人に対してだ。組織自体を揺さぶるのは簡単だろう……ああ、そういえば。最近面白い話を聞いてね。天児が長いこと隠してたものがあるんだよ」

「ふうん、さっきの紙切れか?」

「やっぱり見ていたね」

「そりゃな。で?」

 

 ちょっと待ちなよ、と苦言を呈し、フォーマルハウトは真剣な目をして身を乗り出した。潜められた声が、聴き取りづらくなる。

 

「怪物でもフラグメンツでもない、全く新しい生きもの──『過真(かしん)』さ」

 

 鷲の王はピクリと反応した。けれど何も言わず、続きを待っている。

 

「嫌な存在だ、空間を自在に操る神出鬼没の怪物。人も殺す。一番嫌なのが、そいつらの正体が何にも分かってないってところなんだ」

「天児は……天柱は何してる」

「さてね。現在調査中、ってことしか俺は知らないよ。研究責任者でも捕まえて吐かせようか」

「いや、止めとけ。いまゼペネの心証を害するのは不味い。その話、俺以外には?」

「あっちに行った奴は知ってるよ。ペルセウスの女の子たちが厄介かもね……ミルファクにはきつく口止めするよう言っておいたけど、あそこの性質は未知数だ」

「何で俺に?」

「ちょっとくらい自分で考えてよ。……君、ゼペネに行くつもりだろう。イツライが死んで不安定になってるところに、ちょっかいをかけて優位に立つつもりでいる。あわよくば情報をかっさらって、スターマンではなく、君の味方に付けるつもりだ。そうだろ?」

「さあな」

「止めておいた方が良い、その過真ってやつもうろついてるらしいし、天児は案外気難しくてね。今は特にピリピリしてるだろう。どうしても行くというなら、そうだな……レツっていう龍人と、年長組のハイカとウカクには会わないようにするんだ。できればその部下にも」

「気を付けるさ」

「アルタイル」

「なんだ? まだ何かあるのか?」

 

 席を立ったアルタイルを、硬い声が呼び止めた。

 

「遊びも、芝居も、もう止めろ。天児は本気だ。もう既に事は動いている……十年前と同じ風に」

「戦争か」

「そうだよ」

 

 フォーマルハウトは白み始めた空を睨んだ。彼は憎しみのこもった目を引き摺るようにアルタイルへと戻した。アルタイルは何も言わず、彼の目を見て、それから僕たちの方を見た。

 

「戦争だよ」

 

 その瞳は、鮮血の色で燃えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章

 

1.enima  Ubi spiritus est cantus est.

            (魂があるところ、歌がある。)

 

 

 

 

 

 ゼペネに悪夢のような夜が訪れてから二週間ほどが経過した。天児は十年ぶりの天柱の殉職を受けて、以前にもまして厳重な警戒態勢を敷いているようだった。そして今日、天柱を代表して、三人の龍人がここチナンに逗留中であったスピカの元を訪れることになっていた。彼女はその龍人たちと既知の仲らしく、以前共に戦ったことがあるのだと聞いていた。

 日が昇るころ、拠点から出た私たちは草原を見渡せる崖の上に来た。東の空は明るく、爽やかで冷たい微風が吹いている。スピカの後ろへ流した前髪は風を纏わせ、頬に浮かぶ黄金の火花はきらきらと光を弾いている。くるりと上を向いた金色の睫の下からは海の白波のような薄い青色の瞳が覗く。彼女は全天21煌の一人、乙女座の女王だ。その座に相応しく、高貴ながらも少女らしい魅力を持っている。彼女は静かに友人の登場を待っている。

 

「スピカ」

「アークトゥルス! 貴女も来ていたのね」

 

 私たちの後ろに強く輝くひかりが落ちた。音はしなかった、草原が僅かに揺れただけ。まだ薄暗い方角の草原に身体を起こす人影がある。長く真っすぐなホワイトリリーの髪が、僅かな朝日を受けて輝きながらたなびく。それは物音も立てずに近づいてきた。スピカと同じ21煌、牛飼い座の王アークトゥルスだった。彼女はちらりと私を見る。その瞳は硬質な銀色で、時折白っぽい色や橙色に混ざりあって色を変えた。思わず目を逸らせば、彼女もまたスピカへと視線を移した。

 

「今朝から。仕事が終わりましたからね、天児を見ておくのも良いと思いまして」

「嫌だわ、あの子たちは危ない人たちじゃない」

「そうかもしれませんね、しかし私の意見は私が決めますから」

 

 彼女は厳しい言葉とは裏腹に優しい声と表情をしている。アークトゥルスとスピカが長年の友であることは全天でも有名だった。このアークトゥルスの優しげな様子はそこから来ているのだろう。彼女が身内に優しいこともまた広く知られている。故に多くの21煌とは異なり、多くのスターマンに親しみやすい印象を与えていた。

 むすりと不機嫌そうな顔をしたスピカを置いて、彼女は東へ目をやった。細められた瞳のなかで、再びくるりと色が巡る。東の薄赤紫の空に雲を引き裂く三つの影があった。龍だ。最も大きいのは銀色の鱗をもったもの。角は黒く欠けている。一方が折れているのだろうか、遠目には一本しか確認できない。そのすぐ上を小柄な白が飛ぶ。尾の先がやや赤く、火の粉を吐きながらくるくると飛ぶ。やや遅れて飛んでいるのは夜よりも暗い黒の龍だ。瞳は黄金色で角に走る脈や鬣の先も琥珀色だ。悠々と静かに、私たちの前に降り立った三匹の龍は三者三様にその正体を現し始めた。大きな銀色の龍を激しい水流が取り巻いたかと思えば、その中から姿を現したのは背の高い銀髪の女性。その背には二メートルはありそうな刀を担いでいた。特徴的なオッドアイは片方が伸ばした髪で隠されている。小柄な白龍は黒髪の背の低い女性へと変身した。白い和服に赤い耳飾り。スターマンのように赤く燃える両目は人懐っこそうな印象を受ける。二人とは打って変わって黒い龍は直ぐには姿を変えなかった。こちらを爬虫類のような瞳でじっと見つめた後、小柄な女性に肘で突かれて漸く姿を変える。花弁のように散る光の奥から姿を現したのは茶髪の男性だった。二本の刀を背負い、切り揃えられた前髪の間から鋭い目が此方を覗いている。彼は高い一本歯下駄を、カランと一度だけ鳴らした。

 彼らが姿を変えるや否や、スピカは嬉しそうに手を振る。アークトゥルスが軽く礼をしたので慌てて私も習う。

 

「久しぶり! 裁花ちゃん、レツくん、ナギマルちゃん!」

「久しいわね、スピカ!」

「こんにちは」

「こちらの状況は?」

「ちょっと! 空気読みなさいよ」

 

 親しげに返事をしたのは小柄な女性、たしか名前はウヅキといったはずだ。彼女は男性を咎めながら、二十センチは上にあるだろう目を睨み上げた。男性はツンとしたままスピカから目を離さない。スピカは気にした風でもなく笑って、それから悲しげに目を伏せた。

 

「良いわよ、裁花ちゃん。こんな時勢だもの…………イツライくんのこと、本当に残念ね」

「……うん」

「こっちもね、結構危険だわ。戦闘経験のないひとから死んじゃうの。この間も星座が丸ごと滅んだ。……断丸くんは元気? 他の人たちは?」 

「イヴのせいで医療班の分館がほとんど壊れちゃったのよ、それで断丸はてんてこ舞い」

 

 そう、ゼペネが襲われてから、まるで世界は変わってしまった。町のどこを歩いていてもフラグメンツと出くわす。森や川、海辺などは顕著に多く、「獣の巣穴」がそこら中に蔓延っている。力のある星座たちが盛んに巣穴を取り除こうとしているものの、増える方が速い。堰を切ったように溢れだしたフラグメンツは世界中に散らばって、全天の星々を食い尽くそうとしている。八十八あったはずの星座は約半分ほどになってしまい、戦闘力の低いものから食われていく。そしてフラグメンツはより力を増し、強力なフラグメンツを求めて徘徊する……といった状況だ。毎日どこかでひとが死ぬ。王であり星座の守護者でもあるアルファ星が死んだ星座は悲惨で、殆どが統率を失って散り散りになる。重要な役目を担っている守護の星座などは戦い慣れしている者が多いためまだ何とか生き残れているが、これも長くは続かないだろう。全天21煌たちは人間や天児の前で開戦を宣言した。――十年ぶりに全天戦争が始まってしまった。これも異常な事態だった、全天戦争は長い歴史の中で二十数回起きているが、各戦争の間には通常数百年という期間が空く。しかしながら今回は十年越し。今までにない異常事態に、シリウスやアルタイルといった強者たちでさえ慎重になっている。

 口を噤んだスピカの代わりにアークトゥルスがウヅキに尋ねる。

 

「排歌くんは?」

「最近はずうっと『庭』よ。かなり塞いでるみたい」

「その『庭』って仮想現実でしたよね。……いつか完成するのでしょうか?」

「分からない……逸頼の事があって大分急いでいるみたいだけど。私は正直仮想世界なんて無理だと思うわよ、いくら排歌でも。新しい世界をつくるだなんて」

 

 『庭』とは何だろうか。アークトゥルスの言葉では仮想現実とされているが、はたして天児にそんなものを生み出す力があるのだろうか? 彼らはスターマンほどの力を持っていない。彼らの力の源は、星脈から漏れ出した僅かなひかりだ。しかも体内に持っているのはひかりそのものではなく、ひかりを宿した細胞である。故に能力の使用には多くの制限とリスクが伴い、単純な威力ではスターマンに劣る。先日亡くなった天柱の死因も、イヴの能力による窒息だけだなく自らの炎に焼かれていたことも大きかったらしい。天児はある程度自分の能力に耐えられる身体を持って生まれてくるのだが、天柱でさえ自らの力に負けることがあるのだ。天柱故に、かもしれないが。とにかく、彼らはスターマンほど奇跡的な力は使えない。ましてや星の力から仮想現実をつくるなど。

 

「しかし……先週、雨覚はその庭に入れてもらったようですよ。排歌に信頼されているからなのかもしれませんけれど。今は何もないそうですが、人が入れるくらいならかなり安定した空間が保てているのではないでしょうか」

「やだ、そうなの? やっぱりあの代は規格外ね……無茶していないといいけど」

 

 銀髪の女性にウヅキが返す。すると黙り込んでいた茶髪の男性が低く呟いた。

 

「しないわけがないだろうな。三留の詞については仕組みが分かっていない。佐々木が理解しているかどうかは知らないが、奴は目的の為なら己を惜しむことなどしない」

「裂はどう、できると思う?」

「……理論上は。詞の力は奇跡だ、何だってできる――それこそ、嘗ての星に願うようなものだろう」

「星の栄光なんて、もう何千年も前のことです。今はスターマンの王でさえ、たった一度しか自らの願いを叶えられないんです、しかもそれは星座を犠牲にする」

「であったとして、お前たちが望みを叶える力を持っていることに変わりはない。たとえそれが多くの死の上に成り立つものであったとしても」

 

 レツ――十桜の天柱、ハヅキレツは腕を組んだままアークトゥルスの瞳を睨んだ。彼女もまた顎を引いてハヅキを睨み上げている。いくら塔主とは言え不敬だ。全天を守る王に対して、仲間の死を勧めるような発言をするなど。ウヅキは呆れ顔で黙り込み、残る女性も静かにアークトゥルスを見ている。スピカはといえば、慌てたように手を振って、二人の間に割り入った。

 

「あなた、星を信じているのね」

「……星があらゆる力の源であることは揺るがぬ事実だ。お前たちの魂は願いを叶えるに十分な力がある。価値は高い……天児のそれよりも遥かに」

「そう……そうね。でも、失えば死ぬのは同じよ。願いを叶えられる魂があって、肉体が強靭で――それでも、ひかりを半分以上奪われれば確実に死んでしまうわ。例え肉体が健全でも」

 

 スピカはハヅキの言葉に僅かな動揺を見せた。軽く頭を振って、気を取り直したように話す。彼女の言う通り、スターマンは肉体のどこかにひかりを隠し持っている。激しい戦闘でその部位を損傷したり、身体の半分以上を残して欠損したりすると確実に死亡する。これまでに例外はなく、ひかりを半分以上欠損したスターマンで生き残った者はいない。ひかりの回復は非常に難しいことだ、治療の力を持つ蛇遣座の者でさえひかりだけは修復することができない。唯一その王だけがひかりを治すことができるが、それも時間がかかってしまい、結局は死亡するケースが多いと聞く。故にスターマンたちは魂の場所を明かさない。例えそれが信頼できる親友や家族、腹心であっても。だが――

 

「私のひかりは心臓にあるの。人間と同じ、此処を貫かれると死んじゃうのよ」

「……スピカ」

 

 スピカは魂の居場所を明かした。よりにもよって親友であるアークトゥルスだけでなく信用できない天児の前で。思わずあっと声をあげた私を咎める者はいないだろう、それほど有り得ないことだった。

 

「どうして教えてしまったのですか! 天児は信用できない、そうでしょう!?」

「だからよ。信用してもらうためなの。何時までも睨み合ってちゃダメ。それに向こうには魂を尊ぶ十桜の首領だっている。魂の価値をよくわかってるはず、無暗に貶めたりなんてしないわ」

 

 そうでしょ、と彼女が聞くと、ハヅキは呆れたように目を伏せて沈黙した。アークトゥルスは溜息を吐き、天柱たちに向き直った。僅かな微笑さえ乗せて、彼女は手を差し出した。

 

「私のひかりも心臓に。……非礼を詫びます。世界の安寧のため、21煌として、ひとりの王として……私も命を差し出しましょう」

「ありがとう。知っているかもしれないけど、私たちは龍人なの。人間と違って強い身体と長い寿命、それから個体差はあるけれど、いろいろな力を持っている。私は炎、妹の霜月薙丸は氷、弟の葉月裂は魂に触れる方法を知ってるわ。裂だったらもしかしたらひかりに関して協力できることがあるかもしれないわね」

「龍の弱点は身体ではなく……少し難しいかもしれませんが、精神の純潔さにあります。正しく強い力の為には正しく安定した精神が必要で、侵された者は正しい力を制御することができずにやがて身を滅ぼします。龍が最も恐れるものは――」

 

 ウヅキの言葉を継いだシモツキは不自然に言葉を切った。表情は氷のように静止し、鋭い輪郭と不揃いな色の瞳は沈黙を貫く。やがて瞳孔は蛇のように割れて鋭くなり、頬の皮膚は硬い膜に覆われたかのようにくすんでザラザラとした質感を帯びた。何か、嫌な予感がした。手足が勝手に震えだす。彼女の目がぎょろりと私の後ろを見る。残る二人の龍人は互いの顔をちらりと見た。スピカは険しい顔を僅かに青ざめさせ、アークトゥルスは対照的な無表情で腕を組んだ。吐き気を催すほどの緊張感の中、まるで暗く深い穴に突き落とすような、静かで冷たい声が私の背骨を鑢のように撫ぜ上げた。

 

「天児が何用?」

「……シリウス、戻ってきたの」

 

 背後から現れたのは、全天で最強と謳われるスターマン――おおいぬ座のシリウス。美しい肌と青みがかった鋼色の怜悧な瞳。上品なドレスの裾を揺らして、彼女は草原に降り立った。スピカが震えを隠した声で呼びかけると、彼女は極寒の眼差しで一瞥し、すぐにアークトゥルスに目をやった。目を向けられたわけではないのに、その視線の動きだけで頭が真っ白になる。知ってか知らずか、ウヅキは彼女を凝視したまま右手を武器の柄に置いている。

 

「ええ。仕事が終わったからね。……アークトゥルス、ここで何をしているの。貴女には巣の掃除を頼んでいたはずだけど」

 

 シリウスの声、視線、そして言葉――彼女の存在は恐怖そのものだ。彼女は21煌として、自分の正義の障壁となるものはすべて殺してきた。いつ私たちも殺されてしまうかわからない。そんな恐怖による抑圧こそが彼女の最大の能力だ。彼女がまき散らす威圧感にその場の全員が口を閉ざす。唯一、彼女と殆ど対等の力を持っていると言えるであろうアークトゥルスだけが平常と変わらぬ調子で、端正な顔を嫌悪で歪めさせた。

 

「終えています。過ぎた干渉は控えてください、シリウス。私は王であって、貴女に指示される立場にない。……次はありませんよ」

「気分を害したなら悪かったわ。貴女、気が強いものね」

「他の者に王の自覚が足りないだけですよ。21煌でさえ、貴女に怯える者がいる。それが無意識であってもね」

 

 アークトゥルスは横目にスピカを見て、視線をシリウスに戻した。シリウスは皮肉気に口の端を歪める。

 

「恐れてもらわなくては困るわ。それが私のやり方だから」 

「……アンカアやコル·カロリが見たら何と言うでしょうね。それに、嘗てのシリウスが見たら──」

「アークトゥルス」

 

 強烈な恐怖感を放って、シリウスはアークトゥルスの言葉を遮る。スピカは震える唇から鋭く息を吐き、天柱たちは固唾を飲んで見守っている。すっかり高くなった日がシリウスの目元に影を与え、色の悪い頬を照らした。ギラギラとした目が睨む。

 

「その話はお終いにしましょう」

「……」

 

 アークトゥルスはそれ以上何も言わず、軽く首を振って一歩下がって見せた。それが停戦の合図だったかのように、シリウスも目を離して天柱たちを見た。龍の三人は微動だにせずスターマンの代表格と対峙する。

 

「先日のこと、残念に思うわ。鈴木はとても優秀だった、そして皆を守り切って死んだ。最後まで、素晴らしい人ね」

「……ええ。お久しぶりですね、シリウスさん。星の誓い以来、そちらの功績は多く聞いています」

「ありがとう、霜月。貴女の話もよく聞いているわ。川反に劣らない働きぶり、私は高く評価するわ」

「光栄です」

 

 意外にも、一番初めに口を開いたのはシモツキだった。彼女は口元に薄らと笑みを浮かべたまま、爬虫類の瞳のままでシリウスを見た。黒い爪の並んだ長い指の腹で頬を撫でれば、そこにはもう何の異常もない。すぐそばに立っていたウヅキも武器から手を放し、ハヅキは重心をずらすように身じろいだ。彼がふと口を開き何かを言おうとしたのと同時、シリウスは何もない場所へ顔を向け、静かに声をかけた。

 

「アケルナル、居るわよね」

「何かな、天国の女王様」

 

 男性の声がして慌ててそちらを見れば、宙から溶け出るように姿を現した人物がいる。――アケルナル。この場にいる私を除いたスターマンたちと同じく、彼もまた王であり21煌の一人である。一房だけ長い灰がかった薄緑色の髪を風に揺らし、彼はゆっくりと此方に近づいてきた。ようやく少しだけ落ち着きを取り戻してきたらしいスピカが頬を膨らませて不機嫌そうな声を出す。

 

「悪趣味。覗き見なんて」

「私はずっとここにいた」

 

 アケルナルは肩を竦めてゆっくりと返す。目礼した私に頷き、髪を翻してシリウスを振り返る。

 

「それで、何かな」

「貴方はどうしてここに居るのかしら」

「私が此処に居てはいけない理由でも?」

「勿論無いけれど。どうしてかを聞いているのよ」

「理由は無い。風に理由を聞くようなものだ」

 

 平行線のような会話にアークトゥルスは溜息を吐き、ハヅキはくだらないとでも言いたげな目つきで眺めている。案外この二人は気が合うのかもしれない。

 

「ああ、そうだ……この間の集いでこちらから一斉に仕掛けるという話だったが、計画は全天の王に伝えた。しかしやはり賛同しない者たちも多い」

「聞かせればいい、文句を言っている時間はないわ」

「……以前も言ったが、徴兵に関しては私も賛成しない」

「総力戦でなければこの戦いは終わらない」

「終わらせる必要を感じない。何時の時代にも戦争はつきものだ。……私はこんなことのために、刹那の安寧の為だけに、川を途絶えさせたくはない」

「ま、待って、アケルナル。それは分かっているわ、でも……それじゃあ、この戦争で死んでしまった人は仕方がないって言ってるの。違うでしょ? 今は力を合わせなくちゃ」

 

 割り込んだスピカの声に、アケルナルは僅かに暗い顔をした。

 

「スピカ、シリウスは戦争を終わらせるつもりだ。これまで何千年と続いてきた戦争を、彼女は無理やり終わらせようとしている。力で、抑圧して、根絶やしにする、その意味と付随する犠牲を君が知らないとは思えない」

「分かってる、分かってるよ、でも……私たち、戦わなかったらもっとひとが死んじゃうかもしれない。抵抗すれば、誰かが助かるかもしれないでしょ?」

「その可能性が、無いわけではないが……」

「スピカ、引っ掻き回すのは止めて頂戴。二つに一つよ。戦うのか、戦わないのか。貴女たちはどちらなの」

 

 突きつけられた質問に、スピカは口を噤んだ。彼女の肩には重責が乗っている。彼女の一言で乙女座の運命は決定され、果てには全天が動くきっかけにすら為り得る。アケルナルは彼の星座を守るつもりでいる。では、アークトゥルスは?

 

「……私は、良いでしょう。参加します。21煌である私が動けばそれなりの人数は戦うことを覚悟してくれるでしょう。それに……戦えるものが一度に動けば、殺されるリスクは減るはずです」

「…………私は、もう少しだけ考えさせて」

「早くしないと取り返しがつかなくなるわよ」

「分かってるわ」

「すこし、意見と質問をしても良いかしら?」

 

 暗い空気を切り裂くように、ウヅキが王たちに声をかける。うっかり忘れそうになっていたが、ここには天柱たちもいる。彼らにも事情の説明は必要だ。

 

「何、卯月」

「その計画って何? 場合によっては天児も手伝えるかもしれない。今は内部が少し不安定だけど、じきに落ち着くわ。今回はスターマンだけの問題じゃない。私たち塔主だって、仲間――友達を殺された。皆戦う決心をしてるの」

 

 ね、と力強く笑って見せたウヅキに、アークトゥルスは微笑む。組んでいた腕を下ろし、彼女は空を見上げた。流れてゆく真っ白な雲が眩しい青色を泳いでいく。

 

「先ほどレツくんが言ったように、私たちには願いを叶える力がある。戦況が危うくなった時、種族の……スターマンのために、それができるか否か、という話し合いが為されました。その力――"Entrust"は、星座に属するスターマンのひかりを王に帰属しひかりの力を強め、一度だけどんな願いでも叶えられるようにする力です。この力の代償に、王は必ず死にます。ひかりを剥ぎ取られた者たちは、王によって上手く体に戻されない限り必ず死亡する。今までこの力の使用後に生き残った者は片手で数えられるほどしかいないと言われていて、言わば決死の方法です。王との間には信頼関係が必要になりますし、王には自分の願いに付き合わせる覚悟が必要です」

「それで王たちに確認をしている、ということですね」

「はい。およそ一月後、私たちはチナンからルージャにかけて大規模な戦闘を開始します。早ければそこで、私たちは"Entrust"を使うことになるでしょう」

「それまでの時間が短すぎるように感じるが。何をそれほど急いでいる」

 

 ハヅキが鋭くシリウスを見る。彼の瞳孔は開き切り、まるで心を見透かそうとでもするかのように動かない。しかし彼の眼は徐々に虚ろになっていった。異常さに声をかけようか逡巡していると、先に目を逸らしたシリウスが呆れた声で言葉を返した。

 

「それを聞いて、貴方はいったいどうするつもりなのかしら」

「こちらに害があるなら俺は助力しない。事によってはお前を斬る」

「無力で幼い、ただの龍がふざけたことを……やれるものならやりなさい。お前の師――桜宮もこのシリウスを一度殺しかけ、しかし敗れた。お前に私が殺せるか見ものだわ」

「話を逸らす必要はない。…………今からここに来る二人のスターマン、そのどちらもがやがてお前を裏切る。お前は後に両目を失くし、お前が過去に神から奪った炎によって地を焼き払い、星の野原を潰すだろう」

「……止めて」

「お前は偽りだ、虚像、本当のお前は光ではない。お前は昔、ひかりから、奪い、」

 

 虚ろだった彼の眼はどんどん濁ってゆく。焦げ茶だった瞳は淀んで黒くなり、瞳孔すら視認できなくなった。しかし彼は黒瑪瑙の瞳でシリウスを映し続けた。支離滅裂で何を言っているのかは理解できない。けれどシリウスは珍しく動揺した様子を見せた。彼女はアークトゥルスを止めた時のような強い語調で彼を止めようとする。発する威圧感は相当なもので、立っていられずに座り込んでしまった。誰一人として動ける者はいない。

 

「視るのを止めなさい」

「青い、星を、……、いや、お前、お前は何時、何処で、生まれた?」

「……裂」

 

 緊迫を裂いたのはシモツキの声だった。

 

「もう止めた方が良いですよ。視すぎると良くないと、以前言っていたでしょう」

 

 ハヅキは白昼夢から覚めたかのように妹を見た。その瞳は焦げ茶色に戻り、無表情の中に僅かに滲む焦燥もやがて消え失せた。いつの間にか彼の頬に隆起していた灰色がかった鱗は、瞬く間に消えてゆく。彼は目を伏せてシリウスから目を逸らした。シリウスもそれ以上何も言わずにハヅキを見やる。彼の姉も、スピカもアークトゥルスも何も言わなかった。唯一アケルナルはどこか呆然とした声色で問いかけた。

 

「君、その力は――」

 

 問いを受ける前に、突然、ハヅキは背負った両の刀を引き抜いた。警戒したシリウスが距離を取る。ちょっと、と叫びかけたウヅキは口を噤み、シリウスが来たとき以外は常に冷静さを保っていたシモツキさえも柄に手を置いているのを見る。

 それは流星だった。二つ、それぞれ異なった色の星が此方に向かって落ちてくる。火の粉を散らす銀と、炎を纏った青白い流れ星。二つは私たちが立つ草原を大きく揺らしながら降り立った。彼らの炎は草木を燃やすことなく、ただ光を宙に溶かしていく。剥がれ落ちていく膜の下、揺らめく炎の奥底から、三つの赤い瞳が開く。片方は炎色。片方は血の色。

 

「やあ、星の玩具たち。元気そうで何よりだ」

 「久しぶりだね、葉月くん。二か月ぶりかな」

 

 外面だけは気安そうに、開いた片目を意地悪そうに歪めたのはアルタイル。その少し後ろからどこか疲れた様子のファーマルハウトが姿を現す。声を掛けられたハヅキは今までの態度がまだましだったと思えるほど、あからさまな嫌悪を滲ませて彼らを蛇のようにねめつけた。彼の近くに寄って行ったウヅキがこそりと呟く。

 

「やだ、あんな胡散臭いのと知り合いなの?」

「フォーマルハウト。鈴木の元へ『交渉』に来ていたα星だ。金髪の方、アルタイルよりは話の分かる奴だが……油断はするな」

 

 武器を収めながら静かに話すハヅキ。げえ、とウヅキが吐きそうな顔。シモツキは柄から手を放し、再び無感情な顔に戻る。スピカはファーマルハウトににこにこと手を振り、アークトゥルスやシリウスは面倒な奴が来たと言わんばかりの表情である。アケルナルは何処かへ消えてしまった。

 

「俺たち、もしかして嫌われてんじゃねえか」

「嫌われているのは君だよ。……悪いね、突然お邪魔して。天柱が来てるって聞いて、聞きたいことがあったから急いで来たんだ」

「聞きたいこと?」

「そうそう、イツライのことだ」

 

 ピン! と人差し指を立てて、勿体ぶって話すアルタイルだが、対するハヅキは全く取り合う様子がない。

 

「奴について話すことはない。話は仕舞いだ」

「おいおい、ちょっと待てよレツ。お前は礼儀ってもんがねえのか」

「礼儀知らずに返す礼儀は持ち合わせがない」

「はあ、相変わらず話の分かんねえ奴だな。いいよ、お前の姉ちゃんに聞くから!」

 

 言うが早いか、彼はウヅキを次のターゲットにした。ハヅキのこめかみに浮いた血管は無視して。なあ、と興味津々な様子でアルタイルはウヅキに笑いかけるが、その目には猛禽類のような鋭さと酷薄さ、獲物を弄ぶような狡猾さを宿している。

 

「聞きたいのはイツライの最期だ。あの青い炎は何だ? 天児の中じゃ先天的なやつしか見たことないんだが。なぜ奴は変化した? 限られた奴しか触れない青い炎を、なぜ、奴は手に入れたんだ?」

「知らないわ。アイツは生まれながら力には恵まれてた。異常な速度で力の使い方を覚えて、有り得ないくらいの温度の炎を持った。純血の人間にもかかわらず、アイツは成人してから羽化したのよ。そんなの見たことも無いし聞いたことも無い。…………検死だって、何も異常は見つからなかったって、処理班が――」

「へえ、よく言うぜ。結局優秀なのは一部の奴だけ。天児ってのはどんだけ無能なんだ?」

「……何?」

 

 次にこめかみに血管を浮かばせたのはウヅキだった。赤い目が睨みあい、火花を散らす。呆れたファーマルハウトが二人の間に割り入って、静かに問いかける。

 

「……天児さん、君たちは何か隠し事をしているんじゃないのかい」

「だから、何のことよ?」

「例えば、そうだな。……君たちが何時までたっても公表しない過真とかいう怪物のこととか。そこの君――」

 

 つと赤い瞳が銀色を見上げる。彼は一度躊躇うように一息置いて、話す。

 

「霜月薙丸が青の一族である、とか? イツライがそうだった可能性だって十分にあるね」

「…………!」

「な、」

 

 俄かには信じられないことだった。まさか、天児からフラグメンツが?

 ウヅキが信じられないものを見るようにシモツキを振り返った。あのハヅキやアークトゥルスでさえ目を見開いて彼女を見ている。

 

「何言ってるの、私の妹が、……有り得ない」

「本当に? だって君たちは兄弟姉妹だけど……血なんて一滴も繋がっていないじゃないか」

 

 どこか含みを持たせたようなフォーマルハウトの言葉に、ウヅキは顔を険しくする。アケルナルに勝るとも劣らない情報網と思慮深さ、知識への貪欲さ、周到さ……一度彼に捕まえられれば、逃げることはおろか抵抗さえも難しいことだ。ウヅキは何も言い返さず、黙って次の言葉を待ち構えている。

 

「知っているんだよ? 君たちは生まれた場所が全く違う。血液のタイプも、その能力も。外見も、遺伝子も、厳密に言うならきっと親だって違う。エウロには龍はいないから、俺が知っていることは少ないけれど……君たちの在り方が異常だってことは分かるよ」

「憶測でものを言わないで。私たちは生まれた時からちゃんと兄弟だった。アンタたちが目を見て兄弟を判別するのと同じよ、私たちは出会ったとき、互いが兄弟だってわかったわ」

「ならどうして、妹の出自を知らねえんだ? 知ってるだろ、青の一族になれるのは幼い時に手術を受けた者だけ……そいつは随分昔からフラグメンツだったってわけだ。ずっと黙ってたんだ、自分と同じ境遇だった、一緒のあなぐらで育ったごみくずたちが仲間を傷つけて、殺して、そして殺されるのをずーっと見てた。加担して、味方になったつもりで、自分は成功作だって信じてた。そうだろ? ナギマル。勿論お前たちがフラグメンツの仲間でないことくらい分かってるさ、だがなんで黙ってた? こうして戦争が始まるまでお前たち一族はコソコソと隠れて黙ってた。話せば良かっただろ? 施設の本拠地も、建物の内部だって、実験の方法だって、お前たちは知ってたんだ。話してりゃスターマンはこんなに減らなかったかもしれねえし、イツライだって死ななかったかもしれねえな」

「アルタイル、やめて!」

 

 ウヅキの刃よりも速く、引き裂いたのはスピカの悲鳴のような怒声だった。彼女は僅かに揺れたシモツキの眼を見逃さなかったのだ。スピカはつかつかとアルタイルに詰め寄る。彼女の周囲には鋼のように硬く鋭い怒気が纏わりつき、ギラギラと煌めく瞳は刃物を突き付けるような気迫でもってアルタイルの眼を刺した。

 

「どうしてそんなこと言うの!?」

「おいおい、事実だろ。青の一族とかいう、血も繋がってない馬鹿な連中が、何年もだらだらしてたのが悪いんじゃねえか。お前だって大事な奴が殺されてんだろ。ぬるま湯につかって希望論だけの正義を掲げて……お前は鈍っちまった」

「言っていいことと悪いことがあるわ。貴方はそれすら忘れたの、それほど醜くなってしまったの」

「事実は事実のまま伝える、曲がったことはよく分からせる。これが俺のやり方だ、口を慎め乙女座」 

「お黙りなさい、鷲座。貴方の鳴き声は不快でたまらないわ」

 

 アルタイルの眼がばちりと火の粉を散らした。金色の睫の奥で銀の粒が輝く。気だるげに立っていた彼は重心を移し、笑った。急激に彼の周りの空気の温度が上昇する。ドクドクと、拍動のような衝撃が空気を揺らす。彼の周囲には膜片のような炎が渦巻き始め、拍動に合わせて揺れ動く。対するスピカは宙に手を翳す。そこにはひかりが結晶のように固まった、長大な白銀の槍。彼女の上空にも同様に鋭い結晶が並ぶ。キンとした緊張感に圧された空気は、アルタイルとは正反対に静止している。無音。アルタイルの炎、場違いなほど青い空に流れる雲と草原のざわめきだけが動いている。

 ちょっと、と不意に突き破る声。見ればシリウスの声だったらしい。彼女はつまらなそうな表情で右手をひらひらとさせる。続いたフォーマルハウトの声も落ち着いたものだ。

 

「本人から話を聞くのが良いと思うのだけれど?」

「そうだね、俺もそう思う……君、話してご覧よ。君の兄姉にもさ。何も隠さないで」

 

 その場の全員の眼がシモツキに向けられる。アルタイルは興ざめしたように炎を消し、スピカは怒りを落ち着かせるように深呼吸した。一度、シモツキは深く息を吸った。彼女は裏切る覚悟を決めようとしている。それは一族か、血の繋がらない兄弟か。肉体を分け合ったフラグメンツか、自分自身の信念か。

 

「……貴方たちの言う通り、私は確かに青の一族の構成員です」

 

 ウヅキとハヅキは何も言わなかった。ただ一度瞬いて、言葉を待っている。銀色は、爬虫類の瞳で崖の向こう、何処か遠くを見つめた。黒く塗られた爪の並ぶ骸骨のような指を組んで、静かに。

 

「私は海辺で生まれました。四歳になる前、まだ龍の姿をしていた私は施設の人間に見つかり……被検体になりました。運が良かったと言っていいのか分かりません。私はパーツとして解剖されることはなく、受容体として別の龍の一部を移植されました。証拠がこの目です」

 

 シモツキは長い前髪を掬い上げて左の眼を晒した。黒に金箔が浮かぶ瞳はただ真っすぐに私たちを見ている。

 

「疑うのなら、そちらの蛇遣座の方々に診ていただいても構いません。移植痕がありますから。私は約一年にわたって手術を受けましたが……すみません、あまり覚えていないのです。その頃はよく眠っていたので」

「君はどうやってゼペネに帰ったのかな」

「私が施設を脱した日、何か大きな出来事がありました。力のあるフラグメンツが暴れたとか――それで管理用の水槽が割れたのでしょう、私はいつの間にか人の姿になっていて、走って逃げだしました。誰か、……誰かに手を引かれて」

 

 フォーマルハウトは不思議そうに口をはさんだ。以前彼に聞いた話では、過去に何度かフラグメンツが激減した年がある。その年は決まって始原のフラグメンツであるパンドラが姿を見せることが少なかったという記録もあり、フラグメンツ同士の共食いであることが考えられていた。しかし彼女の言う『大きな出来事』が仮にパンドラによるものだったとするなら、パンドラは共食いをしていたのではなくただ施設で暴れていただけ、ということになる。そして同時に、そいつは施設に頻繁に出入りしていたということが言えるだろう。自我のないフラグメンツが何度も同じ場所へ帰る理由はいったい何だろう?

 

 「……誰かって、わからないの? 君の仲間じゃないのかい」

「いえ、それは違います。幹部の者にも確認済みですから。……――海、」

「海?」

 

 シモツキはハッとしたように呟いた。遠くへやっていた視線をフォーマルハウトに返し、しっかりとした口調で断言する。

 

「……はい。そのあと私は龍の姿で海を渡り、ゼペネの浜辺に辿り着きました。守庭(すじょう)地方の浜辺です。そこで雨覚が私を拾ったのだそうです。私は塔に保護され、兄や姉に会いました。それが、十九年前の話です」

「そうね、この子が私たちに会いに来たのは四歳の時だった。前代六番塔塔主に連れられてたのを覚えてるわ。私が雨覚に会ったのはもっと後だったけど……」

 

 アルタイルが興味深げに鼻を鳴らす。

 

「ふうん。その、ウカクってやつ……そいつはそん時もう塔にいたのか?」

「いえ。私と同じ年、同じ日時に塔へと入っていたはずです」

「……それはまた、何故かな」

「幼体とはいえ大型の龍を連れていたら嫌でも目立つでしょう。彼はまだ七歳でしたし……私がまき散らしていた氷業の影響を受けていないか検査したところ、彼が天児だと分かったんです。彼が氷業の持ち主で冷えに強い身体だったから、私は保護され生き延びられたのだと聞きました。これは前代塔主の郡髄迷さんと現生物班班長の成瀬帝旱さんから、十年以上前に聞いた話です。記憶も曖昧ですから、間違っている所もあると思いますが……」

 「いや……わかったよ。話してくれてありがとう。他に何か、思い出せることや言っておきたいことは?」

「ありません」

「そうか、じゃあ……」

 

 フォーマルハウトはシリウスを振り返った。彼女は首を横に振る。

 

「うん、今日は終わりにしよう。お互い忙しい身だからね、働く時間は長いに超したことはない。また何かあったら連絡してくれよ、あと……コバヤシくんにニシヤ兄弟から過真についての資料を受け取れないか聞いてもらえないかな。彼ら、確かイツツヤナギの配属だろう?」

「私から話しておきます。彼から当時のことを聞いてみるつもりですし……」

「よろしくね。今日はありがとう。作戦の日時は追って連絡するよ。……気を付けて」

 

 龍の兄弟はそれぞれ礼をすると再び龍の姿となって東の方へ飛んで行く。シリウスやアルタイルは見送ることもせずに立ち去り、フォーマルハウトは天柱たちが見えなくなると私たちに挨拶をして慌ただしく帰った。小高い草原に私たちだけが立っている。遠くを飛ぶ鳥の声、草の擦れる音、高い雲は朝から変わらずそこにある。ただひんやりとした、沈黙だけが横たわっていた。

 先に口を開いたのはスピカだった。 

 

「……心臓にあるだなんて嘘、どうして吐いたの」

「嘘じゃありませんよ」

「だって貴女、本当に大事なことは誰にも教えないじゃない」

「……否定はしませんけどね」

「私にだって本当のこと教えてくれないし」

「嘘を言わないだけです」

「ああそう、結局あまり変わらないように思うけど」

 

 アークトゥルスの苦笑にスピカは口を尖らせた。やはりアークトゥルスは慎重だったらしい。しかし正しさを貫く21煌として、誤ったことを伝えて、さらに誓いを立てたのはいかがなものだろう。それが彼女の目指す道への近道だというなら何も言えないのだが。

 

「魂を晒すことだけが、誠実さや覚悟を示せる方法ではないということです。私は誓いを立てた。その言葉こそが真実ですよ」

 

 もう行きましょうか、と彼女は呟いた。もうここには誰もいなくなる。ただ風だけが吹き抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.jokulator  Difficile est tristi fingere mente jocum

       (悲しい心で冗談を作ることは困難である)

 

 

 

 

 

 そこら中で囁き声や噂話が聞こえる。普段は静かな基地にいるか空で一人でいることが多いせいなのか、地面の上は煩くて敵わない。特に最近は死傷者が増え、生存率が高いと謳われていた塔からも死者が多数出ている。僕の配属先であるトビウオも多くの死者を抱えている。そこで塔主たちは人手不足ではあるものの、集団行動を義務付けるために規則を大幅に変えなければならなかったようだ。それはトビウオにも影響力を及ぼし、責任者である塔主の野村さまから直々に伝えられていた。簡単に言うなら、まあ……休みが増えたのだ。今までは週に十回は空に出ていたというのに、最近はほんの五、六回。退屈だが仕方がない。暇を持て余したパイロットたちは早々に専用の宿舎に飽きて、塔をうろついたり食堂に集ったりして日々をやり過ごしている。仲間意識が強く内輪でつるむことの多いトビウオのメンバーはなかなか隊員たちに馴染むことができないので、やはり食堂だろうが廊下だろうが集まっているのをよく見かけた。現に僕もこれから食堂へ向かうところだ。

 食堂のある一階の廊下に出ると、南向きの大きな窓から強い日が射し込んでいる。七ノ是の宿(やどり)は他の塔よりも廊下が狭い作りをしているが、その分窓が大きく開放的だ。ふと人の気配を感じて前方に目をやると、明るい金髪の小柄な女性が入口前の窓ガラスに背を預けて立っていた。左の頬から顎にかけてローマ数字の三のタトゥーが刻まれている。オーバーサイズのジャケットは前が開けられ、これまたやや大きめのズボンのポケットに手を突っ込んで気だるげなご様子。僕がトビウオに配属されてから何度もお世話になった上島操乙だ。

 

「ミサト先輩! ……と、うわ、遠藤先輩!」

「『うわ』って」

 

 挨拶をするべく駆け寄ると、柱に隠れて見えていなかったもう一人の人物が見えた。まず目に入るのはパイロット用のジャケット。パイロットにしては高い背丈、軽くセットされた茶髪にどこか神経質そうな瞳。しかし振る舞いはラフで親しみやすそうな印象を与える男性だ。九十九期──賢者の世代、上島と同じく十年前の生き残り。決して火力のあるモデルとは言えない『海沈(うみうし)』に乗っているにもかかわらず、撃墜数はトビウオ随一のトップパイロット──遠藤游真だ。

 思わず上げた声に、彼は口をへの字にした。上島はケラケラと笑って彼の脇腹を小突く。

 

「悪意は無いでしょ? アンタ意外に憧れの的だからね、トップ6の遠藤游真クン」

「トップはお前もだろ」

 

 彼らはトビウオの二人のエースを含む成績上位の六人、トップ6のメンバーだ。シクリッド型のエースである上島操乙、ウミウシ型のエースの遠藤游真。龍型の清瑞透にピラニア型の金古千永。そして鮫型のエースかつ龍人の睦月憬翔にカジキ型エースでありトビウオ部隊長の斎藤景飛。この六人が撃墜数や任務完遂数がずば抜けて高い者として世界的にも有名なパイロットだった。彼らは何度も墜落し、その何十倍もの数を堕としてきた。それはフラグメンツに留まらず、時には人も、竜も相手になる。そんな二人と任務でもないのに一緒になるなんて、今日はとてもラッキーな日だ。

 

「あれ、あんた痩せた?」

「減量中ですよ、目出度く竜からシクリッドに機種を変えることになったんで。来週から先輩のとこに配属です」

「へー、おめでと。シクリッドは体重制限厳しーからね。海沈なんかはゆるっゆるだけどぉ。だろ、ユーマ」

「俺は身長があっただけで、別に重いから海沈な訳じゃないけどな……規則が緩いのはキャプチャーの奴らだ。朝礼にも殆ど来ない」

「あんたもでしょ」

「俺のは時々で…………寝坊だ。少し遅れてるけど一応行ってる。彼奴らは起きてても来ないだろ」

 

 じろじろと観察してくる上島に、顰めっ面の遠藤。確かにキャプチャーという捕獲や拘束を得意にしている章魚(たかうお)型や烏賊(うぞく)型、海月型などは朝礼の出席率が低い。そして遠藤さんはほんの時々、朝礼開始の鐘と同時か少し遅れてやってくることがあった。噂では真夜中まで犬やら猫やらの動画を見ているに違いない、と言われている。彼が犬派なのか猫派なのか、というのは意見が分かれるところだ。

 僕の配属先となったシクリッドはさらに幾つかの種に分かれている。僕はシクリッド型アイスポット種。上島はシクリッド型オスカー種で、アストロノータスというネームを持っているのだが、オスカー種といえば彼女、という認識が強すぎるために大抵はオスカーと呼ばれている。遠藤のネームはB-angel。青い天使、というらしく機体も美しい青色だ。彼の持つ弾丸には猛毒が仕込まれており、当たれば生きては帰れないと言われている。彼は弱点の分かりにくいフラグメンツを討伐するのに特化した存在なのだ。

 

「景飛さんも憬翔さんもマイペースすぎて何も言わないからな。はあ、トビウオはそもそも頭から個人主義だしさ……」

「誰が何だって?」

「げっ、景飛さん……」

「景飛じゃん、珍しー」

 

 遠藤の呟きを拾った声。柱の影から現れたのは話題の人物、斎藤である。これまた小柄な彼もジャケットに身を包んでいる。常にきっちりと纏められた前髪と短い釣り眉がいかにも神経質そうな印象を与えていた。遠藤は慌ててやや崩れた敬礼をした。習って僕も急いで礼をする。上島は頭の後ろで手を組んだまま、口先を少し尖らせた。

 

「どこ行くの?」

「食堂だ」

「え~~~!? 可笑しぃ! ご飯食べんの?」

「いや」

「じゃ見回りか! 景飛顔怖いからなあ!」

 

 ケタケタと笑う上島にとくに気分を害した様子もなく、彼は重厚な扉へと向かってゆく。

 

「近頃、隊員の中に不安を煽るような者たちが出てきているからな。行き過ぎているなら罰する必要がある」

「ああ、塔主なんか信用できねーってヤツ? よく言ってられるよねぇ」

「仮にも守るべき立場の者が大勢の前で騒ぎ立てるなど……隊員はおろか塔の者まで不安にする」

 

 斎藤は厚い扉にやや小さめの手を掛けた。開けた扉から、わっと人の声が溢れ出す。壊れたラジオのように断続的に聞こえる音、言葉。塔主、スターマン、フラグメンツが、剣が、殉職、彼奴が、鈴木、死んだ、メニュー、ご注文は、私、僕、昨日、怖い、神様、神様、……神様。

――どうする、俺は……俺は隊員なんか辞めようと思うんだ、おまえはどうだ。

――私もよ、だって……怖いもの。みんな死んでるわ、私たちだっていつ死ぬか分からないもの!

――塔主だって当てにならない、あの人だって……。

――そうだ、死んだ、俺たちが勝てるわけないんだ。

 

 嫌な空気だ。士気が無くなり、自らを律しようとする意識が低下している。渦巻く諦念や疑心の中心には一人の男性がいる。何かにつけ彼の口から塔主が、灯台守が、と聞こえてくる。今回問題視されているのは彼で間違いない。今の塔主の働きについて、隊員の命の保障について、灯台守や班の不安定さ、果てには十年前の戦争の話、当時の塔主たちの話――。口を出しているのは彼だけではない。周りの者たちも口々に不安を零している。

 そこへ近づいて行ったのは斎藤ではなかった。明るい金髪――上島だ。

 

「あんたたち、塔主のこと好き勝手言ってるけど、普段どれだけ世話になってるか分かってないの?」

「俺たちの神様だって、俺たちの心は汲んじゃくれない! スターマンも干渉してきてるだろ、本当にゼペネは大丈夫だって言えるのか……!?」

「塔主だって人間だって知ってんの。完璧じゃないんだからさぁ、頼りきりになるのどうにかしなよ」

「頼られるのが、天児を導くのが仕事だろ!? そのためにその地位にいるんだろ!? そんなのが頼れなかったらどうしたらいいんだ! 俺たちは弱い! 死にたくないんだ! なら、神様に縋るしかないだろ! どれだけ不安でもそれしかない!」

 

 上島は溜息を吐いた。けれど僕を含め、誰も何も言えなかった。事実、僕たち天児は塔主たちに頼りきっている。殆どの者が無意識に命を預け、大きな戦闘の時は真っ先に塔主たちを仰ぐ。そして塔主が亡くなった時、悲しむより先に不安に思う。塔の行く末は? 次の塔主は? その人はいい人だろうか?

 

「死にたくないなら隊員なんかさっさと止めちまえばいいだろ。周りを巻き込むなよ」

「あんたは怖くないかもしれないな、一度戦争を生き残ったんだから! でも全員があんたや塔主のように力があるわけじゃない。……俺たちの命なんて紙屑みたいなもんだ、スターマンからも見下されてるって知らないのか!? 」

 

 上島がうんざりしたように白目を剥く。男はそれすら目に入っていないのか、捲し立てるように喋り続ける。

 

「ただの人間が、政府の奴らが俺たちを戦争に使おうって言ってたんだ、三留の塔主に金の話を持ち掛けているのを聞いたんだ! あんたトビウオの奴だろ、あんたたちは人を殺したことがある、塔主の中にもそういう奴が何人かいるって知ってるか、そういう奴らは決断できちまうんだ、殺したことがあるから、今更怖がることも無いんだ! 十年前の生き残りなんて大体そうだろ、仲間が死ぬのにだって慣れてる、とくに百期はそうだあそこはもう何人も残ってないんだから! 塔主でも死ぬ。前回だって塔主が全員いたのに死んだのは一瞬だった、あの『栄光』の時代の人間が、名家の出身が大勢死んでるんだ! 今の塔主にそういう奴はいないし、二人は百期の生き残りだ!」

 

 それに、と男は叫んだ。

 

 

 

「大火神が死んだんだぞ!」

 

 

 

 鮮やかな動きで、上島の右手が男の頬を殴った。その小さな体躯のどこからそれ程の力が出せたのだろう。肉の焼けるような酷い臭いがした。左頬を焼かれ、尻もちをついた男が恐怖を浮かべた顔で上島を見上げた。

 怒りだ。上島の瞳に浮かんでいたのは、ただ真っ直ぐな怒りだった。普段は透き通っている黒い瞳が、その奥に炎を燃やして僅かに赤く明滅していた。長身の男に尻をつかせるのは上島の体格では無理だ。それは誰の目から見ても明確だった。けれど男は倒れた。誰も動けなかった。食堂はしんと静かになった。上島の瞳に宿る確かな怒りが、その場にいた者たちを圧倒したのだ。

 

「ふざけんなッ…! アイツは神サマなんかじゃない! 取り消せ! 逸頼の死を、特別扱いすんな!」

「上島、控えろ。内部抗争は厳罰対象だ」

 

 彼女の燃える瞳が、空気を焼いて震える右の拳が、まるで大きなひとつの炎のように見えた。慌てたように止める斎藤の声に、彼女は振り返ることもしなかった。彼女のジャケットの背に小さく縫われた黒い火蜥蜴が熱気で揺らめいた。

 

「いくら景飛の話でも聞けないね。あたしは一火を誇りに思ってる。こんなとこで引いたら、仙波と逸頼が繋いだ名が廃る……!」

「操乙っ、止めろよ! 景飛さんも…っ」

 

 斎藤は何も言わない。遠藤が慌てて彼女の小さい肩を掴んだ。彼女は少しも動かない。溢れる熱気に、遠藤は急いで手を離した。彼の手のひらは赤い。

 

「許すもんか」

 

 ――上島操乙は百期生だった。期待されない不作の世代。彼らが戦闘訓練を始めた頃、業の強さの指標となる能力値平均は例年の八割ほどの数値に留まっていた。故に彼らは期待されなかった。能力は弱い、戦闘成績も悪い。おまけに素性の知れないものも多い。唯一の期待を一身に背負ったのは彼女の同僚である三留の塔主、佐々木だけだ。彼らの命は十年前に殆ど散った。残った者たちもこの十年の間に擦り切れるように死んでいった。けれど上島とともに行動していれば分かる。彼らの魂は摩耗していない。彼らは不思議な繋がりを持っている。死んだ者たちの遺志を、馬鹿らしいほど大切そうに抱きかかえている。それだけが彼らの生きる意味だとでも言うように。

 上島は百期生だ。百期生最後のパイロット。彼女は実力だけでこの高みにまで到達した。それは二人の塔主も、とある灯台守も、看護班の男も同じだ。彼らにとって、生きていることは特別な意味を持つ。決して紙屑などではないのだと、彼らはよく知っていた。

 遠くからバタバタと煩い足音が近づいてきて緊張が解ける。足音は食堂の前で立ち止まり、ばん、と勢いよく扉が開かれた。新米だろうか、調査班の腕章を付けた少年が手紙のようなものを持っている。

 

「緊急連絡、緊急連絡! 塔主、吉川様から………………え?」

 

 彼は書類を取り出しながら読み上げたが……途切れた声を斎藤が急かす。

 

「……早く読み上げろ」

「す、すみません! 五柳塔主、小林雨覚様が──」

 

 続いた言葉を信じられた人は、果たしていたのだろうか。

 誰にもこの先のことは想像できなかっただろう。

 

 

 

「──殺人容疑で捕縛された、と……」

 

 ざわ、と空気がどよめいた。塔主が人を殺した?

 

「亡くなった方は……?」

「秘匿です、ただ、状況を見るに……彼の直属の部下かと」

 

 人を殺した。しかも直属の部下を。塔主ともあろう人が?

 恐る恐る上島を見る。彼女は硬直している。先ほどまでの炎はそこにはない。冷たい沈黙、いや、空白が彼女を取り巻いている。けれど彼女の瞳は力を失ってはいない。強張った唇から、ほんの少しだけ震えた声が落ちる。

 

「は……? 嘘だ、雨覚が、あんなに大事にしてた自分の部下を殺すもんか。何かの間違いでしょ」

 

 調査班の少年は困ったように硬直している。斎藤は詳細を聞こうと近づいていき、遠藤は考え込むように俯いた。再びざわつきが満ちていく中で、先ほどの男性が突然立ち上がった。大きく鳴った椅子の音に少年も含めた全員の目が彼に集まる。

 

「……やっぱり百期生は違うな、ろくな事をしない! 面倒事を起こすくらいならば十年前の戦争で──」

「……てめえ、それ以上言ってみろッ!」

 

 上島が吠える。再び空気が膨張した。爆発した熱風が渦を巻き、焼かれた肌がチリチリと痛む。防火性に優れているはずの床や、高い天井まで焼き焦げそうだ。あまりの熱気に誰もが息を止めた時、また廊下の方から靴音が聞こえてきた。つかつかと早足で近づいてきて、そのまま入ってくる。

 

「静かにしろ、何の騒ぎだ!」

 

 入ってきたのは隊服を着た一人の男性だった。頬骨のあたりに真新しい傷があり、彼の眉は苛立たし気に顰められている。

 

「……灯台守殿」

「花仙さんだ……」

 

 男は灯台守の花仙楓白だった。彼はざわつく周囲や彼に向けられる好奇の視線を気にも留めず真っすぐに上島の方へと向かっていった。

 

「上島」

 

 上島は同志の登場にその眼光を緩ませた。表情は未だ硬かったが、あの爆発するような炎の面影はそこにはない。

 

「……カエデ」

「不用な騒動は起こすな」

 

 彼女の瞳に宿っている小さな不安を、彼は知っているように見えた。けれど彼は厳しい声色で彼女を律した。上島はまるで裏切られたかのように目を見開く。それを見止めて、花仙は初めて苦しそうに目を伏せた。今まで誰も、彼のそんな姿を見たことはなかった。灯台守も塔主に次ぐ実力者であり、不安定な姿を見せることは許されていなかった。

 

「……操乙」

 

 上島のくちびるが僅かに震えた。花仙は数歩近づいて、とても小さな声で彼女の名を呼んだ。上島はいよいよ悔しそうな顔になって、泣き出すのではないかとはらはらした。花仙はその美しい形の目を歪め、自分でも確かめるように、一言一言ゆっくり話す。

 

「雨覚の事は事実だ。俺も確認した。処罰は追って下される。彼奴は重要な戦力だから……普通なら死刑だ」

「……なんで」

「分からない。何も」

「カエデも分かんないの、じゃあハッカは? ハッカは何か言ってなかった?」

「排歌は……体調を崩している。いまは話ができる状態ではない」

「そんな、……じゃあ、なに、さめさめは殺されちゃうかもしれないの」

「否定はできない」

「そんなのないだろ! あいつが今までどれだけ……! 良いだけ使って、最後には殺すって!? 昔からそうだ、あんたもハッカのことも、ニスイのことも、他の皆のことだって、散々使っておいて用が済んだら捨てるって!?」

「操乙、…………今だけは諦めろ。状況も、時期も……何もかも悪すぎる」

 

 花仙は苦々しく上島を咎めた。何時だって周囲の批判の中で、それでも抗って生き延びてきた彼らだったが、今回ばかりはどうしようもないのかもしれない。しかし彼の瞳に滲んだ僅かな諦念と揺らぐ感情を、上島は見逃さなかった。

 

「やだね」

 

 吐き捨てられた言葉は力強く、瞳は再び燃えるように輝きはじめた。花仙の目がそれを捉えた。彼の瞳の奥に灯っていた小さな炎が、火を受け継いで迸った。彼らの内に潜むなにか、とても力強い、獣のような、彼らの持つ特別な意志が、渦を巻いて彼らの身体から溢れ出したかのようだった。それはむき出しの刃物で、地を駆ける獣の脚で、氷のように冷たく燃える、弾ける火花だ。

 

「世界の皆がさめさめを疑っても、あたしは最後まで信じる。だって、トビウオと百期生だけはあたしと一緒に戦ってくれたもん。命を懸けられない奴らのことなんて知るか」

 

 周囲は既に黙り込んでいた。あの男も、斎藤も遠藤も、何も言わない。ここは彼らだけの世界で、舞台で、誰にも獣の道を塞ぐことなどできないのだ。

 

「あんたはどうなの」

 

 その言葉に、花仙は何も言わずに目を細めただけだった。彼はそのまま身を翻して去った。上島も何も言わず、その背をじっと見つめて立ち竦んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.verifas  Verum cur non audimus? quia non dicimus.

          (真実を、どうして、私たちは聞かないのか。なぜなら、私たちが言わないから)

 

 

 

 

 

 

 どうして病院というものはこれ程独特の雰囲気を持っているのだろうか、と考えることが時々ある。非日常の中にいる人々が集っていて、何だか具合の悪くなる空間だ。ここ夢屋本館は大病院で、入院者は大抵重病者か、治る見込みのない者ばかりだと言われている。私がこれから尋ねる予定の人物は――後者だった。私の塔主である葉月裂が、その師匠にあたる前代第十番塔『十六夜』の塔主に尋ねたいことがあるというので、所謂お遣いのようなもので来ている。

 夢屋は七階建てで、中央は吹き抜けになっている。何故か移動手段は豊富にあり、階段からエスカレータやエレベータ、ここ数年で作られた軽量型エスカレータのような物まである。中央部の柱に取り付けられたそれに乗ると、一気に五階まで昇っていく。ふと下を見れば忙しそうに行き来する看護班のメンバーや杖を突いて歩く隊員らしき体格の良い男性が見える。センター分けをした黒髪のマスクの男性が、白ごまプリンのような頭の男性をせっついて歩いていく。そこに合流する可愛らしい顔立ちの女性。ふと顔を上げれば大きな鳥がすぐ近くを掠めるように飛んで行った。あれは不死鳥だ。巨鳥は七階の手摺に止まるとたちまちに人の姿になって、一室へと入っていったようだ。

 五階に着く。一歩踏み出して廊下に降りると、先ほどまで乗っていた床はすっと降りていく。廊下に射し込む光は温かく、反対にリノリウムの床は冷たくしんと静かだ。このフロアは静かすぎる。死が近い人、近すぎる死からもう逃げられない人、半分死んだ人。そんな人が寝泊まりする場所だからか、とても静かで冷たく、同時に悲しいほどに穏やかで温かい。並ぶ数室のうち、比較的古い作りのドアが幾つかある。何度かここを訪ねているため、部屋番号に間違いはない、と思っていたのだが。一番端の扉をノックして開いて室内に目をやると、ベッドにいたのは和装の女性だった。部屋を間違ってしまったらしい。

 

「わ、す、すみませ、」

「あら、可愛いお客さまですわね! 初めまして、鳴守ちとせですわ」

 

 彼女はこっち、と手招きした。白く長い髪は肩のあたりから先が黒い。左目を通過する大きな傷痕が痛々しく、しかし眼差しは優しい。差し出された白く美しい右手はよく見れば傷だらけで、小指と薬指を失っていた。黒目の奥に時折吹く緑色の様子から、彼女が生命か風を操る天児だということが分かる。そして、鳴守という名前。彼女は前代の第二番塔塔主であり、皐月断丸の師範だ。桜宮と同じく十年前の戦争に大きく貢献し、そして生き残った三人の塔主のうちの一人。大怪我を負ってこれ以上戦えなくなったため塔主の座を皐月に譲ったのだと聞いている。

 何かと辛いことが多いだろうこの生活の中で、けれど彼女は優しく穏やかだ。それが諦念からくるものでなければ良いのだが。

 

「貴方、十桜の子よね? 寒凪ちゃん──ええと、桜宮寒凪をお探し? この間お部屋を取り換えっこしたから……彼はお隣さんよ。ちょっと待って、今呼んでさし上げますわ」

 

 鳴守は傍のテーブルの上にあった携帯電話を手に取る。ツーコール。彼女はパッと明るい表情になって、わくわくを抱えた子供のように喋る。

 

「もし、寒凪ちゃん。お客様よ。……ええ、ええ。きっと裂くんからの伝言よ。こちらにお出でなさい、紅茶を出してあげる」

 

 そこで通話は終了したらしい。鳴守はにこにこしたまま引き出しを開けて茶葉を取り出し、ティーポットに入れてお湯を沸かす。手伝おうとするよりも早く、手慣れている彼女はさっさと支度を終えてしまった。これが彼女にとっての日常なのだ。そうだ、と彼女は手を合わせた。

 

「もし吉川稀助くんに会ったら、針嶌柳蛇丸が会いたがってたって伝えてもらえないかしら。お友達と仲良くやれてるか気になるんですって」

「吉川殿に……? 分かりました」

「よろしくね」

 

 二回、ノックの音。はい、という鳴守の返事を待って、音もたてずに扉が開く。桜宮だ。彼は毛先の黒い白髪を一つにくくり、葉月にも劣らない相変わらずの無表情で入ってくる。肌は陶器のような柔らかく美しい白色で、瞳は質の良いジェット石のような黒。鼻筋は硬質だが品があり、血管の浮いた白い手の甲もしっかりとした首も彫刻じみている。

 

「……誰だ」

「前も来たでしょう、十桜の――」

「ああ、分かった」

 

 彼は真っ黒な瞳で私を見ている。魂でも見ているのだろう。十桜の人間は魂や霊に触れる力を持っていて、力を使う時はこのような目つきになりやすい。彼のように途轍もなく力の強い者ならば目立つことは少ないが、専門外のことをしようとすると分かりやすい。彼は葉月のように魂を扱うよりも予知能力に長けている。彼は夢を見ることであらゆる未来を予見する。よって彼との会話はスムーズに進みやすい。

 

「何度やっても無駄だと、奴にはよく言って聞かせた筈だが……」

 

 葉月の話はこうだ。彼は鈴木が殉職してから、事の経緯とこれからについて鈴木と話し合おうと思いついた。そこで十桜に伝わる口寄せの力で鈴木の魂を呼ぼうとした。しかし、彼の魂は数度にわたる呼びかけに応じなかった。探しても見つからない。無論、そのことを葉月は知っていたようだ。けれどらしくもなく、彼は諦められずに嘗ての師に相談しようとしたのだ。桜宮もそれを知っている。何時『視た』のか定かではないが、彼は葉月の事情を承知で、そして彼もまたらしくなくその相談を受けようとしていた。

 桜宮はゆっくりと歩いて慣れた様子で鳴守の傍の椅子を引き出して座った。彼女は紅茶を三人分いれた。花柄の上品で可愛らしいカップだ。桜宮は小さな声で礼を言い、手の中でくるりと紅茶の水面を揺らした。差し出された砂糖は遠慮し、ミルクだけを注ぐ。渦を巻いた白色はやがて溶け込んで紅茶の一部となった。香りも色も、その面影はない。

 一口飲んだ桜宮は少し陰のある瞳を私に向ける。

 

「何の話だ、」

「寒凪ちゃん、裂くんが相談事があるんですって」

「そいつは?」

「伝言役よ」

 

 桜宮はぱちりと私の目を見た。

 

「前にも会ったな」

「ええ」

「それで……死口をしたいと言ったのは誰だ? あれは何度やっても無駄だ」

「葉月殿です」

「葉月?」

「はい」

 

 彼は再び考え込む。瞳は相変わらず真っ黒だ。

 

「そいつは、何故中央都市にいる?」

「え? ええと、葉月殿は今は海堂にいらっしゃいます」

「裂は先に…………いや、何でもない。それで、奴は鈴木を呼びたがっていたらしいが。全くの無駄だ、死者を呼ぶ術は最早無い。十年前、俺も裂と同じことを試している。無論数百年前の塔主を呼ぼうとしたこともある。応えるのはごく僅か……いや、条件がある」

「条件ですか」

 

 桜宮は黙って頷いた。鳴守が心配そうにちらと彼を見た。彼女の脚に掛かっている布団は日の光を受けて様々な白色を滲ませている。左脚にあたる場所は大きな影を作って青白い。ぼんやり見つめていた桜宮が溜息ともつかぬ息を吐いた。私は降霊について詳しくないが、透視と降霊を得意としている彼が言うなら間違いはない。

 

「ここ百年で死んだ者の魂は寄せられない」

「それは、どうして」

「さあな……原因も理由も分からない。……残念ながら、死した者が帰らないのはこの世の定めだ。俺の友人も死んだ。兎に角、もう還ることはないし、俺の力でしても霊と話が出来ないのは事実だ」

 

 桜宮は窓の外を見た。窓枠には金具の跡がある。眩しい光が網膜を焼いて、チリチリと痛い。彼は眠たげに瞬きをした。それきり何も言わない。風が、彼の手から空になったカップをそっと攫っていく。小さく音を立てて、テーブルの上に着地。欠けた指で髪を整えながら、鳴守は微笑んだ。

 

「寒凪ちゃん、もうお戻りになった方が良いですわ」

「ああ、でも……緋炟が此方に向かっているようだ。丁度良い、俺も聞きたかったことがある」

「あら、そうなのね。……うん、じゃあ此処に居れば良いわ。後で文利くんや海春ちゃんも来るのだし」

「何故二重風の者が来る」

「あらやだ、貴方この間子供を助けて無茶したじゃない。経過観察よ。貴方肋骨が足りないんだから、走るなんてとんでもないことだったのに」

「走ってなどいない」

「走ったわ。柳蛇ちゃんだって見ていたもの」

「……この話はもういい」

「あら、そう?」

「……ええと、では、私は退室します」

「ええ、吉川くんによろしくお願いしますわ。気を付けて」

「はい」

 

 立ち上がってドアに手をかけた瞬間、気配。男性で、その胸に炎の魂を抱いている。コンコンとノックの音がした時には既に扉を開けてしまっていた。少し長い髪をバンドで纏め上げた男と至近距離で目が合う。両耳はごついピアスで飾られている。分厚い特製のジャケットや少し肌荒れした頬骨の辺りを見るに、鍛冶班の者だろうか。彼は驚きに目を見開き、やや小さめの黒目を輝かせた。

 

「うおっと、悪いな」

「いえ、こちらこそ」

 

 一礼して道を譲ると男も返礼し、慣れた様子で部屋へ入っていく。

 

「おい寒凪、来たぞ……っと、鳴守さん? 部屋を換えたのか」

「いらっしゃい」

「……緋炟、お前は返答も待てないのか」

「お前と俺の仲だろ」

「はあ…………髄迷は帰ってきたか? 借りていた資料があるんだ──」

 

 ばたりとドアが閉まった。穏やかで静かな廊下に放り出され、私は身震いした。突然の沈黙は好きではない。霊も黙り込んでしまうこの時代に、人だけは沈黙してはならない。

 

 

 

 

 

 友人の見舞いをして、売店で飲み物を買う。本館にしか置いていない飲み物が一つだけあって、それがこのサイダーだった。なんでも前代塔主たちが好んで飲んだという噂があるようで、一番人気なのだ。今日は昼前で人が少ないおかげか余裕で買うことができた。喉を通る爽やかな痛み。十月になった今でも気温はかなり高く、暑い日が続いている。異常気象が進んでしまい、秋と春が短く、厳しい夏と冬が長い。考古学班によれば大昔はもっと涼しかったらしい。九月にはぐっと暑さが抑えられて秋が始まっていた。今は十月でも夏と呼べるくらいだ。十一月に入った瞬間、スイッチを切り替えたように気温が下がってゆく。そういうわけで、昔の人なら十月に入っても人気のあるサイダーに驚くかもしれない。瓶の口に近づいた唇で笑う。まだまだ元気な弾けた小さい水滴たちが唇を濡らす。その感覚を食堂の隅で楽しんでいると、目立った男が入ってくる。黒髪と、ピアスと、ジャケット――あ、と声を出したと同時に彼も気づいて目を丸くする。すぐに気さくに笑って、彼は近づいてきた。手には何やらトレーを持っている。

 

「あー、隣に座っても?」

「どうぞ」

「ありがとな」

 

 混んできた食堂に空きスペースは殆どない。彼は申し訳なさそうに着席した。横目にトレーを見ると、そこにあったのは飲食物ではなく数本の包丁や刃物だった。ぎょっとしてみると、気づいた彼が苦笑いをする。

 

「悪い、紹介がまだだったな。俺は滝沢緋炟。一火の配属で鍛冶班の班長。よろしくな。今日はここのに頼まれて来てたんだ」

「鍛冶班、て、金森君のところですよね?」

「ああ、杜宇悧を知ってんのか」

「年が近くて。私の刀を作ってくれたんです」

「へえ、あいつも鍛冶場に籠ってばっかだから、お前みたいな知り合いがいてくれてよかったぜ」

 

 彼は一火に多い猫のような目を細めた。そうするとますます猫のようだ。頬は焼けて擦り剝け、目の色もやや濁っている。刃を磨く手は火傷痕だらけで皮が厚く、ところどころ赤い。彼は眼鏡を取り出して掛け、丁寧に刃を磨いていく。時々直接指で触れて、熱を与えて整形する。私はサイダーを飲むことも忘れて見入っていた。小さな砥石によって美しく削られていく銀色の輝き。私の刀の輝きもこのように取り戻されているのだと思うと感慨深いものがある。

 

「あれ? 緋炟」

「んー?」

「んーじゃない、来てたんなら顔出せば良かったのに」

 

 かけられた女性の声に顔を上げると、何処か彼に似た女性が立っている。看護班なのだろう、医療服に身を包み、髪は固く結い上げられている。滝沢は目もくれず、手にした銀色に夢中になっている。その目は何処か子供のようでもあり、うっとりとした、恋をするかのようなものでもある。

 

「ヒタチ!」

「うわっ、ああ、火群か」

「あんたまた人を放り出しているんじゃないわよね?」

「…………まさか」

 

 な、と彼が縋るような目つきで私を見る。彼越しに呆れ顔の女性が腕組みをして私を見ていた。

 

「大丈夫ですよ、私も興味があって見せていただいていたんです」

「…………そ、なら良いけれど。嫌になったら無視して置いていきなさいね」

 

 彼女は溜息を吐く。ネームプレートには「滝沢」の文字。私の視線を追った男の方の滝沢が笑った。

 

「こいつは俺の妹。看護班の副班長でさ、忙しくっていつもキリキリしてんだ。あんま気にすんな」

「はあ……」

「あんたが緩みすぎなんだと思うけど。ここ数か月は本当に忙しいんだから」

「ま、そりゃそうだろ。俺たちも忙しいんだぜ? なんせメンテも新規も多いんだ。くそ、思い出したらイライラしてきたな。この前作ってやったばっかりだってのに折りやがって……」

 

 予算、鉱石。ぶつぶつと呟きながら彼は包丁を片付けてメモ帳を出す。

 

「それに比べりゃあ一部はたいそう行儀がいい。野村も滅多に壊さねえし、小林は折ったことがねえ。手入れも丁寧だしな。ああ、主戦力がいい子ばっかりで俺は嬉しいな。いや、そうでもないか? あの兄弟姉妹は葉月以外なら何回も折ってるな。怪力すぎんだ、人外だからって……」

 

 はたと止まった呟きに顔を上げると、滝沢(兄)は目を閉じてペンを回していた。集中しているようだ。いくつかメモを取って帳を仕舞う。

 

「今日の予定は?」

「仕事は無いぜ、誰かさんたちがやらかしたりしなきゃな」

「あら、そ。赤坂君が呼んでたわよ、…………例のことで」

「はあ、仕方ねえなあ。三日後って言っといてくれよ」

「今日暇なんじゃないの? 先延ばしにしたって良いことないわよ」

「わーかってるよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らすと、滝沢(妹)は包丁を持って立ち去って行った。その背にありがとよ、と声をかけて、滝沢(兄)は頭の後ろで腕を組み、大きく息を吐いた。彼はどこか物憂げに見える。どうしたのか、と聞けば彼は苦笑いをした。

 

「いや、今回の戦争のことで少し考えてた。どうにも十年前と似てるように思えてな。まあ前回は一週間に四人も塔主が亡くなるくらいひでえもんだったけどな」

「それは経験からですか」

「まあな、伊達に長く生きてねえ。ただの勘だ。だが……今回は駄目だろうな」

「え?」

 

 滝沢は肩を竦めた。目はじっと向こうを見ている。何か遠くを見つめたまま、彼は呟いた。

 

「皆死ぬ覚悟でいるんだ。十年前の生き残りは、今度こそ、って覚悟してる。うちの刀鍛冶の連中だってそうだ、勿論自分の命も、そして自分の魂に等しい、刀とその使い手のことも。人が死ぬ瞬間ってのは、何度経験しても嫌なもんだ」

「わかるんですか、その……自分が作った武器のことが? 使用者も?」

 

 滝沢は声には出さずにただ頷いた。目は閉じられて、彼の心は沈黙している。

 

「俺たちは魂を込めて武器を作る。だから……何だろうな、十桜のお前なら分かるのかもしれねえが、そいつが壊れると何となく分かるんだ。魂が削られたような……っての?」

 

 彼は手元をじっと見つめていた。彼は感覚を再生している。私の手が勝手に震えた。

 

「刀がさ、折れてくのがわかる。そういう音が聞こえるような感覚だ」

 

 がきん、と硬質で、しかし儚い音が聞こえた。迫る、波。見開いた目いっぱいに広がる鮮烈な白、白。はっと息を吸って遠くを見る、あそこに、彼がいた筈なんだ、今、胸が苦しくなって震える息が口元から押し出される。死んでしまう! いや、彼は、今は?

 追体験していた意識が戻ってくる。そっと吐いた息は気づかれなかったようだ。

 

「天児の身体能力は基本的に人間と同じだ。混血はそもそも体が強いし、階級の高いやつには例外もいる。だがな、大抵は生身じゃまともに戦えない。武器使ってるような奴の武器が壊れるってのは、それ即ち死だ」

「…………」

「若いのばっかり死んでくなぁ……」

 

 滝沢は苦しげに呟いた。天児は確かに人間だ。勘違いされやすいが、身体能力も寿命も人間と殆ど変わらない。怪我でも病気でも死ぬ。時々丈夫な者がいて、そういう人たちが上の立場になっていく。一火、三留、四核と、六式、八のほんの一握り以外は皆何かしらの武器を持っている。それは強靭な肉体を持つフラグメンツに対抗するためであり、生身で立ち向かえるほど能力値の高い者が限られているためでもある。鍛冶班の仕事は死傷者を減らすことだ。彼らは最も古い班のひとつであり、長いこと天児たちを守り続けてきた。彼らのような、技術からサポートする者たちは比較的生き延びやすかった。戦場に立つようなことは滅多にないし、何処の班員よりも厳重に保護されているため襲われることも少ない。

 

「俺たちはさ、歳をとりすぎた。二十代がわんさか死んでいくこのご時世に、三十も四十も生きてるっていうのは異常だぜ? スターマンみたいにあらゆる意味で強えならまだしも、天児で生きてるやつは相当な強運か、……臆病者だ」

 

 小さく吐き出された言葉の真意を知ることはできない。この十年を生き延びて再び戦火の中へ行こうとしている人々のことを、私たちはきっと一生理解できないのだろう。彼らの抱く苦悩や恐怖の半分も、私たちは理解できないだろう。彼の瞳にいる真っすぐな感情も、その正体を理解することはできない。

 

「俺は後者だよ、戦うのが嫌で嫌で、副班長に憧れて、覚悟も無しにここに来た。仲の良い同期は皆戦いに行っちまって……」

 

 窓の外を鳥が飛んだ、その影だけが一瞬の暗闇を作って目を塞いだ。青い空が地上を焼きそうだった。彼の濁った目が影を追いかける。瞳は透き通って、空白だ。

 

「誰も帰ってこなかった」

 

 正しい意味ではな、と付け足して、彼は口を噤んだ。

 

「戦争ってのはそういうもんだ。誰にも等しく死があるように見えるが、あるとき突然、運命的に死んでいく奴もいる」

 

 彼は何を見ている? 青い炎が彼の瞳を照らした。二度。彼は一火の人間で、自分の塔の主の死を二度も体験している。彼の思い浮かべた人物のうちの数人を想像することは難しくない。

 

「塔で生きるには覚悟がなきゃな、隊員だろうがなかろうが。自分の死も友の死も、何とかして飲み込めりゃ良いんだが……」

 

 彼は深く息を吐いて、私の目を見た。奥底に窺うような色がある。きっと彼はまだ若い部類の私を心配しているのだ。丁度十年前、彼は私と同じくらいの年齢だったのかもしれない。だから彼は心配しているのだ。同じ轍を踏まぬように、と。彼は後頭部をバリバリと掻いて、今までの空気を払拭するように身体を起こした。ふと食堂の方に目をやれば、珍しい人物が入ってきたことに気づく。四核の奥田だ。滝沢と同じ素材でできたコートを着て、ゴーグルをしている。白い頬に浮かぶのは赤い蛇の鱗、その隙間からは黄金色が覗いている。小柄な彼は座ったままの滝沢の近くに来ると、そのゴーグルに隠された蛇の目で滝沢を見下ろしたようだった。

 

「滝沢班長」

「はい、はい。あんまり班長って呼ばないでくれよ、あんたのが歳上なんだからな、奥田副班長?」

「能力に歳は関係ないだろう……花仙が来た、『紅波』の握りを調整したいらしい」

「はいよ。すぐ行く」

 

 丁寧に見えてどこか気安い様子で彼らは言葉を交わす滝沢は立ち上がってひとつ伸びをした。ちらと目の合った(ような気がする)奥田に一礼すれば彼も返してくれた。滝沢はひらひらと手を振る。

 

「じゃあな。お前も……後悔だけはするなよ。後悔している限り、人間は前には進めねえ。……年上の知恵だと思って受け取ってくれ」

 

 彼らが背を向けたのと同時だったろうか。調査班の女性が足早に近寄ってきた。彼女は二人を見て少し逡巡した後、奥田に向きあう。

 

「どうした?」

「緊急の伝達がございます」

「聞かせてくれ」

 

 女性ははい、と頷いて報告を始めた。

 

「第五番塔『五柳』塔主である小林さまがフラグメンツに酷似した力で、部下を──灯台守の一人を殺害したと報告がありました」

「…………!」

 

 

 ざわ、と奥田の気配がささくれだったのが分かった。塔主が殺人? しかも殺されたのは重要な戦力である灯台守だという。滝沢は困惑を隠せぬ様子で女性に問いかける。

 

「小林が!? 有り得ない、なんでアイツが……報告者は?」

 

「発見者、報告者共に吉川様です。また、直前の戦闘で五柳配属、記録班班長三ツ矢、他二名の殉職が確認されています。……五柳は『九天』上位者の半数を失い、壊滅状態にあります。彼らの死因は処理班の者が現在調査中ですが……その、遺体が、酷く損傷していて……」

 

 『九天』の崩壊。九天は五柳が誇るゼペネ屈指の戦闘部隊だ。主な活動は夜行作戦への参加や諜報だが、実際は暗殺まがいの活動で多くの研究者やフラグメンツを殺していると言われていた。元々孤児だったものが多い塔であり、小林が直々に各地の孤児院やよくわからない場所から連れてきた者が多い。九天が持つ九つの部隊を率いる上位者――先に挙げられた三ツ矢や森海などは小林の腹心と言っていいような者たちだ。それが殆ど亡くなってしまったとなれば、五柳は機能しなくなったも同然だ。彼らは狼の群れのように集団での戦闘か、若しくは一対一の戦闘で最も力を発揮する。総数の少なくなった今、フラグメンツの群れを相手にするのは彼らにとって厳しいことだろう。そこに立て続けに起こってしまった灯台守の死。しかもそれは主人である小林によるもの。彼は気が狂ってしまったのだろうか? それとも彼は腹心である部下たちも殺してしまったのだろうか、それが目的だったのだろうか? 真偽は分からない。情報がまだ足りない。しかし、この状況はあまりに危険で、彼をこのまま野放しにすることはできないだろう。現状を見るに直ぐにでも死刑になるということはないだろうが、何れにせよ処罰は下るはずだ。そして彼が今回の戦争を生き残った暁には――おそらく、死刑が待っている。彼の罪とは言え、彼には戦争で酷使された挙句に死刑に科されるという未来しかない。それはあまりにも悲しいことだ。

 

「……兎に角、上と塔主たちの判断を待とう。僕たちにできることはない。近々スターマンたちも大きく動くらしいから、彼らに付け入る隙を与えさせないようにすることも肝要だ」

「ああ……そう、だな」

「君、このことは暫くの間他言しないでくれ。スターマンの信用に関わる」

「はい」

 

 頷けば、二人はそのまま立ち去っていく。奥田の口元が固く結ばれていたのが何故かやけに目についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.stellr  Silently, one by one, in the infinite meadows of heaven, blossomed the lovely stars, the forget-me-nots of the angels.

          (静かにひとつずつ、天の果てしない草地に、天使の勿忘草である素敵な星々を咲かせた)

                           (Henry Wadsworth Longfellow / Evangeline : A Tale of Acadie)

 

 

 

 

 

 星が騒めいている。暗闇に詰め込まれた彼らはひそひそ、輝いているくせ、光よりも遅く音で通信する。全く非効率な方法だが、この世界のルールは覆すことはできない。僕たちは星であって星ではない。生物であって生物でない。実に曖昧な存在で生き続けている。僕らと魂を分け合った天児たちは遠く、人間と同じように生きているというのに。

 ああ、またそこで星が叫んだ。

 

「ゼペネの二つの塔が襲われたらしい。天柱が二人死んだ」

「ああ……あの龍の兄姉か。惜しいな、実に善良で意志の強い者たちだったのに」

 

 遠い海の向こうで、また星の欠片が消えてしまったらしい。二型の天柱、皐月断丸とその妹であり九否の天柱、卯月裁花。沈んだのは大きな星だ。彼らには血の繋がりがないと言われていた、けれど彼らは重なるように死んだという。それなら流れた血の川は繋がっただろうか。最後くらい、同じ血が流れていただろうか。僕には分からないけれど。

 煌々、星々の間に立った鋭い光があった。

 

「裁花ちゃんと断丸くん、死んじゃったの……?」

 

 乙女座のスピカだ。彼女は血の気を失くして花のような白さで立っている。数個の強い光が彼女を見上げた。ここには多くのスターマンが集っている。これから大きな戦いが始まる。そのために、僕たちはそれぞれの王の元へ集うための旅を始めていた。兎に角強い星の元に集合して大陸の中央を目指す。そこで王と合流し、戦いに参加するのだ。事前の通達で、戦う力のない僕は王のために命を捧げることにした。王のたった一つの願いを叶えるのだ。王はたいてい強い願いを持っている。それは今立ち尽くしている彼女も同じだ。

 

「うそ、どうして……?」

 

 件の二つの塔は、フラグメンツの群れの襲撃を受けた。特に被害が酷かったのは二型の塔だったらしい。九否を守り切った卯月は急いで兄の元へ向かった。しかしそこで戦死。その知らせが届いたのは実は数日前である。王である彼女が知らなかったということは極秘の話だったのだろう、でなければゼペネから正式な発表があるはずだ。

 硬直して動かない彼女の肩に触れたのは生白いアケルナルの手だった。彼はスピカの名を呼んだ。彼の静かな瞳を見て、スピカは泣き出しそうに目元を歪めた。

 

「ねえ、なんで死んじゃうのかな、なんで時間は経つのかな、どうしてこんな仕組みになっちゃったのかな」

「……巡り、巡り巡るために時間は必要だ。生まれるためにも、生きるためにも死ぬためにも──」

「そんなの、要らないじゃない」

 

 スピカは彼女らしくない低い声で呟いた。その場にいた数人の王たちは何も言わない。ただ沈黙した瞳に彼女を映すだけだ。彼女はこれまで多くの仲間の死を体験してきたはずだ。武を誇るスターマンたちの一人であった昔の彼女ならこれ程動揺することはなかっただろう。良くも悪くも彼女は変わったのだ。

 

「あのね、私……10年前初めてお友達が死んだ時、何も思わなかったの。でもね、今は悲しくなっちゃった。死んだ人がお星様になるなんて有り得なくて、皆土の中で細かく分解されて誰かの生きるための物になっちゃうんだって知ったの。誰かの中で生きるから悲しくなんてないって、言わないでほしくなったの。誰かを生かすくらいなら、私、大事な人にずっと生きててほしくなったの──」

 

 数人の王のうちの一人、南十字のアクルックスは目を閉じている。薄い色の短髪を風に揺らして、沈黙。彼には口がない。本来なら口があるはずの場所は皮膚に覆われ、風変わりな化粧が施されている。それは十字で、唇のあわいをなぞるように引かれた線を幾つもの縦線が縫い留めるように引かれている。まるで彼が口を開くことを恐れているかのようだ。スピカはアケルナルを見上げた。暗闇にひとつ残された灯のように、彼女の瞳は揺らめく。

 

「大人になるって残酷ね。私は私の胸の中に、今まで死んじゃった大事な人達が生きてるなんて信じないし、そう思って惨めに自分を慰めたいなんて思わないわ。けど、だから……悲しい時、どうしたらいいか分からないの」

「……」

「悲しいのがずっと続くのは嫌だよ、けれど悲しくなくなるのも嫌よ、あの子たちのこと忘れていくみたいで」

 

 それまで黙っていたアクルックスが目を開けた。きらと光る薄い青、遅れて中央から深い青緑が湧き出るように混じってゆく。彼は組んでいた指に力を入れた。浮き上がった骨が白く、はたと彼は瞬きをしてそれを見つめた。

 

「俺たちに許されているのは神を信じることだ。俺たちは神である観測者によって命名され、そこで初めて生まれることができる。彼らは俺たちの命運を知っている」

 

 アクルックスは本来口があるはずの場所に描かれたいくつもの十字に親指で触れた。線を辿って瞬き。目を上げた。

 

「観測者(オブザーバー)に会おう。何か策を得られるかもしれない」

「今更よ、今まで助けてくれなかったのに助けてくれるはずないわ」

「やるだけやってみよう、スピカ。無駄と分かればそれで仕舞いだ」

「……分かった」

 

 観測者――それは僕らを生み出した神だ。星脈の創造者たちであり、僕らの力の種を司る十人の観察者。僕らの神、僕らの親、そして運命。彼らと話ができるのは王だけであり、彼らは僕たちに決して干渉しない。たとえ星が滅んでも、彼らには関係がないのだ。

 アケルナルは結晶で作り出した大きな剣で地に円を描いた。次いで十個の小さな結晶を刺し、それを繋ぐ線を描く。近くにいた水を操るスターマンから水を受け取って溝に流し、結晶で作られた花を添える。最後にナイフで心臓を突く。勢いよく飛び散る赤にぞっとして出そうになった声を押し殺す。彼は結晶に血を纏わせると、中央に捧げられた花を砕いた。瞬間湧き上がる突風、波。心臓の、音。揺れた、青い波。それは髪だった。女性の髪。深い青のドレスに身を包んだ女性が、王よりも力強く寧ろ畏怖を呼び起こすような星の気配を抱して舞い降りる。その瞳も宝石のように輝く青色で、僕たち名もない光の残像を睥睨した。紛れもない神、彼女こそがオブザーバーの一柱、マーキュリーだ。波の属性を持つアケルナルの呼び声に応じて降りてきたらしい。その場にいた王の全員が彼女に頭を垂れる。それから進み出たのはアクルックスだった。マーキュリーは彼の姿を見止めると優しく微笑んだ。

 

「久しぶりね、子供たち」

「ごきげんよう、マーキュリー。プルートはいるかい」

「いないよ。彼は散歩中さ、あと百十年くらいで帰るだろう。伝えておこうか?」

「いいや……ありがとう。ヂェーブシカ、貴女が元気そうでよかった」

「ああ、君も……しばらく見ないうちに増えたな」

 

 そう言って彼女はアクルックスの口元を指した。アクルックスは困ったように眉尻を下げて再び十字に触れた。

 

「まあ、それくらい俺も長く生きたってことさ。今の仲間たちもとても頼りがいがあるよ」

「それは良かった」

「……それで、俺のこの十字にも関わってくる話なんだが――」

「ああ、分かっているよ。君たちのことはずっと見ていたからね」

「まあ、それなら話は早いね」

 

 アクルックスが苦笑する。その一歩後ろでスピカは暗い顔をして俯いていた。アケルナルだけが毅然と前を向いていた。彼の尾のような髪が揺れる。マーキュリーの瞳がきらりと光を反射して美しかった。

 

「貴女はこの戦争をどう見る。何か知っているなら教えてほしいんだ。……裏があるようにしか思えない、そのくらい、何時もの戦争と違っている」

「……言えないよ。それがルールだからね」

「ルールって、何……!?」

「スピカ」

 

 突然にスピカが叫んだ。正しく悲鳴だった、彼女を咎めたのはアケルナルの声だった。彼女はそれに耳を貸す様子はない。血を吐くような声は止まなかった。

 

「規則を守っていれば皆は死んだって良いって言うの!?」

「それが彼らの寿命だからさ。彼らは君たちよりもずっと短命で、それは星の運命によって定められている。万物は神によって創られているが、神もまたひとによって創られたもの。そして運命を決めるのは私たち神ではなく星なんだよ」

「寿命ならっ、運命なら死んだっていいの!? そんなの、…………」

 

 冷気のように、鋭い。それは彼女の殺意だ。彼女を中心として地面から鋭い刃が突き出る。咄嗟に避けたアケルナルの手には剣が握られていた。彼が武器を手にするほど、事態は緊迫している。アクルックスが慌てたようにスピカの顔を見て、目を見開く。スピカの瞳に浮かんだ憎悪、青い波の色は濁ったように深く、まるで嵐の海だった。

 

「……認められない。皆、殺すわ」

「スピカ、落ち着きなさい」

「"Virgo"」

「スピカ!」

 

 王の招集。星座のα星だけに許された特権だ。星座の名を呼ぶだけで、その座に属する者たちを強制的に召喚できる。その仕組みは至極単純で、王以外の星はもともと王の魂の一部だった、という伝承が有力だろう。つまり自分の一部を引き寄せることは造作もないということだ。"Entrust"を使用できる理由もここにある。しかしスターマンの歴史が古くなるにつれて僕たちは力を失っていった。星の力の衰退と血の薄まり、これによって招集や"Entrust"には負荷や厳しい条件、リスクが伴うようになった。今の招集も潤沢なひかりがなければ行えない。

 姿を現したのは二人の男女だ。片方は風変わりな髪形をした背の高い男性で、その細めの目を見るにβ星のザヴィヤヴァだろう。彼も相当な長生きに分類されるスターマンで、二度の全天戦争を生き残っている。もう一人は深い緑色の髪をした少女――リッチだ。無表情と真っ黒な瞳にはさしたる感情は浮かんでいない。しかしどこか静謐な苦しみのようなものが浮かんでいるようにも見える。二人の頬にはスピカと同じ放射状の雫の模様が流れている。彼らは観測者と並び立つ王たちに臆することもなく一礼した。流石、日ごろから王であるスピカとの交流が深い者たちだ。上位の存在に慣れきっている。……しかし、ここに、スピカによく似た青年の姿がない。

 

「呼んだ? 王女さま」

「ええ。……亢は?」

「……死んだよ。昨日。知ってたんじゃないの、ほんとは」

「そう…………ええ、そう、ね」

 

 そう、亢だ。彼も公の場に姿を現すことの多い青年だった。人懐っこく、軽薄そうに見えて聡明で――そこで考えるのを止める。彼は星に還ったのだ。もうここにはいない。悲しんだところで意味はないのだ。

 暗い顔をしたスピカを見て、ザヴィヤヴァは僅かに落とした声で問いかける。

 

「命令は? 我が王」

 

 彼はスピカの騎士だ。随分長いこと彼らは一緒にいた。ザヴィヤヴァの藍色の瞳は静かだ。リッチも何も言わない。彼女は瞳に仲間だけを映して、続く言葉を待っているのだ。

 

「死なないこと、……たくさん殺すこと」

「いーよ。あんたについて行こう。これからも、あんたが願いを叶える日まで」

「……ありがとう」

 

 軽い返事をして、ザヴィヤヴァは薄らと笑った。彼らは何処かで分かっているのかもしれない、王は非常に長命で、逆にその配下の者が王よりも長く生きることは滅多にない。それでも彼らは約束を交わしていた。それは星に願うような脆さを持たず、ただひたすらに結んだ小指を見つめるような切実さを持っている。

 スピカは振り向いた。靡く髪が風を纏って流星のように煌めく。彼女は突き出した結晶の一つを引き抜いた。みるみるうちにそれは長大な槍となった。再び開いた彼女の目はギラギラと輝いている。それは果たして闘志だったのか。それとも、絶望の底にある呑み込めなかった憎しみだったのか。眩しい。光が強すぎて、見極めることは叶わなかった。

 

「私戦うわ。運命だろうが何だろうが、私、正義のために戦う。だってこの世界は間違ってるもの」

 

 彼女の言葉に誰もが息を飲んだだろう。世界は間違っている。もしも運命が存在するなら、それを呪っている、憎んでいる。罪のない者が大勢死んだ、それを歴史上の淘汰だと、これまで等しく繰り返されてきた種の滅亡だと、言い切ることは簡単だろう。彼女も僕たちも、砂時計のように崩れていく不安定な足場の中心にいて、けれど――だから、抗うことを止められないのだ。

 

「そうね、ひとつ言葉をあげる。ノアに話を聞きなさい。あれは特別な存在だ。どうしてか……私たちの知らないことまで知っている。私たちも警戒してあれを観測し続けていたはずなのだけど、どうやら抜けがあったようでね。兎に角、あれと話すことでこの世界についての見識が深まることだろう。もしかしたら、私たちの知らなかったことまで話してくれるかもしれない」

「…………」

「でも、気を付けろ。何者かは分からないが、観測者たる私たちも『見られている』ことに気づいたんだ。ここ数十年の話だがね……何が起こるかは分からない。生き延びたいのなら、最後の最後まで全てを疑い続けることだ」

 

 言い残し、マーキュリーは霞のように消えてしまった。スピカは何も言わなかった。アクルックスは手を二度鳴らして、その場のスターマンたちの注意を引いた。

 

「一週間後。件の作戦を実行する。黄道に属する者は西へ、スピカに続け。南天は南、北天は一時北東へ向かえ。そこで部隊の詳しい指示が出るだろう。王の指示に従え」

 

 皆頷いた。ふと風が吹いた。それに髪を遊ばせていたアケルナルが静かに目を開いた。その瞳が暁星のようにちいさく瞬く。アクルックスはそれを見て、逡巡の後に言葉を続けた。

 

「――ひとつ、言っておきたい。これは戦争で、誰もが死を覚悟した結果だ。しかし全てを王に捧げる必要はない。何かしたいことや伝えたいこと、心残りがあるなら迷わず王へ言え。王はお前たちの魂を縛れども、その心までは縛れない。臆することはない、お前たちは星座である前にたった一つ、今生限りにしか存在しない星だ。例え名を継いでも、同じ魂を持っていようとも、お前たちはお前たちだ。お前たちの命は今生きている、それしかないのだから。…………どうか、それを忘れるな」

 

 ――武運を願う。

 彼の言葉と同時、スピカの青白い光はさらに輝きを増した。彼女は暮れ始めた濃紺の空高くにその灯を掲げた。槍を一振りし、彼女は歩き出した。振り返らずに。星たちは各々移動を開始する。アクルックスもまた歩みを始めた。彼はアケルナルとすれ違いざま、ほんの少し躊躇いの様子を見せた。二人は腕をぶつけ合い、今生の別れでもするかのような静かな笑みを交わした。

 

「すまない、……頼んだ」

「任されよう」

 

 アケルナルは頷いた。アクルックスはまた十字に触れた。それをアケルナルはただ見つめた。それ以上、彼らに言葉は無かった。ひと際強く冷たい風が吹いた瞬間、僅かな花の香りを残して、アクルックスの前から彼は消えた。そしてアクルックスも何処かへと歩き去る。此処に宇宙が始まったかのように、星々は散り始めた。たった一人、自分の王、魂の故郷を目指して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章

 

1.xuno  私が恐ろしいですか。何故恐れるのですか。

     私はあなたと同じようにあなたを見て、あなたに話しかけ、あなたのようにあなたを恐れています。

 

 

 

 

 

 夜だ。暗闇。けれどまるでマリンスノーのように薄らと光る星々。地上は今や宇宙のように、溢れかえる星に満たされていた。星々を辿って、繋ぐ、そして星座をなす。中央には王が座し統治していた。大陸中央部、ここチナンの西側には既に二十を超えるα星たちが集まり、僕たちの招集を始めていた。大陸全体を三つに分け、南天星座は大陸南部、黄道星座は中央から西、北天の星座たちは規模の大きさから北東に配置され、日が沈み準備が整ったら一斉に攻撃を仕掛ける。各地に蔓延ったフラグメンツの巣窟である『獣の巣穴』を潰し、ルージャにある研究施設を叩くのだ。施設には青の一族が同行する手はずになっている。

 見渡す。王たちの放つ光はますます強くなり、一つ、また一つと強力な星たちが集い始めていた。私のすぐ近くにいた深緑の髪の女性は満足そうにそれを見つめている。蟹座だ。彼らは既に全員揃っているようだ。女王はアクベンス。その隣には両腕のない女性アル・タルフがいる。彼女はアルタイルの妻の分身体――アルターエゴだ。彼女は閉じた目のまま微笑んでいる。

 

「アクベンス、準備の程はどうかしら? どのくらい集まってる?」

「ちょっと待ってね~」

 

 アクベンスの目がカッと開く。その眼球に嵌めこまれた白銀の宝玉が青緑に輝いた。同時、彼女から放たれた銀色の光が円状に広がっていく。それはエコーやスキャナーのように、近い星の気配を全て察知する。

 

「十二星座が揃ってないねえ。でも王たちはちゃんとこっちに向かってるよ」

「全く……遅延なんてしたくないのに」

「お、蟹座ぁ~。百年ぶりか、元気だったか?」

「遅いよ、牡牛座……久しぶり」

「仕方ないだろう? 急な呼び出しだったんだから。ついさっきまで南極の掃討をしてたんだしサ」

 

 真っ先に駆け寄ってきたのは肩口まで金髪を伸ばした男性だった。一見柔らかそうな表情だが丹色の瞳は獰猛な獣のように鋭い。瞳孔は深い黒、キョロキョロと注意深く辺りを見ている。彼――21煌で牡牛座のアルデバランもやはり王、警戒心は人一倍なのだろう。ヒュ、と空を切る音。ハッとして見上げれば影、しかし王たちは動かない。ダン、と着地したのはショートヘアの少女。可愛らしいドレスに身を包んだ小柄な上体を起こす。

 

「やほ~! お久しぶり!」

 

 煌めくオレンジの目は角度によって銀色に光る。山羊座のアルゲディだ。彼女は予測不能な戦闘スタイルと奔放な性格で有名である。王たちが反応しなかったのは彼女の星の気配を感じていたからなのだろう。また気配が増える。少女の上方から黄金の光が落ちる。光の粒は蛍のように宙を舞い、集約し、人の形となって散る。ザラザラと崩れて消える光の中から姿を現したのは陰気な青髪の男だ。真ん中で分けられた前髪を目元で揺らし、背は高いのに見上げるような目つきでこちらを見た。牡羊座のハマル。彼はポケットに手を突っ込んだまま此方へ近づいてくる。

 

「集合が遅い。どうなっているんだ、アクベンス」

「いやいや、私が聞きたいよ」

「せめて王だけでも集合しているべきだろう。何をしている」

「皆仕事で忙しいんだよ~。君みたいに火力が低いと分かんないかもしれないケド。双子座、獅子座……それと水瓶座か。彼奴らはつい昨日まで地球の裏側にいた筈だし。……間に合うのかね?」

「何のための招集だと思ってる。地方のフラグメンツよりも今は大元を叩くのが重要だろうが」

「随分な言いようだな、その間地方ででかい被害が出たらどうすんだよ。犠牲者は放っておけって? これだから責任の少ない奴は能天気でいけない」

「まあまあ、二人とも言い合いは止しなよ。どっちの言い分にも一理ある。だから今回の作戦になったんだろう? 地方の危険なフラグメンツをできる限り減らし、一部を除いた星座を全て大陸に集める。そして引かれて集まってきた奴らを根絶やしにする! この策に尽きるよねえ」

 

 少しイライラした様子のハマルに苦笑いのアクベンス。そこにアルデバランが茶化すような言葉を投げ込むと忽ち言い合いが始まる。アクベンスが仲裁し、今回の作戦のおさらいをしてくれる。アルゲディが眠そうな目をきょとんと瞬かせた。

 

「フラグメンツの製造元って、本部はルージャの近くにあるんだよな? どうして皆で北に行かないの?」

「万一逃げたやつがいたら対処が遅れちゃうし、向こうの戦力が集中しすぎるのも不味い。だから施設は叩かずに北から追い立てるんだよ。南には巣が多いから、そっちも叩く。そして逃げてきたやつらをここ中央で始末するのさ」

「北も南も強い人が多いから中央はあまり混戦にはならないだろうけど、逃がすことだけは許されない。……それに、いつ始原のフラグメンツが出てくるか分からない」

 

 そう、今回の目的はフラグメンツの殲滅。強い星の気配を三点に集中させ、そこにフラグメンツも集中させる。南北から中央へ向けてフラグメンツを討伐していき、中央で一気に片を付ける。アクベンスの言葉をアル・タルフが引き継いだ。しかし表情は硬い。雰囲気を払拭するように、アルゲディがひと際明るく声をあげた。

 

「でもでも、始原はあと一体よね? アダムは前に天児にやられてたし……イヴは天柱がやってた。パンドラは何年も前に、いつ、ええと五柳ってところが討伐してたし……って、天児も結構やるじゃん! 残ってるのはノアだけよね?」

「そのノアが一番厄介なんだよ。頭が良いぶん狡猾でやり口も汚い。統率力も高く、他のフラグメンツに指示を出すことさえある。そして頭部は鹿のくせ人語を話す……奴はフラグメンツの中で最も完成品に近いと思う」

「……それって、もしかしたら、青の一族になってたかもしれないって、ことだよね」

「…………」

「……兎に角さ、そいつのことも頭に入れといて警戒すべきってことさ。だろ? アル・タルフ」

「そうだね。中央が破られたらそれこそ不味い。余波は今回不参加の星座や天児にまで及んでしまう」

 

 そっか、とアルゲディは呟いた。彼女の見つめる先で高い位置に輝く星がある。北にいるアルタイルの放つ赤い光だ。北の準備が整った。彼女は気を取り直すように笑って、ぐっと拳に力を入れた。

 

「ここは守り抜かなきゃあね」

「ついに総力戦か……仕方ないなあ」

 

 アクベンスはだるそうに肩を回し、アルデバランは笑い、ハマルは溜息とともに目を閉じる。アルゲディは周囲を見渡して小さく歓声をあげた。アルデバランも遠く彼方を見る。

 

「射手の者たちがこっちを見ているね。ルクバトの視線がゾクゾクくるよ! 私たちもどこかへ加勢に行こうか?」

「あは、ちょっと変態くさいよ、アルゲディ。加勢って言ってもねえ……スピカは既に西に向かってる。アークトゥルスは東へ。追いかけても暫くは死体にしか出会えないだろうね……彼女たちは21煌のメンズとは大違いで働き者なんだ」

 

 周りを見渡せば、続々と王たちが姿を現し始めていた。蠍座、魚座、天秤座。そしてこの場に揃っている牡羊座、蟹座、山羊座、牡牛座。遠方には攻撃準備を完了した射手座、西に乙女座。揃っていないのは先に挙げられた地方組の双子座に獅子座、水瓶座。ただしこの三つは始めから遅刻が予想されていたため、今いなくても大きな問題にはならない。つまり。

 

「無駄口は要らない、アルデバラン。さっさと始めよう」

「カリカリするなよ、羊ちゃん」

 

 アルデバランはハマルの頬を指で突く。その指はハマルの視線一つでスパッと切り落とされてしまった。飛び散る血が彼の頬にかかる。アルデバランは獰猛に笑うと宙に放り出された指を拾って断面にくっつけた。一秒押さえて手を離せば完璧に元通りだ。

 

「酷いな、治らなかったらどうする」

「蛇遣座にでも泣きついていろ」

「そうなったらお前の首も一緒に持って行って懇願してやるよ、コイツの首もお願いします、ってね」

「うるさい」

 

 再び言い合いを始めた二人に蟹座たちの呆れた視線が飛ぶ。開戦を間近にしての喧嘩に慌てて止めようとすると、何処からか深紅の結晶が飛んできた。二人の間に突き刺さる。すわ敵襲かと身構えたが、姿を現したのは真っ赤な髪の女性だった。

 

「おや、君たち。何してるの、もう作戦は始まってるよ」

「ラス・アルゲティじゃないか! 久しぶりだね」

「アルゲディ、君は変わらず元気そうで良かったよ。できたら彼らを仲裁してくれたら良かったんだけど」

「大暴れする成人男性をいち少女に止めろって言うのかい! そりゃ無理だよ」

 

 ヘルクレス座の王、ラス・アルゲティ。彼女は北天に属する星座で、本来であれば北東のどこかにいるはずだったのだが、どうして此処にいるのだろう? その疑問はハマルの質問によって解消される。

 

「お前はどうして此処に? てっきり『将軍』の補佐でもするのかと思ってたんだが」

「そりゃあ勿論」

 

 彼女はにやりと笑って見せた。

 

「――竜退治さ」

 

 わお、とアルゲディの歓声があがる。彼女は諸手を挙げて喜色満面だ。

 

「ドラゴンも出るのかい! 本物を見るのは初めてだ」

「奇形のワイバーンの群れが南下してるんだってさ。御者座から聞いたから間違いない」

「……彼らは誠実だからな。極北の奴らは何処へ?」

「スターマンじゃ珍しいくらいにね。……そうだな、まだ北に居るんじゃないか? それかルージャの近く。正直分からないよ」

 

 何故ドラゴンの相手が彼女に一任されるのか。ドラゴンは本来険しい山々や厳しい自然界にしか存在しないためだ。よって彼らを見たことのある者はそう多くない。加えて、多くのスターマンは空中戦に慣れていない。アル・タルフのように重力を操れる者は少なく、例え宙に浮けたとしても踏ん張れないため思ったように力を出せない。つまるところ、スターマンは竜に弱い。似たような理由から東洋の怪物たちにも弱いのだが、運のいいことにゼペネの天児は妖怪の保護活動が盛んだ。加えて妖怪の混じったフラグメンツの討伐にも積極的で、スターマンが出会うのは妖怪と呼ぶには不十分な程度のものしかいない。

 

「それにしても、英雄の戦いが見られるなんて運が良いなあ!」

「気を引き締めろ、そろそろ始まる。下の者に示しがつかないような浮ついた態度をとるなよ」

「お堅いなぁ、ハマルは! まあいいか、見上げよう、空を!」

 

 彼女の声に九人の王が夜空を見上げる。私たちの愛する故郷、暗闇。そこを突き破るようにして輝いた青白い光。

 

「ルクバトの合図だ。行くぞ!」

 

 王たちが一歩踏み出す。先陣を切ったのは牡羊座のハマル。続いたアルゲディは不敵な笑みを浮かべ、アルデバランが笑って右腕を前に出した。

 

「"Aries"」

「"Capricornus"!」

「"Taurus"」

 

 王の招集。彼らの周りに靄のような光が浮かび、中から続々とスターマンたちが姿を現す。牡羊座の元に二人、山羊座には一人。牡牛座には四人のスターマンが集う。中には青の一族の構成員の姿もある。彼らは王の後に続いて地を駆け抜ける。大きな影、見上げれば頭部のない巨大なワイバーンの翼が空を覆いつくしていた。思わず見上げたまま呼吸が止まり、圧倒的な存在感に胸が詰まる。タン、と足音。赤い軌跡、青い流星の尾を引いて。三人の王を追い抜いて駆け出した光が宙へ舞い上がって一閃。迸る血、揺れる巨体、首から尾まで真っ二つになった竜の間から星明り、中心の赤。――ラス・アルゲティ。落ちてくる彼女の周囲に浮いた三つの赤い結晶が血液を纏って妖しく輝いた。

 

「応えてくれ、"Hercules"」

 

  囁き。結晶が割れる。それぞれの結晶から新たにスターマンが飛び出し、二つになった肉塊を粉々に切り裂いた。コルネフォロス、サリン、ファイ・ヘルクリス。全員が折り紙付きの実力者だ。ボタボタと落ちてくる肉の塊に、顔を顰めた女性がいた。深紅のドレスにたっぷりとした黒髪の三つ編み。そして何より赤い、瞳。蠍の心臓――アンタレス。堂々たる歩みは止めず、真っ赤な唇を小さく開き、スコーピオ、と呟く。同時に足元から赤黒い靄が立ち上り、三人のスターマンが姿を現した。彼女は跳びかかってきた奇形の狼を一瞥する。一瞬。腰の背から素早く抜かれたナイフに息を吹きかけ、獣の腹を刺す。ほんの十センチほどの小さなナイフだ、対する獣は人の三倍もありそうな巨体。獣は叫びすらしなかった。叫び声すら上げず、瞳は濁り、身体は力を失って地に伏した。――蠍の毒。それはどれほど強靭な肉体を持っている対象でも死に至らしめる。次々と近寄ってくる獣の群れも、彼女の毒の前に動きを止めた。蠍座のアクラブ、サルガス、そしてアルニヤト。前者二人は二百年以上の時を生きた実力者だ。そしてアルニヤトは、アルタイルの妻のアルターエゴ――つまりアル・タルフの兄弟のようなものだ。彼は結晶を剣のように振るって獣たちを切り裂く。アンタレスのナイフが小型の獣を切り裂いた、しかし獣は動き続け、アンタレスに跳びかかる。

 

「なるほど、『毒持ち』か」

「――アンタレス」

 

 呟いた美しい声を追って柔らかなテノールの声が落ちる。同時、白銀の大きな鉤爪が獣を吹き飛ばした。洗練された美しい輝き。ほっそりとしたベスト姿の男性は上品に微笑んだままアンタレスの傍に歩み寄る。銀髪が夜風に揺れ、雪のような刹那の煌めきを後に残してゆく。

 

「……残念ながら、僕の声に応えてくれる者は居ないんだ」

「案ずるな、キファ。それでもお前は孤独ではない。見よ、星々が輝きを増している。やがて空を照らすだろう。昔のように……」

「そうだといいな」

 

 孤独な天秤座の王キファは蠍の女王に微笑んだ。満天の星、光の海だ。皆が放つ、この世に一つ、今このとき、この一生にしか存在しない星たちが輝いている。私はここだと、叫ぶように。

 アルゲディがキファを見つけて大きく手を振る。彼女の瞳も輝いている。笑っている。キファも手を振り返した。遠くで竜が墜ちる。一瞬の、青緑の輝き、それを中心に広がる銀の波。揺らめいて、丹色の光は黄金に輝いて、踊る、駆ける! 宙を舞ったプラチナが真っ直ぐな軌跡を描いて、射手座の放つ鋭い流星が闇夜を横断した! あれはハマル、遠い赤はラス・アルゲティ。銀波はアクベンス、あれはアルデバラン、あれは、あれは!

 息を飲んだ。光が、ひかりが燃えている、こんなにも美しく!

 

「きっとまた、私たちの時代が来る。昔ほどではないが、この様に……嘗ての地上は光で満ちていたんだよ」

 

 愛おしそうに、懐かし気に細められたアンタレスの瞳もまた綺羅と光った。何も言えず、私は海のような夜を見た。

 西方には乙女座の鋭い輝きがある。青白く、針のように、それらは天を突いて地に降り注ぐ。後方には鋭い白。シリウス、ベテルギウス、プロキオンといった名だたる星々、南天の守護者たちがいるだろう。北から東、こちらは北天の守りがある。アルタイルが率いる鷲座、ペルセウスのミルファクといった戦いに慣れた王たちに加え、医療の要となる蛇遣座が戦線を保つ。そして最北には遊撃を得意とするカペラ率いる御者座や機動力の高い麒麟座が虎視眈々と待ち伏せている。彼らからは逃れられない。

 ぼうっと光の海を見つめる私の横を、静かに水が流れた。歩み出たのは整った顔つきの女性。魚座のアルレシャ。

 

「"Pisces"」

 

 流れる水は姿を変えた。魚の群れとなってフラグメンツを蹂躙し、流れ、流れて戻ってくる。やがて形を変え、二人の女性が深い水から姿を現した。どちらも美しい青色の衣装を着て、きらりと光る瞳で周囲を見た。

 

「レーヴァティ、ピスキウム、行けるかしら?」

「あー、はい、はい。こういう状況ねー」

「勿論、アルレシャ」

 

 ピスキウムと呼ばれた女性が頷く。飛来する鳥のような生き物。彼女の瞳がそれらを捉える、その瞬間。彼らは乾いた肉の塊と化した。皮膚は乾いて皺だらけになり、眼球は乾燥して落ち窪む。ピスキウムの右手の平を見れば、そこを中心に水が渦を巻いていた。蒸発の力。生物の持つ水を自分の支配下に置き、搾り取って死滅させる。今回のような敵の多い戦闘では心強い仲間だ。

 駆ける獣たちが肉薄する。間に滑り込んだアルゲディが地を蹴る。地中から突き出た大きな結晶が盾となる。上。牡牛座の一人、銀髪のポニーテールを揺らした男が握った短剣を振り下ろせば、硬化した光の礫が降り注ぐ。

 

「マダム・アルレシャ! 濃度は34‰!」

「魅せて、青の一族」

 

 アルレシャが巨大な水の塊を生み出し、フラグメンツを次々に飲み込む。ガラスの割れる音がした。先ほどの男性――牡牛座β星のエルナトは、もはや人の姿ではなかった。それは大きな、大きな白銀の鮫だった。幅の広い薄い頭、美しく滑らかな銀の腹を翻したハンマーヘッドシャーク。月光に輝いて海に沈んだ、それ……いや、彼は水中で藻掻く哀れな生き物たちを捕食する。彼は青の一族。鮫のパーツを持ったスターマンだ。アルレシャが腕を広げる。大波は流れ、流れて地を這う蛇となる。白銀は海を抜け、再び青年の姿になる。それを狙った三匹の獣が大口を開けた。身を翻して、避ける。

 

「リリー!」

 

 ハマルの声、跳び込んできた白髪の女性が海を氷の蛇へと変化させる。牡羊座のリリーヴォーレア。彼女の細く白い腕が大きく振られ、蛇の鎌首は獣たちを押しつぶす。その背に着地したエルナトは滑りながら周囲に結晶を集結させる。両の腕を空へ、引き攣って飛び回る歪な鳥たちが撃ち抜かれては墜ちていく。

 

「アルキオーネ、エレクトラ! 潰せ!」

「分かった!」

「オーケー!」

 

 アルデバランの指示に二人の女性がエルナトの着地点まで走る。どちらも牡牛座のメンバーだ。白いシャツを着て眼鏡をかけた短い金髪の女性――エレクトラが地面に触れる。

 

「ボーイ、どきな!」

 

 手をついて跳躍し避けたエルナトの近くに鋭い棘が生える。琥珀色のそれは一瞬鈍く光ったかと思うと弾け、周囲に散った欠片から同じような棘が生まれていく。避けていく獣たちにエレクトラは好戦的に笑う。戦略的に仕掛けられた棘によってバラバラに動いていた獣たちが同じ場所に集められていく。

 

「アルキオーネ!」

「いくよ……っ!」

 

 見上げれば、巨大な氷の塊。それらは生き物のように蠢くと、氷解する滝のように降り注いだ。それを駆け上がってゆく二つの影がある。尾を引く白と黄金。追って、赤。牡牛座の天關が崩れゆく氷の礫を拾い上げながら走る。王のアルデバランは雪崩の頂上で腕を振りぬいた。黄金の輝きが次々にフラグメンツたちを地に縫い留める。

 

「サリン」

 

 遠くで応じる声がした。牡牛座の二人を追っていたのはラス・アルゲティだ。振り向けば後方、サリンと呼ばれた男性が片膝と両手を地についた。

 

「気を、つけて」

 

 地面が割れた。逃げきれなかった獣、死にかけていたものたちが転げ落ちていく。

 

「天關」

「閉じます」

 

 先ほどアルデバランと共に走っていた象牙色の髪を持つアジア系の男性が伸ばした腕で空を横に撫ぜる。大きく口を開いていた地面は大きな音を立てて閉じていった。一方氷を駆け上った赤い宝石は身を大きく翻しながら迫っていた巨竜の、鹿のような脚を切りつけ、着地して背まで上っていく。続いたファイ、コルネフォロスが歯を食いしばって鳥の形をした翼を切り裂こうとする。痛みに暴れる竜の上で、ヘルクレスの王は頭部に到達した。

 

「焼くよ」

 

 赤い閃光、炎の刃が脳天を貫き顎を砕く。竜は叫び声をあげて首を勢いよく振り回した。振り落とされて宙に放り出されたラス・アルゲティは落下しながら右手を伸ばす。放たれた結晶の破片が頭から尾まで縦横無尽に切り裂いた。飛び降りていた二人の部下たちは地面に向かって小さな衝撃波を放ち、着地する。星の力を呼び、私は結晶の剣を握った。獣たちの数は増え続ける一方だ。

 

「ちょーっとお! 減んないねえ!」

「不味いなあ、南北チームより敵数は少ないはずなんだけど!」

 

 肉塊の間を走り抜けながら叫ぶアルゲディを唯一の仲間であるアルシャトが援護し、アルデバランが応えながら戦車のような熊に杭を打つ。剣でその頭を潰し、立ち上がって周りを見たが、どこもかしこも肉と脂、そして死にかけの生き物ばかりだ。北から鳥の大群が恐ろしい速さで迫ってくる。

 

「北はどうなってるんだろう、こんなに逃がすなんてっ!」

「被害が大きすぎないと良いけれど」

 

 アクベンスの波状攻撃に地上の獣は一瞬怯んだ。彼女の背後から飛び出したアル・タルフの欠けた腕の先から黒い影のようなものが噴き出し、大きな爪を備えた手となる。それを振って獣たちを引き裂いた、彼女はこれまでずっと閉じていた目をようやく開けた。右目は紫、左には眼球がなく、だだっぴろい宇宙の闇が開いていた。一つだけの紫が燃えた、途端飛んでいた鳥のうち数羽が地面に叩きつけられて悶えた。重力の力だ。ミチミチと音を立てた彼らはやがて耐え切れずに潰れてしまった。しかし鳥の群れはまだ多い。一羽、鳴いた。声だ。人間の悲鳴のような。リリーヴォーレアが引き攣った声を上げて顔を青ざめさせた。旋回していた数十匹が一度に降下して襲い来る。同時、遠方から飛来した流星群のような光の矢がそれらを貫く。射手座の五人だろう。

 

「ルクバト! ナイスだよ!」

「まて、見ろ」

 

 息を切らしたハマルが西――スピカのいた方角を指さす。規則正しく明滅する光。

 

「おいおい、モールス信号か! スピカじゃないな、ありゃザヴィヤヴァだ」

「解読できるひと、此処にいる?」

「俺、やってみる」

 

 手を挙げたのは牡羊座のバラニーだ。彼はじっと光を見つめ続ける。その間皆が彼を守るようにして動く。始め静かだった彼の顔は険しくなり、最後には蒼白になった。

 

「西に、獣、五千……スターマン、気配、中央へ…………数、二十……!」

「何て言ってるの!」

「乙女座の元にフラグメンツが約五千体! そしてこちらに、スターマンが使われたフラグメンツが二十体向かっているそうです……!」

「は、」

「一体だけで星座を丸ごと潰すこともあるんだぞ、どうする!」

「……迎撃だ、仕方あるまいよ」

 

 バラニーの報告を聞いて寄ってきたアンタレスが静かに告げる。

 

「覚悟を」

 

 同時に四足の獣のように走ってくる影。星の気配。いや、これは! 咄嗟に構えた剣に思い衝撃。吹き飛ばされるも、襟首をアルシャトが掴んで止めてくれる。

 

「一体目、来たぞ!」

 

 手足を地につけ、低い姿勢のままの人型、その背中には植物が蔓延っている。鼻から上は無く、補うように何かの肉が詰められていた。代わりのつもりか、頬に開けられた穴から魚のような目が覗いている。目を見ずとも分かる。このフラグメンツには複数人のスターマンが使われている。

 

「チッ、気色悪ぃ」

「酷いことをするな……よりにもよって、『混ぜた』か」

「気持ち悪いよ、いろんな気配がする!」

 

 ハマルに同意したアルデバランとアルゲディが構えなおした。蠍の女王が近くにいた男性を呼び止める。呼ばれたのは蠍座β星、アクラブだ。

 

「あの植物、毒があるな」

「ええ、……ギンピ・ギンピ。可愛らしい名前ですが、かなり強い神経毒を持っています。葉、枝に触れるだけで棘が刺さり、途轍もない痛みを与える。イラクサの一種です。私たちに毒殺の可能性がないとはいえ、痛みはあります。刺されば即離脱しなければならないでしょうし、治療は困難ですからお気をつけて」

「……苦しかっただろうな」

 

 エルナトの呟きにキファが目を伏せる。彼がどんな苦痛を乗り越えて今ここに立っているのか、ここにいる誰も知らない。フラグメンツは肉体を適応させるために何度も同じ実験を行うと聞いた。つまり、目の前の元スターマンもその植物の齎す凄まじい苦痛のもとに晒されていたはずなのだ。死ぬこともできずに。

 

「それでも、悪は悪だよ」

 

 アンタレスは呟いた。彼女の憎しみのこもった真っ赤な瞳はフラグメンツたちを静かに睥睨している。徐々に増え始める歪な星の気配。遠くでまた竜が墜ちる。鳥が力を失い、しかし少しずつ、確かに数を減らしていく美しい星の気配。状況は拮抗、いや……こちらが押されつつある。

 

「次、近づいてきてるよ!」

「分かってるよ!」

 

 先ほどのものはピスキウムによって体内の水分を抜かれた後、サリンによって地中に飲み込まれていった。レーヴァティとアルレシャの放つ力強い水流が獣たちを押し返し、飲み込まれたものはリリーヴォーレアの氷に囚われる。二体目の特異フラグメンツは下半身が巨大な熊のような姿だった。両腕は大きく先が鱗で覆われ、地面に引き摺ったまま動いている。走るたびに地と擦れて鱗が剥がれ落ち、擦れた皮膚から滲む血が跡を引いていく。突進を避けたアルゲディの背後に動くもの。三体目。間に入ったアルキオーネがギリギリで防御態勢を取ろうとする。間に合わない! 彼女が両腕を背の後ろに隠したと同時、黄金の礫が降り注ぎ、フラグメンツの腕を叩き落として潰した。敵の背後に回り込む、影、丹色の光が強く輝いた。

 

「教えたじゃないか、アルキオーネ」

 

 フラグメンツの首が跳ぶ。倒れた体の上に立つアルデバランは金の膜で降りかかる血を避けていた。

 

「復習しよう、確実でないときは?」

「王の背中は庇わない」

「そ、王サマはね、反撃することが多いから、それで同士討ちとか夢見が悪いだろ? あと、腕の庇い方は後で考えておけよ、胴を貫通したら庇った意味がない」

「はい!」

「っと、伏せて!」

 

 アルゲディの声に二人が身体を屈めると、彼女の蹴りが背後に高速で迫っていたフラグメンツに直撃する。しかし宙で身を翻した彼女の胴に何者かが追突する。

 

「い……っ! コルネフォロス!?」

 

 それは吹き飛ばされて数十メートル投げ出されたヘルクレス座のコルネフォロスだった。慌ててヘラクレス座の方へ目をやる。遠く、地上では数匹のドラゴンと獣型のフラグメンツが暴れまわり、空には三体ほどのドラゴンが首を振り回して悶えている。そのうち一体がバラバラに裂けて墜ちた。別の個体に射手座の矢が降り注ぐ。その肉片の群れの隙間からどろりとしたくすんだ赤い人影が落ちて行くのが見えた。肉片を蹴りあがって登っていくが、その動きは常の機敏さを失い始めている。

 

「ラス……不味いな、早く決着をつけなければ!」

「コルネフォロス、意識は?」

「無いよ、だけどこのまま置いとくわけにはいかないでしょ」

「肋骨折れちゃった」

「どのくらいで治る!?」

「一分と少しってとこかな……ってて」

「レーヴァティ、コルネフォロスを連れて後退してちょうだい」

「分かったわ」

「退路は俺が作ろう」

 

 こちらはじりじりと体力を削がれつつあった。しかし月は天頂を少し過ぎた位置、朝が来るまではまだ時間がある。勝算はまだあるのだ。単身フラグメンツの群れへ身を投じたアルデバランが結晶でそれらを一掃し道を切り開く。コルネフォロスを背負ったレーヴァティが一気に跳躍して戦線を離脱する。その後を追おうとする群れを蹴り飛ばし、薙ぎ払うアルデバランの傍に近寄る巨鳥の影。同時、左から蛇の鎌首が伸ばされる。新たな特異フラグメンツが二体。締められることだけは回避したものの、鳥の爪が彼の上体を鷲掴みにし、そこに青白い結晶が何本も突き刺さる。揺れる髪で彼の表情は分からない。噴き出す血だけが唯一彼から齎される情報だ。

 

「王!」

 

 アルキオーネが氷の槍を投擲し、鳥の腿を貫いた。よろめいて緩んだ足の中からアルデバランが抜け出す。彼は上体を屈めて、胸部を貫通した結晶を両手で掴み、引き抜いた。計五本。栓を抜かれた身体から尋常でない量の血液が溢れ出していく。このままでは失血で動けなくなる。近くを這っていた蛇擬きをアンタレスが引き付ける。少し離れた場所ではキファが熊型のものと星の力をぶつけ合っていた。

 

「は、……はっ、やられたな」

「不味いよ、死んじゃうよ……!」

 

 すぐ近くで名前も無いような星たちが不安げに光った。やっと立ち上がったアルゲディは周囲に散ってしまった仲間たちを、特異フラグメンツから守りつつ一か所に集め始めた。

 

「いったん退け、アルデバラン!」

「うるさいなあハマル。そうも言ってらんねえだろ」

「お前本当に死ぬぞ!」

「うるせーって! もーーー!!!」

 

 ドン、と大きな音がした。鋭い黄金が夜の藍色の空気を引き裂いて稲妻のように地を這った。その中心で輝く金色の二対の瞳が雷のように輝いて獣たちを撃ち殺さんと睨んでいた。血を失って青白くなった肌が光を受けて白く輝く。

 

「失血だろうが何だろうが俺には関係無えんだよ」

 

 瞬間、彼の姿が消える。巨鳥の上空、突然姿を現した彼にフラグメンツは気づかない。落下と共にスパッと首が切り離される。勢いよく飛んだ首の羽毛を鷲掴み、地に横たわった巨鳥の上で彼は口端を釣り上げて笑っている。

 ――『解放』。アルデバランのスピリット。窒息、失血、重度の火傷などあらゆる身体の制限を外し、限界を超えて戦い続けるための力。この力がある限り、彼は例え手足を捥がれても戦うだろう。王でありながら獣。彼は昔からそんな人物だった。彼が口から大量の血を吐きだす。

 

「あんまり無理しちゃだめだよ!」

「うるさーい! 気を付けるって!!!」

 

 アルゲディの声に三倍の大きさで返事をして彼は獣のような速さで走り去る。牡牛座の者たちが追随し、血の道を作っていく。一方、蛇型の相手をしていたアンタレスはやや苦戦しているようだった。ナイフで刺そうにも尾や首が邪魔をして思うように近づけない。近づけたとしてもスピリットで硬化された鱗では刃が通りにくい。頑丈さに特化した鋼の属性か。近づいてきたフラグメンツから剣を抜き取る。その瞬間飛んできた何かに頭を強く打たれる。揺れる視界で周囲を見れば、蛇を中心にして規則的に押し寄せる結晶の波。それは時折意思を持った生き物のようにうねり、周囲にいるスターマンたちに襲い掛かる。鋼属性に加え、波属性と腕属性の複合型。つまりあのフラグメンツには少なくとも三人のスターマンが使われていることになる。悔しそうに顔を歪めたアンタレスが叫ぶ。

 

「力を使う! すまないが耐えてくれ!」

「僕が守ろう」

「頼んだ」

 

 返答と同時、閃光と共に何か強烈な大波がアンタレスを発生源として押し寄せてきた。殆ど同時にキファの涼やかな気配が身体を包む。恐らくアンタレスの力を緩和してくれているのだろう。それでもこの皮膚に感じる異様な力は、彼女のスピリットに由来するものだ。腕属性『放射』。フォーマルハウトや御者の王カペラが持つものと分類的に等しく、アルタイルの持つ『発散』にも近しい。彼らが放つものは炎や風、雷など、彼らの星の持つ性質に由来する。フォーマルハウトやアルタイルは熱風や炎を、カペラはプラズマを、そして蠍の王アンタレスはガンマ線を放つ。ガンマ線バースト、それはかつて地球上で五度発生した大量絶滅の原因の一つとも言われている。死にゆく星が放つ放射線であり、もともと寿命の近い星をもつスターマンのみに許された破滅の力にその場にいた多くのフラグメンツが強烈な放射線を浴びて死に絶えた。キファの守りが解けた瞬間、少しの気分の悪さが身体を襲う。同じ星の力を持つ者といえども、肉体は生物に近いのだから多少の影響はある。

 

「まだ、増えるか」

 

 息切れと共に吐き出された焦りの滲むアンタレスの声に振り返れば、遠くから歪んだ星の気配が近寄ってくる。報告によればこちらに来るスターマン型フラグメンツは残り十五体。星を確認すれば夜が明けるまであと三時間。朝になってしまえば輝属性以外のスターマンの力は太陽の光に阻害され、こちらの戦力は大幅に落ちてしまう。それまでに決着がつけば良いのだが。ふと、影が差した。皆呆然と夜空を見上げた。

 

「嘘だろ」

 

 この黒は果たして本当に夜の黒なのか? 何千、何万にも及ぶ生き物の腹ではないだろうか? 見ろ、胎動する生命たちを。彼らは生まれてすぐに失われ、しかし生き延び己と他を忘れ、混乱し泣き叫びながら世界中を這いずり回る亡霊たちだ。そして今、彼らは確実に私たちを食い殺そうとしているのだった。

空白。

鳥たちの身体が僅かに傾く。

すぐ傍に立つ同胞の身動ぎ。

誰かの窒息しそうな呼吸音。

傾く。

闇の中から歪んだ星の気配。

誰かの、王の指先の痙攣。

傾く。

滑り落ちる。

流星のように。

落ちる。

 

「皆、此方に来い! 早く!」

「――間に、合わない」

 

 キファの瞳が透明な緑の光を放って、あまりに静かに空を見つめていた。彼の放つ光の盾は大きく空を覆い始めているが、その分薄く脆い。盾に守り切れなかった者たちが次々に襲われて食われていく。充満する炎の臭い、腥さ。悲鳴。閃光。血肉の隙間から、誰かの真っ赤な瞳が見えた。振り返るアルレシャの髪が靡いた。傍にいるピスキウムの頬が血で濡れていた。肉片が弾け飛ぶ。獣のように四つ足で駆けていく影。一筋の黄金が弧を描く。彼の周りには盾で守り切れなかったスターマンたちが殆ど動けずに蹲っている。四つ足かと思われた、彼の脚は一本しかない。急いで見渡せば少し離れた場所に、膝少し上から丸々一本、引き千切られたような断面の彼の脚が転がっている。早く付け直さなければ再生できなくなってしまう! しかし、その時間もないだろう。転がる肉塊のすぐそばに、半身を抉られたアルキオーネの姿を見つけて、無意識に鋭い息を吸った。死んでいる? 生きている? 近くには両腕と脚の大部分の肉を失ったバラニーが、それでも立ち上がろうと藻掻いている。

 

「アルキオーネ! ひかりだけは守れ!」

 

 叫びと、血と。自分の王、アルデバランの口から吐き出されたものを彼女の瞳と耳はしっかりと捉えた。一瞬で彼女の両腕を氷が覆った。何とか立ち上がったバラニーが、アルキオーネの元へ駆け寄って――脇から下を切り落とした。あまりの光景に何も言えずにいると、彼は彼女の身体を抱えて覚束ない歩みで逃げ出した。生命と肉体の核となるひかりを宿した腕部と頭部だけを持って、身体を少しでも軽くして逃げようという算段なのだ。キファが私たちの姿を見て、早くこっちに、と早口で言う。彼の展開する盾の下に潜り込み、再び剣を手に盾の中のフラグメンツと対峙する。

 

「アルゲディは!?」

「先ほど見た、既に盾の中にいる! ヘルクレスの者たちも無事だよ」

 

 ハマルに返したキファが、しかし苦し気に顔を顰めて僅かに身体を屈めた。

 

「どうした」

「この守りは僕のひかりそのものでできている。そろそろ、限界だ、壊れる」

 

 見上げる。

押し寄せたフラグメンツの群れに圧迫された光の壁に罅が入る。

キファの口から血が噴き出す。

壊れる!

 突如、風が牙を剥いた。さんざめく波のように押し寄せた重い風が、熱風となって獣たちを切り刻む。キファの口元が笑んだ。盾の外で暴れまわっていた血まみれのアルデバランが今日一番の元気そうな声を上げた。

 

「アケルナル……! よくやった、アイツ!」

 

 くす、という僅かな笑いが耳元で聞こえた。それはまるでそよ風のように、花の香りを連れてくる。風は火花となって散った命の欠片たちを、巻き上げ、炎の矢へと変え、再び燃え上がらせる。弾けた、火の粉は空へと舞い上がり、風に乗って遠くへと。これはエリダヌス座の王、アケルナルのスピリット『極風』。この世界の殆どの風が彼の支配下にある。彼は風を通じて何時でも何処でも話ができ、また集中すれば風を操って戦うことができる。南の陣営にいた彼が此方に助力してくれたということはつまり、南の戦況が大分落ち着いてきたということだろう。戦いの終わりは近い。一筋の希望が見えた。新たに力強い星の気配が現れる。純然たる輝き。援軍だ。

 

「すまない、遅れた」

 

 現れたのは美しく繊細な顔立ちの男だった。水瓶座の王、サダルメリクは憂いのある顔で戦場を見渡した。

 

「"Aquarius"」

 

 サダルスウドの呼び声に応じ、彼を中心に水の渦が巻く。

 

「サダグビア、アルバリ……青の王サダルスウド。皆いるね」

 

 彼の振り返る先には黒いレースで目元を隠した男性が立っている。彼が青の一族のリーダーであるサダルスウドだろう。散開の合図とともに水瓶座は各々の戦いを始めた。彼らは一人で戦うことを好むようだ。ふと、空気中に金色の光の粒が舞っていることに気づく。それらは集結し、一人の男性の姿となった。金髪にエメラルドの瞳。まだ年若い部類のスターマンでありながら強烈な覇気を纏っている。21煌にして獅子座の王、レグルス。

 

「……"Leo"」

 

 宙から、突然現れた六人のスターマンたちが年若い王の身元に集う。

 

「デネボラ、アルギエバ、ゾスマ、エラセド……よく来てくれた、ラサラス、レオニス。青の一族は大丈夫なのか」

「問題ないわ、青の一族は家族ではないのだから。皆己のために戦うよ」

「彼らは好きにするだろうさ。俺たちだってこうして此処に居る。……でも見て、此処には青の一族も沢山いるんだ」

 

 そのうちの二人、どちらもレースで顔を覆ったスターマンは青の一族――女王ラサラス、そして幹部のレオニス。彼らは少し離れた場所で立っていたエルナトに小さく手を振った。彼らにとっては年下の可愛い仲間なのだ。いかにも堅物そうに見えるレオニスはその様子に少しだけ表情を緩めると、他の王たちに向き直った。

 

「……獅子も共に戦おう」

「へえ、面白いことになってるね。あの獅子座が共闘だって?」

 

 そこに姿を現したのは威圧感のある美男子二人。鋭い目を見れば分かる。片方は21煌の――。

 

「双子座、ポルックス」

「カストルだよ」

「レグルスはお前が嫌いだ」

「俺も!」

 

 レグルスのストレートな言葉に遠くからグロテスクな笑顔でアルデバランが賛同し、カストルは口をへの字にして肩を竦めた。微塵も傷ついては居ない様子だ。悪口を言った二人は既に戦闘を始めている。彼はざっと周囲を見渡して軽薄そうに笑った。

 

「しかしまあ、黄道の王が全員出てくるなんて……ふふ、面白い。今までこんなこと有り得なかったのにね」

「興味深い。カストル、私たちもやはり出るのか」

「決まってるでしょ」

 

 ポルックスにウインクをして、カストルはとても良い笑顔で腕を広げた。

 

「おいで、"Gemini"!」

 

 彼の指先から弾ける光は火の粉となって渦を巻き、中から二人の女性が姿を現した。一人は変わった紙の面をした黒髪の女性、もう一人はグレーの髪を後ろになでつけた女性で、その瞳は静かな月光色をしている。

 

「アルヘナ、メブスタ。よく来てくれたね」

「良い夜だね、王。ご覧、今日は新月だ」

「久しぶり! 何だ、何かと思ったら戦争?」

「……彼女、引きこもっていたから何も話を聞いていなかったんだ」

「違う違う、そのくらい知ってたさ! まさか呼ばれるとは思わなくてね……」

 

 アルヘナと呼ばれた面の女性は居心地悪そうに頭を掻く。灰色の髪のメブスタは獅子の爪を模した爪先で二、三度地面を引っ掻いた後、行こう、と彼女の肩を叩いた。駆けだす二つの影。アルヘナは焼印を押すかのように炎で獣たちを押しつぶし、怯んだすきに結晶の礫で肉を切り裂く。メブスタは跳びあがってその特徴的な靴先で獣の頭を蹴り飛ばした。宙で身を翻し、前方に回転して上から蹴り落とす。その瞬間、獣の頭部に白銀の結晶が咲き、花のように散った。攻撃点を同じくした見事な二連撃。彼女たちを見ていると、ふと隣に立った気配がある。驚いて見上げればカストルが此方を見下ろしていたため二重に驚いてしまった。

 

「南シリーズと将軍は?」

「メリディエースですか?」

「そうそう」

「メリディエースは後発だから、今は待機中だよ。天大将軍は五十人くらい引き連れて極南に行った」

 

 代わりに答える声があり、驚いてみれば始めから大立ち回りをしていたラス・アルゲティが頬の血を拭いながら疲れた様子で立っていた。上着が脱ぎ去られた腕には大小様々な傷があるものの、アルデバランのような目立った欠損は無い。

 

「やあ、思ったより元気そうだね、ヘルクレス」

「前の戦争よりマシさ、竜の数はまだそう多くない。少し落ち着いたから休憩させてもらうよ」

「そう? なら俺たちが仕事しなくちゃね」

 

 カストルとポルックス、二つの巨星は左右に光の軌道を描いて走って行く。あれほどたくさんいたフラグメンツは半分ほどに減っている。大丈夫、こちらには21煌のうちの五人が揃ったのだ。励ますように風が背を押してくれる。星は廻る。もうすぐ、朝になる。

 

 

 

 

 一時間半が経過した。やがて動き回るものは無くなり、血みどろの大地の上にはスターマンしか立っていなかった。皆息を切らし、座り込む者も多くいた。遠い山々の向こうから朝日が差す。透明なオレンジに照らされた王たちの顔は静かだ。犠牲は少なくなかった、しかし星帰を使わずに済んだことは僥倖だろう。溶けるような朝日のなか、地を滑るヴェールのような朝霧が僅かな冷気を連れてきた。この地域では珍しい、霧だ。ふと、遠くを見つめるアクベンスの銀の瞳が青緑に輝いた。

 

「皆、動かないで」

 

 何かが近づいてきている。霧はますます濃くなり、辺りは真っ白な空間に閉ざされた。明らかに異常だ、これはフラグメンツの力なのか、それともスピリットか。光が乱反射したような眩しい白と地の赤、それ以外は全くの空白で、風の音すらしない。

 

「これは、いったい?」

 

 思わず呟いた声に返答はない。誰もこの状況を説明できないのだ。しかし無音と思われたこの場所に、霧の向こうから幽かな音が聞こえた。

 

「聞こえる?」

 

 アルゲディの声はほんの少し震えている。

 

「唯の鳥の鳴き声だ」

 

 誰かが呟いた。

 

「違うよ、だってさっきまで風の音もしなかったんだよ。どうしてこんな、まるで『すぐ近くにいる』みたいに聞こえるの……?」

 

 彼女の頬は青白い。鳴き声はますます大きくなる。それに混ざって鈴のような、細く響く金属音が聞こえた。 リィン、リィンと鳴るその音も、確かに近づいているのに発生源は分からない。背後でずるりと何かが這った。

 

「何!?」

 

 振り返ったところで何もいない。ただの白。しかし何かが、質量のある生き物が這いずり回るような音は止まなかった。目つきを剣呑なものにしたアルデバランが前に出る。

 

「うんざりするほど聞いた音だな。こいつは蛇だ」

 

 まるでその言葉が合図だったかのように姿を現した影がある。半身が蛇の姿をした、人型の生き物。

 

「まさか、アダム……!?」

「いや、違う、よく見ろ」

 

 それはいままで見たことも無いような大きさと姿をしていた。どんなフラグメンツよりも大きい。竜と同じくらいの大きさだろうか。上体は人間の姿をしている。白い衣服の袖から露出している腕は肉も皮もない骨そのままで、手首より先は存在していない。顔は白いレースで覆い隠され、何かの植物の冠を頂いた頭部を鋭い刃物が貫通している。特筆すべきはその背中、十本の刀や剣が突き刺さっている。

 

「……何だ、あれは」

 

 ぎこちなく落とされたハマルの、問ともいえぬ言葉をカストルが拾う。

 

「……噂に聞く、カシンってやつかな」

「醜悪な……おぞましい生き物よ。何故に世の条理を超えたものが生まれたのか……。理解できぬことがこれ程恐ろしいとは」

「仕掛けるか?」

「いや、奴らはかなり特異な存在らしいからね。ゼペネの研究者たちも必死に研究しているみたいだけど、はっきりした結果は出ていない。危険なものには触れない方が良いと思うけどなぁ」

「……僕もカストルに同意するよ。過真たちはこちらが手を出さない限り大丈夫」

 

 いつからか姿を見せ始めた謎の生物、過真。それはゼペネに生息する怪物で、此方には滅多に姿を現すことがない。詰まるところ、それらに関する情報は極度に少ない。下手に手を出すわけにもいかず、警戒体制のまま十数分が経過したころ、過真は霧の向こうへと消え、その数分後には霧も晴れて空白の世界は終わった。鳥の声や鈴の音はもう聞こえない。僅かに地表に残る霞を蹴るようにして、近づいてくる二人のスターマンの姿が見えた。

 

「あら、皆さんお集まりで」

「終わったみたいだな、作戦の進捗は」

 

 アルタイル。その傍らには黒髪の美女――妻のアル・スハイル・アル・ワズンが立っている。王たちの一部は厄介なものを見るような半目でアルタイルを見る。彼は昔から何かと面倒ごとを起こすタイプだったため、仕方がないのかもしれない。

 

「おっと、厄災夫婦の登場かな」

「しぃ、聞こえるぞ」

「いいだろ別に」

「おおい、新手の虐めか?」

 

 カストルとアルデバランの珍しく息の合ったやり取りにアルタイルが片眉を吊り上げる。器用に片目だけを閉じたままで顔を顰める彼を取り成すようにキファが片手を振ってみせた。

 

「今は順調だよ、過真が出てきた以外には」

「犠牲は?」

「……百九十」

「ふうん、そんなもんか。王が十三、うち五人が21煌……っていっても、黄道だしな。北と東は十七星座、うち三人が21煌、犠牲は八十三。南は十二星座、五人が21煌、犠牲は六十一。北は御者と麒麟の七人チームだったけど、まあ上手くやってくれたぜ」

「小言は止してくれ。皆懸命だったんだ」

「わかったわかった。お前に免じてやってもいいぜ、キファ。んじゃまあ、今回はこんなもんでいいか。解散して飯でも食おう」

「……無神経な奴だな、鷲座の奴らは配慮ってモノが無え。誰が躾を忘れたんだ?」

「お前も不躾が過ぎるぜ。誰に向かってそんな口きいてやがる、死に損ないのアルデバラン」

「一丁前にキレんなよ。お前に王の資格があったとしても、それは直ぐに首を斬られる梼昧な奴の物だぜ。仲間の死を数字で数えるうちは、誰もお前を信用しねえ」

「そうやってきた手前はいったい何人の仲間を死なせてきたんだよ? 結局生き残るのは手前だけだ、それが王だって? 笑わせんな」

 

 キファが一度収めかけた空気が一転して悪くなる。今や顔を土気色にしたアルデバランは、アルキオーネの半身を抱えたままアルタイルを睨み上げている。彼女の胴は再生が進み、やっと肋骨が生えてきたところだった。

 

「お前のお遊戯に付き合うつもりはない。いいか、また俺の星座に手を出して見ろ、殺してやる」

「そん時に死ぬのが手前じゃねえといいな、アルデバラン。忘れたか? お前の躾が上手いうちは手は出さねえって前に言っただろうが。それよりさっさとそいつを治してやったらどうだ? 大事なお仲間の治療が遅れるのはお前の信念に反してるんじゃねえのか?」

「うるせえなあ、口出しされるのが大嫌いなお前が、手は出さねえが口は出すってか?」

「あーあーあー、お前と喋ると話が終わらなくって困るぜ! そのイケメンなお口にセメントでも流し込んどけよ」

「小鳥みてえにお喋りな奴に言われるなんて心外すぎてセメントごと吐きそうだ。……マジで血ぃ出すぎて吐きそうだから俺らは帰るわ。お疲れ、黄道」

「おつかれー」

 

 黄道の王たちに小さく手を振られて牡牛座は去っていった。どさくさに紛れて帰る星座がぽつぽつと現れ始める。するとアルタイルは獅子座の王レグルスに言葉を投げた。

 

「レグルス」

「……」

「黙ってたな」

「……レグルスは王。レグルスは守るべきものに忠実でいたいだけだ。お前の前にレグルスの星座を開け放ちはしない」

「そいつが青の一族でも?」

「レグルスの正義に反することを、レグルスは許さない。それだけだ。お前も隠し事をしている。過真について、お前は何も言わなかった」

「…………。特に何も知らなかっただけだぜ? 普段外交もしないお前に言われる筋合いは無えなあ」

 

 若獅子の王は心配げな表情の星たちを引き連れて何も言わずに去ってしまった。後に残されたのは運よく生き延びた無名の星と、厄災と呼ばれた夫婦だけだ。

 

「子供たちは?」

「さてね……私は好きにしろと伝えた。あの子たちももう大人だよ。私たちの干渉が無くても上手くやっていけるはずだ」

「それもそうか。……俺はもう少し見て回るが、お前は?」

「帰る。王が呼んでいるしね。お前も結局はあの子らが心配なんだろう?」

「そっか。まあ、そーだな」

「では、先に」

「じゃあな」

 

 スハイル・ワズンは光に溶け込むようにして消え去った。見送ったアルタイルは静かに振り返ってこちらを見る。右目は閉じられたまま、猛禽類のような左目がじっと私たちを見つめている。ちり、と炎が舞っているような、そんな気配がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.zimulacrum  楼閣を描く、映しとられた僅かな歪みが、きみの瞳を裏切っている。

 

 

 

 

 

 そこは美しい世界だった。柔らかな木漏れ日と穏やかな緑の葉。世界から断絶された静かな森の中では、まるでアクアリウムを眺めているときのようなしんとした冷たさと何処かから聞こえてくる水の流れる音、時折木々の間を縫って微かに聞こえてくる鳥の歌声が美しい。隣を歩む我が塔主、中野刑告は珍しく何も言わないまま、どんどん先に進んでいく。見上げれば葉の間を突き抜けて見える真っ白な空だけが異質な雰囲気を醸し出していた。静寂の森を抜け、急に視界が開ける。そこには遥か遠くまで続く草原の海が、波打って規則正しい呼吸のような音に撫でられていた。草原の中にポツンと立つ白いシャツの男性がいる。鶯茶色の髪が日の光に柔らかに温められていた。もう一度見上げる。空は空白。夜空でも青空でもなく、星も太陽もない。

 

「まあた此処にいたのかい、佐々木」

 

 中野が歩み寄りながらのんびりとした声を掛けた。かさりかさりと乾いた音が彼女の真っ黒な羽織を撫でている。正装に身を包んだ男性――佐々木排歌はゆっくりと此方を見た。まるで映画のワンシーンのように穏やかで綺麗だった。彼は草原の中に黒い外套の裾を泳がせて笑った。

 ここは佐々木の持つ神業とも呼べる力、詞業によって創造された仮想空間だ。三留に配属された多くの者が持つその力は複雑で制限の多いものだが、熟達した使い手には万能で強力な力となる。しかしこれほどまでに見事な、空間を丸ごと創るような凄まじい力を見るのは初めてだ。一火の塔主、鈴木が亡くなってから直ぐに作られ始めた箱庭は佐々木の私室にあった。これまで塔主にしか知られていなかった彼の『中庭』は空間が安定してゆくにつれ、草木や水が満ち、小さな動植物が入れるようになり、そして私たちのようなそれほど力の強くない天児でも入れる空間となった。いずれこの新世界に人々や妖怪たち、そして星の獣や動物たちを住まわせることができれば、破壊者やフラグメンツのいない、全天戦争のない平和な世界が生まれるだろう。言わばこれは新しい星を目指した打ち上げロケット、種を保存するためのノアの方舟だ。

 佐々木は中野の傍に立つ私を見てにこりと微笑んだ。妖怪に対する苦手意識のある天児は意外に多い。しかし彼はかなり好意的な部類だ。人間にほど近いとはいえ、彼は決して妖怪を拒絶しない。理解することも無いけれど、彼は理解に努めようとする稀有な人材だ。

 

「いらっしゃい、刑告。……君も」

「大分本物っぽくなったじゃァないか。あとは空だな」

「ありがとう。空は難しくてまだ作れていないんだ。何だろう……俺の思い浮かべる空は、どんな言葉でも表しがたい」

「難しいことはよく分かんないが、遊びすぎには注意しろよな」

「分かってるよ。それより、あと一時間でお客さんが来るから早く此処をでなくちゃ」

「だから迎えに来たんだろ!」

 

 ムカムカした様子で中野が口をへの字にすると、佐々木は笑いながらこちらに歩み寄ってきた。波が、さざめく。

 

「例の件、君はどう見る?」

「例の件?」

「雨覚のこと」

「ああ!」

 

 合点がいった! と中野は目元を隠す仮面の奥で片目を見開いた。右の手で後頭部を掻き、厄介なものを取り扱う研究者のような口調で返す。

 

「小林ねぇ。人を殺したんなら、信用するのは人間にとっちゃ難しいだろうな。私たちでも意見が割れてんだ、下の奴らがどう思ってるかなんて考えるまでもない」

「……だよね。ひとつ気になることがあって、君の意見を聞きたかったんだ。……佐藤さんによって、被害者の河端さんの検死が行われた。その結果、死因は毒による呼吸困難だった。α‐ブンガロトキシン、つまり蛇毒だ。成瀬さんに聞いたんだけど、その蛇はこの地域には本来いない種類なんだって」

「ふうん、じゃあ小林がどうにかして毒を集めたか、フラグメンツにやられたか、ってことか」

「そう。しかも雨覚は毒の扱いに慣れているとはいっても、ここ最近はゼペネを出ていない。……少し前、スターマンたちが大きな戦闘をしたでしょう、その時に大陸の方に行ったくらいだ。例の蛇の生息域には行っていない。そもそも事件はそれより前のことだし……一応生物班の備品を確認してもらったけれど、研究で使った分量はしっかり記録してあって、それ以上は一ミリグラムも減っていない。あの毒の致死量は二、三ミリグラムだ」

「……つまりお前は、アイツが殺人したんじゃねえって言いたいのか?」

「…………うん、だって、雨覚だよ」

 

 佐々木は中野から目を逸らして草原の向こうに目をやった。その頬は青白く、彼の体調はあまり優れないように見えた。中野は憐憫の混じった右目で佐々木をちらと見て短く息を吐いた。

 

「……。証拠が無さすぎんだよ。さっきも言ったが、この状況下で少数派の意見は通りにくい。ましてや塔主の意見が分かれてんじゃな。吉川なんてずうっとご機嫌ナナメさ。アイツ小林とダチだし、お前ほどじゃないけど長いこと一緒にいただろ? 裏切られたと思ってんだよ」

「逸頼も、断丸も裁花もいなくなって、これ以上……」

 

 カサ、と音がした。森の奥からだ。驚いて目線をやれば、真っ黒な影が森の奥から近づいてきている。佐々木は俯いていた顔を上げて柔らかく笑った。顔が見えるほどの距離になり、やっとその影が人であり、皆がよく知る人物――七ノ是の塔主、野村赦理であると理解する。真っ黒の外套にマスク、髪、瞳までが烏のような色をしている。彼女の特異な瞳は遥か彼方までを見ることができ、恐らくこの空間に入ってすぐに木々の隙間から私たちの姿を捉えただろう。距離が数十メートルに狭まった時点で、私の怖気づいた顔も丸見えだったに違いない。

 

「おはよう。元気そうだね、二人とも」

 

 彼女は幾つかのファイルを小脇に挿み、外套を脱いで胸ポケットにあるペンを引き抜いた。彼女の美しい鴉羽の髪からは僅かな硝煙の臭いがした。彼女がよく纏っているにおいだ。彼女はてきぱきと荷物を纏め、幾つかの事項を紙に書いてからファイルに仕舞う。恐らく人間の上司に提出する報告書だろう。塔主は確かに塔のトップではあるものの、国のトップではない。天児は人間と似て非なるものでありながら人間に管理されなければならない立場にある。私たち妖怪の権力と彼らの権力、そして人間の権力は同等ではない。故に塔主たちは協議を重ねて塔に属する者たちを守らなければならないのだ。つい数年前までは年長者である佐々木と小林が二人でその仕事を担っていたようだ。

 

「ああ、そうだ。例の文献に目は通した?」

「うん。……ああでも、日付を間違っていたよ。39812年11月20日は一週間弱先でしょう、調査があったのは10月だったと思うんだけど」

「うーん、それが、秋月さんにも確認を取ったけれど、10月は戦跡調査はしても文献の出土は無かったらしいんだよ。あの日付は文献に書かれていたもので、調査日時ではないんだって。日付部分に修復痕は無し、元からあの日付だったんだ」

「へえ……なら一つ気になることがある。あれに書かれてたことだ。あの資料は調査記録みたいなもんだった。内容は二つ、過真についてと星帰について。これはおかしくない。問題なのは文献そのものじゃないからな」

 

 大腿に取り付けられたホルダーにある拳銃を確認しながら話す野村に佐々木が応答する。私の前で話すということは機密というほどの物ではないようで、話の内容は『秋月』という人名からして考古学班の報告書についてだろう。きょとんとした顔の佐々木と思案顔の野村の間に中野が突っ込む。彼女は二本の指を立てて淀みなく言い切りながら、懐から折りたたんだ幾つかのコピー用紙を取り出した。

 

「おかしい点が二つある。一つ、十桜のサイコメトリー持ちに見せた。だが書き手のことは何もわからなかった。二つ、この資料を手に入れたのは三日前。秋月と塔主しか知らない。だけど妙なことに、考古学班の西谷深雪と現隠、この二人が例の資料発掘と殆ど同時に発表した文献がこいつ」

「『過真の生態と星帰のメカニズムの類似性について』──待って、これ……内容が同じ」

「そ。門外不出の資料とピッタリ同じ物が発見と同時に作成されたんだ。おかしいと思わないか?」

 

 内容が気になってそわそわしていると、佐々木が用紙の一枚を少し下げて見せてくれる。覗き込めばそれは小難しい内容と堅苦しい文章が整列した論文だった。関係者には二名の名前が並んでいる、珍しいことに西谷の片割れは双子での研究をしなかったらしい。ざっと読むに、過真という不思議な生命体の細胞から星細胞が検出され、それがスターマンによる星帰によって変異した星細胞のデータと一致していたこと、そして過真の話した内容や細胞の組みなおしの痕跡、姿形に関して、などが並べられていた。眉根を寄せた野村が視線をあげて佐々木の琥珀のような瞳を見た。

 

「……この事は、公に?」

「する必要があると思う。今の塔に重要なのは信頼だから、何処かから情報が漏洩するより先に公的に発表したい。勿論、考古学班の彼らを批判することがないように、二人のこれまでの活動、二つの資料の同一性、日付を公開する。これは真実そのままに発表するべきだ、その方が裏も無いし俺たちの感じる違和感も理解してもらえると思う」

「少なくとも三人の塔主が認めてるんだ、ダイジョーブ。しかもその二人は考古学の権威ともいえる秋月の部下、特別製の脳ミソと良い線いった戦闘力、塔のなかでの程々の影響力を持ってる。政府連中でも手は出せない」

 

 中野の言葉に二人は頷いて、佐々木は腕時計を確認する。

 

「時間だ、行こう」

 

 

 

 

 

 お客さん――もとい中央政府の上役は三人だった。いかにも、と言えそうな勿体ぶった仕草に何処か気取った雰囲気。それはもしかしたら当たり前のことなのかもしれない。彼らは天児を支援する立場にある。天児であることは職務ではない。その命を懸けた戦いがたとえ唯の人間を救うことに繋がっているとしても、政府の人間に言わせれば『偶然』でしかなく、普通フラグメンツに襲われることのない一般市民にとっては建物の崩壊といった二次的被害を生み出す天児こそが目の上のたん瘤なのだろう。当然給金なんてものは発生しないし、保険もない。塔主が交渉してやっと資金の援助が得られ、塔の設備も充実し、隊員に給金と保険がもたらされるようになった。とはいえ天児の名家がそれなりの規模と影響力を持っていることに加え、通常の重火器では対抗しにくいフラグメンツに対する保険として政府も天児を保護する必要がある。政府と天児の均衡はそのようにして保たれているのだった。

 今日彼らがここに来た理由は幾つかあるだろう。亡くなった三人の塔主と次期塔主について、欠けた灯台守と壊滅状態の五柳、そして殺人を犯した小林への対応。二時間にも及ぶ話し合いの中で佐々木はいかに小林が役に立つのかを話した。らしくもなく必死な様子に残る二人の塔主は眉を寄せたが、結局何も言わずに見守っていた。しかし、どうしてか先ほど中庭で中野に話した毒薬のことについて、佐々木は仄めかしすらしていない。不思議に思っていると、政府のうちの一人が中野に問いかけた。

 

「本来ならば死刑だが、刑の執行は君たちがやるのか? それとも『中立的立場』として君が?」

「さてね。なんでそんなことを聞くんだ?」

 

 中野はソファの背もたれに寄り掛かったまま、不機嫌そうに答える。仮面が外されて露出した目元を触り、道端の生き物でも見るような目つきで人間たちを見た。

 

「君は刑罰を与えるものの血を引いていると聞いてね。違ったかな、『刑告』さん?」

「ハハ! 冗句を言うならもっとマシなものの方がいいと思うが? くだらないお喋りは郡の時から変わらないらしい」

「……あはは、すみません。それで、噂によれば小林が加害者かどうかで意見が割れているらしいが、妖怪の皆さんはどう思っている?」

「処刑の方法は決まっているのか?」

「知らないね」

 

 刑告は左眼を細めて笑った。その隣の佐々木は姿勢良く座ったままだったが、疲れているのか背筋は硬く強張り頬は白かった。矢継ぎ早に質問を重ねた彼らも疲れが出てきて焦っているのだろう。言葉はどんどん余裕を無くしていく。

 

「いや、しかしね、確実性がないとこちらも困る。いくらまだ役に立つとしても、殺人犯を野放しにしておくことはできない。できれば早急に、確実に対処してほしいんだが」

「なんだ、あんたらは私が小林を負かしたことが無いって言いたいのかい」

 

 ぞろ、と剥かれた犬歯に、役人が恐怖したのが手に取るように分かった。ちいさく、野村が呆れたような溜息を漏らしたのが聞こえた。やはり彼らは考えなしなのだ。いくら殺人を犯したといっても、このゼペネでは塔主が最も高い戦闘力を誇っていて、小林がブレーンの片方を担っていることに変わりはない。

 

「死んで償わせるって考えてんなら、あんたたちは三流だねぇ。なんでそれで償えると思ってんだ。『命は尊いから』なんて考えてたら三流未満さ。命が尊いのは何でだ? 一度しか生きられないからじゃない。死ぬからだろ。死んだ奴が出来ない事が出来ちまう、それが生者の特権」

 

 爛と光る血色の瞳がぎょろりと三人を捕らえた。身動き一つとれず、彼らは顔色を悪くした。佐々木が心配げな目線を送る。

 

「……刑告――」

「私を誰だと思ってんだ。仙波襲、針嶌柳蛇丸、郡髄迷、そして佐々木と小林。そいつらに認められてこの座にいるんだ。例え塔主でなくたって、私はこの塔で一番力がある。しかもゼペネの妖怪を支配する妖の王。塔主であろうがなかろうが、あんたたち人間を殺しに行くのは散歩に行くのと同じこと。私に人間のルールに従えってんなら、あんたらがそういう人間サマの『場』を作んなきゃねぇ。あんたらの言動は随分、人道ってやつから離れてるんじゃないかい? まるでモノ扱い、捨てるのも簡単ってか?」

 

 そんな奴らにルールは無用、と嗤う。

 

「小林は孤児を集めて面倒を見ているだろう。殺された灯台守も同日に死んだ五柳の幹部たちも、もとは孤児だったそうじゃないか。危険な人物の元にいれば教育に悪い。子供たちも怖がっているだろう」

「……私たちが行ってきたことをお忘れですか。命を賭して戦ってきた人たちに敬意を払うべきなのでは? いくら彼が貴方たちの嫌う百期生であっても、彼の功績を忘れるべきではないでしょう」

 

 野村は視線だけを彼らに向けた。彼らの話は最早支離滅裂、よっぽど小林の処罰を望んでいるらしい。それにしてもあからさまに刑期を急ぐのは何故なのか。彼らにとっては利用できるものは利用しつくすことが当たり前のはずだ。

 

「すみませんが、今のところ彼の処罰は保留にしてください。彼には…………利用価値がある。今この状況で彼を失うのは私たち天児にとって、延いては世界にとって大きな損失につながります。お疲れのようだ、今日の所はここまでにしましょう」

 

 佐々木の言葉に彼らは渋々ながら身支度を始めた。野村も立ち上がって見送る姿勢を取る。扉を開けようと近づいたところで、三人のうちの一人が何事かを思い出したように佐々木を振り返った。

 

「そうだ、次から子供たちの面倒を見るのは六式の所だろう。書類の引継ぎをするように話しておいてくれ」

 

 その瞬間、空気が凍り付いた。

 

「待ってください」

 

 佐々木は焦げ茶の瞳を見開いて立ちつくした。中野は首だけを此方に向けて、訝し気にその目を光らせている。野村も同様だった。私は彼女の手が大腿のホルスターに伸ばされたのを見逃さなかった。

 

「どうして、貴方たちがそれを知っているんですか。――まさか、」

 

 佐々木の中で、点と点が繋がり、ある一つの真実に辿り着く。小林の処罰を求める執拗な声、そして機密とされていたらしい子供たちの保護。それを知っていた人間の、政府の上層部。一人が顔を大きく歪めて吐き捨てる。

 

「勘が良いな、くそ、紅斗の弟子が! 庇護下に収まり続ける醜い斎藤の血筋!あの家は俺たち遠藤家の邪魔ばかりする!」

「おい、落ち着け!」

「折角各地の伝を使って奴らに売っていたのに。前代からだ、お前たちが孤児の保護に乗り出し、星の獣とかいう動物も法が厳しくなってから手に入らない……!お陰で金も稼げない! 小林だけでも始末できれば子供くらいは容易に準備できるのに!」

「動くな」

 

 野村の黒い拳銃と墨のような瞳が真っ直ぐに彼らに向けられた。座ったまま腕を組む中野の周りには鬼火が舞い、出入口や窓、そして役人たちの周囲を囲む。野村が鋭い声を発する。

 

「説明」

「そのままの意味だよ! お前たちはいくら戦争し続ければ気が済むんだ? フラグメンツの数は底が知れず、おまけに塔主は現在七人。十年前と同じ人数だ、しかも状況は悪化の一途、塔主には伝統的な血筋もいない、さらに百期生が二人もいて、そのうち片方は殺人鬼だ! お前たちは負ける! だが人間は生き延びて、素晴らしい技術を手に入れ金を得る!」

 

 彼ら越しに見る佐々木の瞳が強烈な怒りで燃えていた。

 

「中央政府が、天児の子供や星の獣を施設に売っていた………? 法ができる前ということは、もう百年も前から……? ふざけないでください、私たちが命をかけて守ろうとしてきた者たちを差し出して、挙句私たちと戦わせていただなんて……」

 

 佐々木の握りしめた拳がブルブルと震えている。顔は蒼白で、それでもまだ冷静さを保っているように見えた。

 

「妙にフラグメンツの討伐指示が甘いわけだ……貴方がた、わざと伝達数を減らしていたでしょう。優秀な調査班が敵数を間違えるわけが無い」

「待て、話を聞け、やったのはこいつだけだ! 私怨にとりつかれてるんだ、私たちは直接関わってない!」

「貴方がたが殺した…! まだ若い子供たちも、俺の同僚も逸頼も、蝶羽姉さんも……! 君たちが殺した……ッ!」

「違う、私たちは」

「何も違わない!」

 

 琥珀が燃えた。佐々木の瞳が黄金色にほどちかくなり、蟀谷には青い血管が浮いていた。

 

「直接手を下さないことが悪では無いと思いますか、貴方が子供を売ったこと以外に罪がないと言いますか。直接手を下していなくても、貴方の払った金が循環し、いつか人を殺すためのものが生みだされることを、貴方は、知っていますか。貴方たちは故意に罪を犯し、沢山のものを殺した。直接でなくても、殺しています。提案したのが貴方でなくとも、貴方は上に倣って子供たちを売った。それが……」

 

 彼の荒くなった呼吸音が数瞬の空白に無数の傷を付けた。失望を乗せた声で、佐々木は呟いた。

 

「それが、破壊者でなくて何だと言うのでしょうか」

「戦争を始めたのはお前たちだ!」

「…………」

「昔、天児が戦うと言った。だからゼペネにも火の粉が飛んだ。私たちはお前たちに協力するための資金を提供しているんだよ。今お前たちが生活し戦えているのも、整えられた制度も、全ては私たちの援助で成り立っている。私たちの整えた施設の金、お前が嫌う『子供を売ってできた金』で、お前は怪物共を殺している。お前たちの使うその武器も、隊服も、もとは子供と同義だったんだよ! それに気付きもしないで正義の味方気取りか、笑わせるな!」

「ふざけんな……じゃあなんだ、お前ら、十年前に郡や仙波や紅斗や、川反が死んだとき、どう思ってたんだよ、なァ! 葬式に来てただろが、どの面下げて死を悼もうって!? 何が残念です、だ!? 目の上のたん瘤切り落とせてハッピーの間違いだろうが!」

 

 先ほどから叫び続けている男の足が宙に浮いた。中野がその剛腕でもって男の胸倉を掴み上げたのだ。

 

「何か言え」

「願うことの何が悪いと言うんだ、私たちにお前たちのような力はない。叶える力なんてたかが知れているんだよ……だから罪を犯すのさ、星に願いをかけるより、余っ程現実的だと思わないか?」

 

 男は恐怖で竦みあがったが、しかし反省や後悔の様子は見られなかった。佐々木はさっとドアを開けて人を呼ぶと、詞で縄を生み出して三人を拘束した。そして入ってきた隊員たちに言づける。

 

「彼らを連れて行ってくれ。政府は駄目だ、……スターマンに引き渡す。天秤座のキファなら、然るべき処罰を与えてくれる。雨覚にお願いして、政府を全部探ってもらおう」

「分かりました」

「待て! この事が上に伝われば、お前たちは援助を無くすことになるぞ! それでも私を国外に連れていくのか!?」

「……もう、いい。以前の話し合いでスターマンとの協力を申し出た時、既に援助は切られている」

 

 佐々木の瞳には既に何の感情も浮かんでいなかった。ただ何か得体の知れないものが確かに潜んでいるのだった。

 

 

 

 

 

 数分の後、部屋には重い沈黙があった。先ほどの騒動で元より芳しくなかった体調が悪化した佐々木は、肩に外套を掛け、青を通り越して黒っぽくくすんだ肌でソファに座っていた。これからのことについて話し合い、ひとまず小林の仕事の引継ぎ先や分担、そして子供たちの預け先についてが決まる。そして小林を除いた六人での話し合いの場を設ける日程が決まり、時計を確認した野村が慌ただしく立ち上がる。

 

「ごめん、これから仕事なんだ」

「良いよ。俺も力になれなくてごめん」

「休む時も必要さ。……君は昔から働きすぎだよ」

 

 努めて柔らかく笑った野村は手早く外套を羽織りながら本棚の方に歩み寄り、隙間から散弾銃を取り出して肩に掛けた。通信機器に何事か打ち込みながらドアノブに手を掛ける。

 

「じゃあ、また来るよ。……けーちゃん、あまり排歌に迷惑をかけないでね」

「何時もかけてないだろ!」

 

 軽く手を振って彼女は立ち去った。ぱたりと閉じられた空間の中で、私と、それから二人の塔主は沈黙を守っていた。きっと時間が必要だったのだと思う、理解するだけでいい私よりも、彼らはもっとたくさんの時間を費やして事実を飲み込んで変えていかなければならなかった。

 

「言葉だけで解決できないものもあるって、お前はよく知ってるだろ。お前だからこそ」

 

 ぽつりと呟かれた言葉は案外優しい響きを持っていた。それを受け止めた佐々木の瞳に、もうあの美しい琥珀の光は見つけられなかった。彼は静かに息をして、膝に肘をつき、手のひらで冷たい頬を覆った。夕暮れ時、窓から射し込む赤い陽光が不気味な沈黙を持って室内を侵食しているような気がした。

 

「雨覚の件、もしかしたら政府が一枚嚙んでいるかもしれない。あんなに邪魔に思ってたんだ、子供や獣を手に入れたいなら雨覚を抑えるのが一番手っ取り早くて効率がいい。孤児の事情や生物の分布について、彼以上に詳しい人は中々いないし……次点で薙丸だけど、彼女も割れてしまった。それに青の一族であることもきっと知られている」

「青の一族だからこそ霜月に任せるのが良いんじゃあないか? そういう点なら、雨覚の引継ぎにはもってこいだろ」

「そうだね。中央政府のことは急いで皆に知らせよう。特に裂には警戒するように言わなくちゃ。中央に近ければ近いほど、情報は探りやすくなって、探られやすくもなる。急がなきゃ。……まだ動けるうちに」

「排歌、諦めるんじゃないよ、私も必ず力になる」

「ありがとう、刑告」

「ま、今はタバコでも吸って落ち着きな。今日やれることなんて無いだろ」

 

 佐々木は小さく笑って、ひとつ咳ばらいをした。中野は口端で笑い返す。佐々木はシガレットケースを取り出したあと外套の喉元の襟に触れ、袖のスリットにあしらわれた赤い碧玉の留め具を触った。

 

「……もう、時間が無いんだ」

 

 彼は中指と薬指で煙草を支え、顔を覆うように吸いながら火をつけた。手のひらの中に、彼は秘密を吐き出した。

 

「やれる事なら何だってやったよ。随分嫌な手を使ってフラグメンツを殺したこともある。醜い言葉だって、……」

 

 瞳が窓の外を見る。

 

「──雨覚も、」

 

 数瞬、躊躇って、彼は言葉を口にした。

 

「もう許してくれないと思う……」

 

 何かを言おうとして、中野は小さく唇を動かした。あんまり悲しい言葉だったから、咄嗟に掛けられる言葉が、彼女には何処にも見つけられなかったのだ。なあ、と彼女がやっと口を動かしたと同時、室外から慌ただしい足音がした。同時、忙しないノックの音と焦燥に駆られた男の声がする。

 

「ノアが出ましたっ! 海堂、四核塔の側です!」

 

 佐々木は弾かれたように顔を上げ、中野は体にバネが入っていたかのように俊敏に立ち上がる。彼女の横顔を、佐々木はいっそう悪くした顔色で見上げた。

 

「よーし、仙波の仇討ちだな!」

「っ、刑告俺も──」

 

 彼は恐れている。ノアといえば残虐なやり方で有名だ。そして他に動ける塔主がいない状況で、彼女が一人で相手をしなければいけないことの意味を、彼は十二分に知っている。そしておそらく、彼女も。

 

「冗句の腕はお前にもなかったのかい」

「刑告、駄目だ、一人でいったら、」

「排歌」

 

 中野は呆れをありありと浮かべて佐々木を振り返った。はじめ、彼女の表情は聞き分けのない動物に対するようなある種の憐憫と愛情を持っていた。けれどそれは徐々に薄れ、やがて真っ直ぐな視線の強さだけが残った。煌々とした血色の瞳が、ただただ命の鮮烈さを伝えている。彼女は座り込んでいる佐々木の傍にしゃがみこんで、彼の目を見た。

 

「今でも時々、逸頼の事を考えるんだ。鬼火の青はアイツの生きた青とは全然違う、けどな、なんだかアイツが一緒に戦ってくれてるように感じるのさ。だから大丈夫だ、私はひとりじゃない」

 

 刻々と時間は迫る。室内で陽光が斜めに滑っていく。中野は佐々木の手を取って立ち上がった。彼女の笑顔はまるで塔主になる前の子供時代のように闊達であり純粋で、それはいつもと変りのない笑顔だった。

 

「それで、お前もひとりじゃないんだ! だって、雨覚はお前のことばを、信念を、ほんとの歌みたいに大事にしてくれただろ? 何度だってうたって、繰り返してた。お前はアイツと平行線のままだって前に言ってたけど……それも有りだろ。だって、永遠に交わることが無くたって、ずっと隣に居てくれるってことなんだから!」

 

 十年前に塔主たちが居なくなってから六年間、卯月と葉月が塔主になるまでたった二人きりで、百期生の塔主は塔を守り続けた。背を預け、互いを信じてここまでやってきたに違いないのだ。彼らが繋ぎ止めてきたものが確かに今を紡いでいる。流れる川や風は巡る。木々は再び何処かで芽吹き、そして星は――星は、死してなおその炎を次へと繋ぐ。

 

「私は、必ずお前の力になる。お前の見てる夢の、ほんのちょっとでいいから、だから手伝わせてくれよ!」

「刑告、……うわっ!」

 

 中野は佐々木を抱え上げると窓を開け放ち、助走をつけて飛び出した。私も慌てて後を追う。日が落ちていく。彼らの頬は照らされて、赤々と生きていた。中野の着物の袖が鳥の翼のようにはためく。彼女は着地して佐々木を立たせると、右手に乗せた鬼火で大きく空を掻いた。炎が天を焼く。中野が展開した炎が裂け、そこから真黒の首なし馬が駆けてくる。飛び乗り、左の手を握りしめた。噴き出す炎が、沈みゆく夕陽を受け継いだように、煌々と燃える。それは夜が近づくほどに、大きく、大きくなる。

 

「来い、集まれ、妖怪ども!」

 

 掛け声と同時、青緑に揺れる炎が辺りに浮かび上がった。十、二十──百ほどになった炎から、化け物たちが現れる。雷獣、怪鳥、妖狐に妖犬、天使や悪魔の隊員たち。それだけではない。南の沼の主に、丑寅山の大鬼、北の雪原の餓者髑髏、ゼペネ中の名だたる妖たちが集い始めた。かつて中野に敗れ、その名のもとに下ったものたちだ。振り返った中野が大きく笑う。晴れやかな笑顔だ。佐々木を見る。瞳は琥珀、もう彼は何も言わずに中野を真っすぐに見据えていた。中野は目を三日月にして笑った。彼らの間には、それだけだった。

 

「覚悟があるならついてきな。百鬼夜行を始めよう」

 

 馬が駆ける。日は沈んだ。それでも、青い炎は消えることなく闇夜に一筋の軌跡を描いて去っていった。

 もう一度再び、燃えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.oempus  つまり、回帰は不可能だったのだ。

        始めから間違っていたというのなら、せめて終わりへ向かう前に──私は何かを変えることができるだろうか?

 

 

 

 

 

「天児の四核の天柱が死んだそうだ」

 

 一人掛けのソファに腰を沈ませ、鷲の王は呟いた。その声に灯るのは賞賛か、それとも少しばかりの諦念だったのか。彼の目の前に同じく座ったフォーマルハウトが感情の乗らない瞳で見上げる。

 

「ノアの首に大穴を開けた。致命傷だ、何もしなくとも近いうちに奴は死ぬ」

 

 アルタイルの置いたクイーンがルークを獲る。チェックメイトまであと数手しかない。フォーマルハウトの次の手を見て、アルタイルは心底つまらなそうに溜息を吐いた。そして次の手を出すことはなく、背もたれに背を預けて数瞬、疲れ切った瞬きをした。

 

「結局人は死ぬ。俺たちがどんだけ戦おうが、それは死んでいくやつには関係なくなっちまう」

「暴論だ」

「結果論だぜ?」

 

 アルタイルが鼻で笑ったのでフォーマルハウトは気分を害したようだったが、何も言わずに紅茶のカップを傾けた。僕がおかわりのためにポットを手に取ると、新しいカップを渡してくれる。二人分注いで、立ちあがる湯気を細められた紅色の目が見ていた。カップを受け取ったフォーマルハウトは柔らかく礼を言ってアルタイルに向き直った。

 

「平和で幸福な、理想郷というものは嘘だ。世界が救われ美しい星になるというのは幻想だ。ひとは須らく肉体の箱に魂の星を抱いている、それだけだ。星の集団は孤独だ。自分自身で光り輝いているだけなんだ」

 

 独白を、フォーマルハウトは正しく独白と受け取ったようだ。ただ舞台で呟かれる言葉に感じ入るように目を閉じた。彼も何処かで分かっていたんだろう、結局彼らのような王や21煌が掲げる願いと正義は夢物語の域を出ない。僕らスターマンは破壊者のような星に願う者たちを嫌悪する存在だ。それは既に歴史に刻まれた数々の戦争によって、多くのスターマンに植え付けられた考え方である。しかし一転して考えてみれば、僕らも彼らと殆ど変わりのない存在であることは明白である。何故なら僕たちも祈りの果てに王の元へ帰り、星の力でもってたった一つの願いを叶えようとするからだ。力のない者が王に願う。力のない者が星に願う。そこに違いは無い。僕たちがいくら寄り添って星座や種族を成そうとしたって、僕たちは決して一つにはなれない。願いと欲を抱えた一個体の生き物に過ぎないのだ。

 アルタイルは顔を上げて、黙り込むフォーマルハウトを責めるような目つきで見た。フォーマルハウトは一つ溜息を吐いて、僅かに首を振った。

 

「これからはどうする? 流石にこれ以上天児を引き摺って戦い続けるのは無理だろう。彼らはあまりに……失いすぎている。俺たちと違って人間に近すぎる種族だ。心も、肉体も、治すのは容易じゃない」

「使えるもんは何だって使うぜ、俺は。ソイツがどんだけ草臥れていようが、破片になった刃物でも使いようによっては簡単に殺しの道具になる。燃えカスも火種になりうる。そういうもんだろ」

「……つまり? 逃げも隠れもせずに真っ向勝負のままでいるのか。疲弊した戦力で。あんまりな愚策だ」

「今までのまま、死を避け続けても何も解決しねえんだよ。そんくらい分かってんだろ。犠牲無くして得られるもんは殆ど無え」

「君は……君は何をするつもりだ?」

 

 嫌に力強く輝くアルタイルの瞳に異様な炎を見つけて、フォーマルハウトは立ち上がった。

 

「全てのひかりを星に還す。星の光を強めるために。そうして、全てやり直すんだ。何もかもはじめから……それをせずとも、スターマンは何れ滅ぶ」

「スターマンを滅ぼすって? 馬鹿な事を……熟と、君が正義を謳う21煌であることを不思議に思うよ」

「それはお前もだろ?」

 

 身内を全員殺したもんな、お前。アルタイルは嫌味に笑う。僕ははっと息を飲んだ。

 そう、昔の話だ。嘗て、フォーマルハウトのいる南の魚座は十数名を抱える大きな星座だった。しかしある夜、一名を除いて、彼らは滅びた。『南』のつく星座たちは『メリディエース』と呼ばれ、星脈を守り、そこから生まれるスターマンたちを保護する役割を担っている。彼らは星脈が攻撃されているのを感じ取り、フラグメンツの群れから守るために戦って──そして全員死んだ。たったの一夜で十数名だ。そしてその日、『幸運にも』その場に居なかった者──それがまだ年若いフォーマルハウトだった。当時のスターマンたちは運良く生き延びた王を喜んだ。星座は滅びなかったのだ、と。もしアルタイルの言葉が正しいとしたら? あの夜、フォーマルハウトは一体何をしていたのだろうか?

 

「お前も前は俺と同じだった。野心家で傲慢、だけどどっか臆病で醜い。だから自分の手の届く範囲で、試験的に殺しをした。それが今じゃ腑抜けだ。あの頃のお前は良かったよ、若くて、その名前に恥じないくらいギラギラしてた。俺なんかお前の道の邪魔だって言われて、直ぐに殺されると思ってた」

「……」

「……ま、良いよ。そこ退け」

 

 摩耗した星の力を本体に戻し、枯渇した星脈を癒して嘗てのように強大な力を持った次世代のスターマンたちを生み出す。それがアルタイルの願いだ。血統を尊び純粋な力を誇る彼らしい考えだともいえる。そしてこれは戦争を終わらせるために最も合理的な判断だ。しかし一度地上からすべてのスターマンが滅びたとしたら、この世界はどうなるだろう? 天児たちは? 現状より悪の蔓延る世界になってはいないだろうか? その責任は誰が負うのか。死んでしまった今の王たちに責任は取れやしないのだ、そんな危険性を孕んだ策を種のための正義だと言い切れるのか。

 何も言わずに立ち尽くすフォーマルハウトに痺れを切らし、怒気を込めた瞳でアルタイルは睨みつけた。周囲に舞う炎の片が銀色の輝きを纏って部屋を満たす。しかしフォーマルハウトは微動だにせず、真っすぐにアルタイルの目を見つめ返した。彼は一歩たりとも退かない。彼の信じる正義のために。

 

「退け、って言っただろ。お前じゃ話にならねぇんだよ。お前と俺じゃ、根本的に見てるものが違う。何十年も前から。そうだろ?」

「全てを殺して、それが何を生む? 冷静になって考えてくれよ、君の計画が上手くいかなかったら、いったい誰がその責任を取れるんだ。天児か? それとも君は賭けがしたかったのか? 無責任に後世に全てを託して華々しく散ろうって思っているのか、それで本当にスターマンは救えるのか。21煌じゃ、独りよがりの正義じゃあ、何も、何一つも救えないと思わないか」

 

 炎の力はますます強まる。今や憎悪を乗せたアルタイルの瞳は生物の域を超えて、何か全く別のものにさえ見えた。怪物、いや、もっと恐ろしいものだ。例えるならどうしようもない天災そのもののように、彼を止める術はどこにも無いように思えた。相対するフォーマルハウトも正気を失っているかのように見えた。彼の周囲に舞う炎の片鱗が明滅し、今にも爆発しそうに揺らめく。

 

「妥協ってのは俺が一番嫌いな言葉だ。守るだなんだと言い訳がましい甘ったれた考えに妥協してやる必要が何処にある。理解できねえ」

「分かり合えないことが重要だとは思わないよ」

「……去れ、フォーマルハウト。二度とその面見せんな」

「全く……君の癇癪には飽き飽きしてる。俺は君の脅しに屈するほど弱いつもりはないよ」

「邪魔するならここで殺すぜ?」

「やれるものならね。どちらも無傷ではいられないよ、『ひかり』の四割程度、喪失は覚悟しなくてはいけない。今の君にはそんなこと、無理に決まっているよ」

「…………」

「君には妻も子供もいるし、星座を見捨てて死ぬ事ができるほど、君は残酷じゃない。……それが、君が21煌である所以なのかもしれないけど」

 

 先に幾らか落ち着きを取り戻したらしいフォーマルハウトは諭すような声の柔和さで問いかける。確かにここで二人が争い相打ちとなれば、スターマンにとって大きな損失となるだろう。アルタイルは表面ばかりを静かに落ち着かせ、つかつかと扉の方へ歩いていく。くすんだ金色のドアノブに手が掛けられたところで、フォーマルハウトは静かに呟いた。

 

「スハイル·ワズンはどうする」

「…………さあ……彼奴が決めることだ」

「無責任だな、君の妻だろう。君がこんな道に彼女を連れてきたんだ」

「彼奴は俺の妻である前にひとつの星だ。彼奴の命運は彼奴が決める。俺に殺されてくれるならそれでも良いし、俺を殺すつもりならそれでも良い」

 

 肩越しに視線だけで振り返ったアルタイルの表情は伺えない。ただ仄暗く輝く赤い片目があるばかりだ。

 

「今更後には退けねえ」

 

 扉が音を立てて閉まる。何もかもが断絶されたような、切り取られた絶望的な静けさが部屋を満たした。

 

「……わかってもらえないと、悲しいと思う?」

 

 扉を見つめたまま、先ほどまでの炎が嘘だったかのような寂しさを滲ませ、呟いたひとりの男の声があった。

 

「理解されなくても良いんだよ、俺たちは、同じ命を持っているわけじゃないんだから」

 

 それから彼と僕との間に会話は無かった、予定より多く残った冷めた紅茶の沈んだ香りと、時計の音だけが現実を伝えていた。――どれだけ時間が経っただろう、躊躇いを乗せた一つのノックの音が部屋に転がり込んできた。フォーマルハウトはらしくもなく驚いた様子を見せ、それからいつものように穏やかな声で入室を促した。室内に入ってきたのは二人、どちらも21煌でありケンタウルス座のスターマンたちだった。まだ年若い銀髪の青年ハダルとその王である金髪の美女リギルだ。

 

「ハダル。珍しいね、君がここに来るなんて」

「話があるんだ。俺の、仲間の話」

「聞こう」

 

 新しく紅茶を淹れようとするフォーマルハウトを押しとどめて、ハダルは硬い表情のままでいた。そして、突如としてガラスの音が室内に響いた。短い閃光の後、彼がいた場所に立っていたのは一匹の白銀のピューマだった。それは確かにフラグメンツのような異様な雰囲気を持っていたが、瞳は理知的で攻撃する様子も見せない。傍に立つリギルも動じることなく見守っている。一呼吸を置いて、それは再び青年の姿になった。そして誠実さを持った目でフォーマルハウトを見つめた。

 

「……俺は、青の一族だ」

「そうか」

 

 フォーマルハウトは薄く笑った。

 

「薄々、予想はついてたよ」

「だから、本来21煌には相応しくない。だが俺は……青の一族、フラグメンツの仲間として、そして21煌としてさいごまで戦いたい。それを許してほしい」

 

 その誠実で愚直な様子が、フォーマルハウトが何時か言っていた『若さ』というものなのだろう。愚かしいほど誠実で馬鹿らしいほど礼儀正しいのに決して道を譲らないような、そういう意志の強さが彼にはあった。

 

「好きにしなよ。お前は王、俺と同じ立場だ。自分の意志は自分で通せ。それが21煌だろう」

 

 頷いて、それ以上何も言わずにハダルは踵を返した。彼の白い指先がドアノブに触れた時、フォーマルハウトの声が部屋に静かに響いた。

 

「……なあ」

 

 ハダルは振り返ってフォーマルハウトの顔を見た。そういうところが、フォーマルハウトの心の何処かを擽って止まないのかもしれなかった。彼は笑っていなかった。ただ、誠実な青年に対して誠実であろうとするような真摯さがあった。

 

「正しさは誰にも定義できない。その身にもその心にも、魂にも過去にも……正義の根源などありはしないんだ。君の身体の全てがたとえ君のものでなくても、君の信じる正しさは今この時の君の中にしかない。だから、相応しくないなんてことはないんだと、俺はずっと信じてるんだ」

 

 頷いた青年は立ち去った。静かに閉められた扉を通らなかったリギルがフォーマルハウトを見た。そして少しの迷いと共に呟かれた言葉があった。

 

「ハダルを許してやってくれないか」

「リギル?」

「あの子は優しく同時に愚か故、何も捨てられない」

「……若いやつは時々、嫌になるくらい真っ直ぐだ」

 

 フォーマルハウトが肩を竦めると、リギルはくすりと笑った。

 

「別にいいさ、俺の邪魔をしなきゃ。若いやつに優しくしてやるのも、俺の意志のひとつだしね」

「……嬉しいよ。ありがとう、フォーマルハウト」

「はぁ、君と話すと調子が狂うね。特に暴君と話した後は」

「暴君?」

「アルタイルだよ」

「ああ、彼か」

「……気を付けてくれ、彼奴は何時か俺たちを殺そうとする」

「ふむ、それもまあ、世界を救う一手には違いないが。私も友を失うのは悲しい。気を付けるよ」

 

 リギルは微笑んで、静かに部屋を去った。フォーマルハウトは疲れ切ってソファに腰かけ、それきり何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章

1.llos  束ねるリボンがほしいんだ。枯れて項垂れるあなたでも、もう一度笑ってくれるように。

 

 

 

 

 

「トールが死んじゃった」

「清瑞くんが……?」

「うん」

 

 薄暗く冷たい廊下に二つ、小さな影が佇んでいる。一つは金色、もう一つは白。二つの影は静かに言葉を交わし続けている。そこには少しの悲しみも苦しみもない、ただ静かな言葉だけが並べられていた。僕は白色の人物の見張り役としてここ数日を共にしている。金色は上島、白は小林。この十年間ずっとゼペネを守ってきた二人が、今目の前にいる。清瑞のことはよく知っている。僕の同期で、十桜配属のトビウオのエースで、とびきり綺麗な顔と何もかもを見透かしてしまいそうな瞳をした男だった。数日前、トビウオの小隊が襲撃を受け、彼は大きな竜に吞み込まれて死んでしまったらしい。あの不思議な瞳が誰かを見つめることはもうないのだ。

 

「……」

「さめさめ、人はいつか死ぬし、鳥はいつか墜ちるんだね。永遠に飛び続けることなんてできないんだ、どんなに空が好きでもさ、どんなに空が美しくっても」

 

 あーあ、と溜息に、彼女は歌を乗せた。

 

「でも、嬉しかったろうな。あいつが死んだ日は、びっくりするくらい晴天だった!」

 

 彼女は背に腕を組んで、人好きのする顔でからりと笑った。小林はぼんやりと彼女の顔を見つめている。

 

「もしさ、あたしが死ななきゃならなくなったら、その時は、できれば、空で!」

「うん、きっと」

「……もうちょっとで作戦開始かぁ。まだ死なないよね?」

「約束するよ」

「あは! 要らないよぉ」

 

 遠くで呼び出しのアナウンスが流れている。今日も戦いが始まって、どこか遠く、僕の知らないところで誰かが死ぬのだろう。彼らもこれから別々に戦わなければならない。上島が左手を挙げた。小林も手を挙げて、その小さな甲がぶつかりあった。

 

「あと少し、頑張ってみよう!」

 

 彼らが小さく笑った廊下の向こうから、二人分の速い足音が聞こえてくる。片方は軽くカツカツと規則正しく、もう片方は多少ばたばたと忙しない。目を向ければ、そこにいたのは灯台守の花仙と看護班の川村だった。花仙の傷だらけの手には深紅の鞭が握られている。

 

「雨覚! 何してる、早く行くぞ。今日は俺がお前の目付けだ」

「怖くないの」

「まさか」

 

 花仙はフンと鼻を鳴らした。その横顔には呆れがありありと浮かんでいる。

 

「俺を河端のようにそう易々と殺せると思うな。……それに俺は、お前の殺人を信じてなどいない」

「…………」

「お前、年下とはいえ『最強の盾』より保つわけねえだろ……」

「彼女は絶対に雨覚を殺せないが、俺は可能性がある」

「カエデ……! 諦めてなかったんだ!」

「……『今だけは』と言っただろう」

 

 どこか照れの混じった表情で、花仙はふいと顔を逸らした。嬉しそうに飛び跳ねた上島は、一転、不安そうな顔で隣に立つ川村へ問いかけた。ここにはいないもう一人の同胞を案じているのだ。

 

「ニスイ、ハッカは……」

「殆ど歩けなくなった。もう長くない。これ以上業を使うのは危険だ」

「……後には引けないってワケだ」

 

 顎をぐっと引いて、彼女は呟く。ぐっと握られた拳からチリリと漏れ出す炎を、強い意志の宿る瞳がじっと見つめる。残る三人も、それぞれの色の違う瞳に同じ感情を宿している。『生』という、力強いひかりを。

 

「一回きりだ。一回しかないんだ、命って。だから……」

 

 炎から離れた目線が、三人の瞳を照らし出す。

 

「後悔なんかするな。生きろよ、頼むから」

 

 そうして彼らは、別々の運命を歩み出した。

 

 

 

 

 

 小林と花仙と共に辿りついた戦場は、まだそう大きくは動いていなかった。数百メートル先に負傷して濃い血の臭いを撒き散らし続ける怪物――ノアの姿があり、手前の岩陰に吉川と数名の隊員の姿がある。吉川はちらと小林に目をやったが、その視線は直ぐに逸らされた。状況確認のために近づいていく花仙の背を見送ってから恐る恐る小林の顔を見下ろしたが、そこには不快の表情も警戒も、悲しみすらも浮かんではいなかった。――あれほどまでに、覚悟に燃えた目をしていたのに。

 

「野村さんは」

「あと十分で合流する。看護班から三人、灯台守はあんたと内藤。……悪い知らせが一つある」

「何ですか」

「鍛冶班が全滅した」

「……!」

「あいつだ」

 

 頭が真っ白になる。怒りに染まって黄金色の光を放つ目で、吉川は前方のノアを睨みつけた。

 

「刑告とやりあった時点で、ノアの負けは決まってたんだ。刑告以上にゼペネの地形に詳しい奴なんてそうそういねえ。しかも戦場はあいつの庭だった。どれだけの犠牲を払っても……それが自分の命でも、あいつはノアを殺すつもりでいた。だからノアは負けた、だが奴も馬鹿じゃない。自分が死んだ後もゼペネが勝てないように武器の出所を潰した。……奥田さんも滝沢さんも、小見山も金森も死んだ、殺されたんだ」

 

 確かに戦力の多くを武器に頼る天児にとって、数少ない鍛冶班の人員を失うことは大きな痛手になる。特に戦時中においては。鞭を握る花仙の手が軋んだ音を立てた。これほど強く美しい刃たちは、もう二度と生まれないのだ。

 

「あいつは南に向かってる。十中八九、次の狙いは京沖だ。あそこには夢屋にジュピター、他にも大事な施設が多い。特に夢屋が潰されたら……ゼペネは負ける。そして、天児は絶滅するだろうな」

 

 遠くで狼煙が鳴る。ぱち、と吉川の手のひらの中で閃光が弾けた。ノアが異変に気付いて異形の頭を持ち上げた。小林の背に回した左手には武骨な刀が固く握られている。

 

「行くぞ。ここで終わらせる」

 

 風。一番に飛び出していったのは小林だ。ノアに触れる瞬間、背の陰から突き出された刃がその喉元を切り裂こうとする。しかし小林は攻撃を止めて刀を逆手に持つ。ノアの振り払った腕が空を切り、身体を右に屈めた小林の刃が冷気を纏って振りぬかれる。

 

「おや、君でしたか。コバヤシさん」

 

 その声に、――ノアの声に、続こうとしていた隊員たちの足がビクリと止まる。そう、誰もが始原のフラグメンツと相対したことがあるわけではない。ましてやノアなどとは。こいつと出会うことはそれ即ち死を意味する。他の始原のフラグメンツとは違う、残酷な死を。ノアの得手は苦痛を与えることだ。とある調査によって、ノアを構成する生き物が判明している。美しい白鹿の頭部に人間の腕、下半身も鹿の姿という、フラグメンツにしてはシンプルな姿だ。しかし問題はその中身である。数十を超える生物の脳。そこには人間を基本として天児、覚、件といった妖も含まれている。そして完成したノアは人語を話し、あらゆる生き物を超越した頭脳を手に入れた。そこできっと思いついたのだ、自分を滅茶苦茶にした自分以外の存在に、自分が味わった苦痛を与えることを。そしてそこに悦楽を見出した。そんな危険なものの前に自分を曝け出すだけでも勇気がいる。その上、今のように塔主の名前を呼ばれたら怖気づくのは当たり前なのだ。

 動きの鈍った一人の隊員にノアの振りかぶった腕が迫る。ひ、と細い悲鳴が聞こえた。閃光、駆ける。ノアの手の下で光が解けた、黒い外套が波打って、隊員の襟首を掴んで地に転がって回避する。自分の業に扮して動くだなんて芸当は誰にでもできるわけではない。吉川だ。

 

「怖いなら下がってろ!」

 

 ここに居るのはノア討伐のために集められた者たちだとは言え、いざ目の当たりにすれば恐怖で動けなくなる者が出てきてもおかしくはない。数人が後退りをした。まるで装飾品のように長く白い睫を持ち上げて、ノアが目を開いた。エメラルドの宝石が不気味なほど深く輝いて僕たちを覗き込んでいるような気さえしてくる。笑った、ように見えた、瞬間目の前に広がる熱波、炎。反射で目を瞑ってしまうだろうか、というときに冷気が熱を遮った。静かな氷の色が炎を透過してくるりと影の形を変える。遠く、ノアを囲むようにして展開された氷の壁の陰に、白い息を吐きだす小林の姿がある。

 

「離れて」

 

 やや掠れた声で、しかし冷たい空気を裂くように彼の声が聞こえた。二秒、あっただろうか、氷が内側から砕かれてノアが姿を現す。雷が走る、ノアが手を伸ばす、攻撃で隙のできた吉川に接近、寸で割り込んだ氷がそれを阻む。近くで発砲音、振り返ると拳銃を構えた烏色の塔主、野村がノアを睨みつけていた。

 

「邪魔しないでくださいよ、コバヤシ……僕の目的はこんな小さな天児たちではなくて、そこの黒い――ええと、ヨシカワなんです。できればついでにノムラとも遊んでみたいけれど」

「どうしてお二人が……」

「どうしてでしょう? とても美味しそうに見えますよ、二人は。コバヤシは少し骨っぽくて口の中を痛めそうなんです昔から。ああイライラします、十年前に"Rie"がきちんと殺せていれば、僕は今頃もっと楽しく過ごしていたかもしれないのに」

「こいつと会話するな、正気を失うぞ、っ!」

「酷いな、お喋りしましょうよ、もっと。僕の精神が人間と同じだって知っているくせに。僕は人間です、僕は人間です、人間だったんですよ、それでも寄ってたかって殺せと簡単に言ってしまえるんですね、お喋りしましょうよ、そうしなければ得られないものが沢山あるってことを知ってくださいよ。ああ、ノムラさん、君のお師匠様はとっても聡明で勇敢でした!」

 

 野村の黒曜石の大きな瞳が見開かれる。ピクリと指先が震えた。彼女は顔色を変えずに銃を構えたまま返答する。

 

「そう言ってもらえるなんて光栄だよ」

「そうでしょう。死に様まで気高く醜かったので、よくよく覚えていますよ」

「…………」

「おまけに口が堅くて。君みたいな隠し玉がいたなんて思いもしませんでしたよ。十年前、君はまだ幼くてひどく無力だった。考えたことはありませんかもし……」

 

 ノアは頬杖をついてつまらなそうに呟く。

 

「もし君があの時戦える人間だったらって。無力な子供ではなくて、君の存在を悟らせもしなかった馬鹿な男と同じ年だったらって。考えませんでしたか」

「君には関係ない」

「ええ、ええ! 関係ありません。でも……センバカサネの死体は見ましたか? もし君があの時彼の近くに居たら、彼がどんな風に死んでいったのかをよく見せてあげられたのに! ……死に顔が見られなくて残念でしたね」

 

 ヒュっと鳴ったのは彼女の呼吸だったのか。それとも小林が投げつけた武器が空を裂く音だったのか。狙い打ったわけではないような、少し鈍い刀はノアの腕に振り払われる前に消えた。忌々し気に鹿の口が蠢く。

 

「コバヤシ」

 

 その次の言葉を聞かずに、小林は宙に幾つかの氷柱を生み出して投げつけた。狙いは首。一番出血量の多いその部位は、中野が与えた致命傷だと言われている。何か鋭利で長いものに貫かれたのだろうその傷痕は、ぽっかりと孔をあけられたままだくだくと血を流し続けている。脆い氷は弾かれて簡単に砕けた。

 

「君、人の会話中にちょっかいを掛けないでください」

「ごめん」

 

 先ほど投げつけられた刀を左手に呼び戻してくるりと回す。小林はただじっとノアを見つめ続けている。

 

「急いでるんだ、君に時間を掛けていられない」

「……そうですか」

 

 衝撃。再び波のように押し寄せた炎が小林を執拗に追いかけ始めた。氷の壁で防ぐ。溶解して蒸発。追って熱、身を翻して回避。彼は走る。僕の斜め前に立っていた吉川から雷の音がした。ぱちり、弾ける。同時、鋭く光る幾つもの光の柱が宙に現れた。『天槍』、低く小さい呟きとともに落雷。ノアは咄嗟にそれらを避け、走る。その足元の地が弾けた。少し離れた場所で野村が銃を構えている。

 

「天児は……数ばかり多くて困ります」

 

 ガン、と大きな音がして、近くにあった岩が引き抜かれる。隠れていた隊員たちが逃げるのをノアは笑った。

 

「可哀そうに、まるでフナ虫のよう」

 

 まるで小石を投げる子供のような無邪気さで、ノアが大岩を放る。向かう先には補佐を行う部隊がいる。小林が駆けだすが間に合うかどうか――そこに跳び込んだ影、大きく引かれた右腕には青紫色の刀身をした剣が握られている。凄まじい衝突音、砕けた岩が宙に四散して地に降り注ぐ。しかし隊員たちを押しつぶそうとしていた岩々は宙でぴたりと動きを止める。そこに立っていたのは灯台守のメンバー、地形を操る『地業』の使い手、内藤壱紀だ。周囲からは安堵の声が上がる。

 

「壱紀が一突きってな。ダイジョブか?」

「いつきさん……!」

「『いつき』じゃねえよ、『ひとつき』だ」

 

 内藤は顎をくいと上げると、ひとつくるりと剣を回した。そこにノアの周りを飛んでいた鳥型のフラグメンツが襲い掛かる。十数匹。内藤が武器を構える間もなく、深紅の帯が宙を引き裂いた。迸る血。赤い波が鋭い音を立てて宙に踊る。黒い影が波を引いた、引き寄せられた赤い筋は美しい波形を描いて白い手に収まってゆく。じとりとした声が内藤に掛けられる。

 

「気を抜くな」

「あんたが勝手に割り込んできただけでしょーが、花仙センパイ」

「……慢心は命取りになるぞ、内藤」

「俺が慢心するように見えるか? 笑えるぜ」

 

 隊員たちと敵の間に身を滑り込ませた花仙が溜息を吐くのを見て、内藤は得体の知れない光を抱えた瞳をグッと細めた。

 

「来るぞ」

 

 ノアの瞳が開く。綺羅と光る宝石。燃える赤い炎が渦を巻いた。

 

「避けて!」

 

 野村の叫び声が響き渡る。同時に大量の氷の塊が波のようにノアへと押し寄せた。衝突、水蒸気が爆発して強風が吹き荒れる。地を揺らすような衝撃の中で、剣を地に刺したまま柄の頭に両手を置き、真っすぐにノアを見つめて笑う男がいる。

 

「なるほど、炎か。叡智の象徴のくせに直線的で芸がない。扱いなれてないんだろうなァ、元はスターマンじゃない、ただの人間ってところか。アンタお得意の読心で次の一手が分かんないかね、センパイ?」

「悪いが俺は、奴が俺に向けた感情しか読めない」

「使えないなァ。次までにその弱点潰しておいてくれよ」

 

 二度目の花仙の溜息を横目に、内藤はその包帯に包まれた指で剣を引き抜いた。

 

「おい、接近戦はするなよ。今回の序盤の戦法は中距離だ」

「分かってるって」

 

 彼の指先が緊張した。鋭い音を立てて、剣が再び地に深く突き刺さる。突然、少し離れた位置にいたノアが不協和音のような叫び声を上げた。驚いて見れば、鹿の姿をしたその腿が不自然に突出した岩肌に貫かれている。

 

「誰ですか、こんな……」

 

 エメラルドが此方の姿を捉える。

 

「っち、おい内藤、お前に意識を向けさせても意味がない!」

「ナイトウ……?」

 

 ノアが花仙の言葉に反応する。数瞬の後に、ノアは狂ったように笑い始めた。

 

「ああ、あはは、ははははは! ナイトウ、内藤ですか。折角雷の力を持って生まれたのに、塔主になれなかった可哀そうな男、君、君の父親ですね、その剣に見覚えがあります! ああ、なんてことでしょうね、彼の息子も塔主になれなかったばかりか、雷の使い手でもないだなんて!」

「不快な奴だな……」

 

 内藤は片眉を吊り上げて剣を引き抜く。隙を突こうとしたのか、跳び込んできたフラグメンツを一瞬で串刺しにする。それを合図にするように、獣たちが次々に襲い来る。あるものは内藤の剣に突かれ、あるものは花仙の鞭に絞殺される。二人の灯台守の前にフラグメンツは手も足も出ないようだ。見かねたノアが腕を振り上げる、その指先を赤い鞭が絡めとり、僅かに力が拮抗する、が、引っ張られて花仙の靴が地面に浅い線を引き始める。蟀谷に汗を滲ませ、焦った声が彼の同胞の名前を呼ぶ。

 

「はやくしろッ、雨覚!」

 

 白く小さな影が軽い動きで跳び込んでくる。近づいていたもう一方のノアの腕の上で身を翻し、小林の持つ中型の刀が空を切ると、氷の三日月が皮膚を裂いた。片腕への注意が薄れた隙に、花仙は態勢を整えて力いっぱい腕を引いた。ノアがバランスを崩してつんのめる、同時に硝子の割れる音、炎が爆ぜて隊員たちを飲み込もうと押し寄せた。今だ宙に身を躍らせた小林が歯を食いしばって長大な刀を握り、振りぬいた。分厚い氷の壁が僕を含む一部の隊員とノアの前に聳え立った。中途半端な氷では防げないと悟ったのだろう、全員に重傷を負わせるよりも一部の犠牲を。その咄嗟の判断は賞賛せざるを得ない。反動で投げ出された薄っぺらい身体を、赤い波が追いかける。腕に巻き付く瞬間、小林は自身の腕に氷を纏わせた。対フラグメンツ用の武器は触れることさえ危険な物もある。ぐっと引かれた身体は氷の裏にいた花仙の横に器用に着地する。

 

「助かった」

「こっちこそ」

 

 閃光。二人が顔を上げる。青白い雷が龍のように天を駆け抜け、激しい音を立てて落ちた。しかしノアによって投げ出された樹木がその光を吸い取って黒く焦げてしまった。銃声。二発、ノアの腕に直撃、瞬間、爆弾のような強烈な音がして腕が大きく弾かれる。不自然な方向に曲がった腕は、半分ほど抉れて何とか繋がっているといった状態だ。その瞬間を見逃す小林ではない。風のような速さで接近した彼はその傷口を執拗に狙い始める。まるで蛇のように。追って接近した野村が短銃を取り出して骨を砕こうと狙い撃つ。吉川は支援に切り替えて、彼らを狙う獣の群れを相手取る。まだ動きの鈍らない片腕を、再び花仙が封じる。内藤が腕を大きく引き、露出した骨を突いた。がきん! と大きな音がした。砕けた! 回避、すかさず三発、銃弾が肉を引き裂く。全身と遠心力を乗せた小林の大きな刃が引き留めるように僅かに残った肉を切り取って宙に溶けた。ノアが腕を振りぬく。引き倒された花仙が地に伏せて引き摺られていく。武器を手放すまいと握った拳が自らの武器で締め上げられて血が滲んでいる。大きな獣がその身体を押さえつけ、背中を爪で引き裂いた。

 

「……ってぇよ!」

 

 ギン、と首だけで振り返った花仙の瞳が黒く輝く。目が合った瞬間、巨体が力を失って倒れ込んだ。――絶命している。下敷きになった花仙が抜け出ようと藻掻いているうちに、鞭の拘束を抜けたノアがその腕で野村を追う。銃では近すぎる。間に合わない! 小林の位置も遠い。しかし――。

 

「……ふ、」

 

 一閃。滑るナイフ。野村の得意なものは銃だけではない。接近戦、特にリーチの短い、瞬発力を試されるような戦い方も彼女の得意分野だ。特別製の硬いナイフはノアの突き出した腕の皮膚上を走り抜けて衝撃を緩和する。頭部まで接近。熱、回避。ちりりと炎が身体を掠めた。

 

「っ……雨覚っ! 火をどうにかできない!?」

「俺じゃ力が足りない! 水業で相殺するか、強烈な炎業で上書きするか……」

 

 そこで小林は口を噤んだ。

 

「……鈴木様がいれば、」

 

 しかし誰かが口を開いた。何時かのような絶望感が、隊員たちの間を水のように流れていった。誰かが立ちあがる。その背には炎と火蜥蜴の紋がある。駆けだしていく。ノアの前に躍り出る。脚も手も震えて、手のひらには小さな灯しかなかった。

 

「馬鹿、止めろ!」

 

 吉川が叫んだ瞬間。硝子の割れる音がした。ノアの腕が伸ばされた。誰もが息を飲んだだろう。死ぬ。刹那、白い輝き。風を切る音。──しかしそれは、ノアの能力でも体の動きでもなかった。白い骨のようなものが、細く、長くしなってノアの掌を突き刺している。その出処は。

 

「何、それ……まさか、君」

「フラグメンツ……!」

 

 彼の腰元からシャツを突き破って伸びる尾骨のような白いものが、突っ込んだ隊員を掴もうとしたノアを攻撃したのだ。一見それは弱々しい抵抗に見えたかもしれない。手に対してあまりにその尾は細く小さい。しかし刺傷をよく観察すると、徐々に赤黒く変色してどろりと壊死していくのがわかる。──蜘蛛毒だ。以前、蜘蛛に噛まれたという隊員の治療をしたことがある。イトグモの類に噛まれると数日以内に壊死が起こる。それは注入された毒の量によって進行の早さが異なるが、ノアの掌の状態を見るに相当な量の毒が注入されたのだろう。確かに毒は、生命体であるフラグメンツに対して最も有効な攻撃だろう。それは始原のフラグメンツとて例外ではない。しかし、これはあまりに非現実的な様相だった。

 小林が振り返る。誰かが、ひっと引き攣った声を上げた。彼の目は虚ろに大きく瞳孔が開き、特徴的だった薄水色の瞳は無機質な銀色へと変色していた。痩せた首筋には深い切れ込み――まるで魚の鰓のように深く薄い肉の襞が生まれている。助けられた隊員は悲鳴を上げ、震えながら彼から離れる。そこでやっと思い出す。彼の部下、灯台守の死、その死因は。

 

「何で黙ってた」

 

 蟀谷に青筋を浮かべ、吉川がつかつかと小林の元へ歩み寄る。小林は顎を引いて上目に彼を見たまま答えない。吉川が襟をつかみ上げて血を吐くように問う。

 

「何で黙ってた!」

「ま、稀助……!」

 

 慌てて野村が声を掛けるが、その声には困惑と疑心がありありと浮かんでいる。ノアは面白そうにそれを観察するだけで、攻撃する素振りも逃げる素振りもない。隊員たちはおろか灯台守の二人さえも何も言うことができず、呆気にとられたまま三人の塔主を見ている。

 

「妙だと思ってたんだ、お前、昔からやけにフラグメンツに同情的だった……だからお前は、あの日、五柳の奴らに手を掛けた……! 家族を殺されたわけでもねえ、正義感溢れるタイプでもねえ、お前の戦う理由はいつも分からなかった。お前は元から俺たちの仲間って訳じゃなかったんだろ……! 青の一族を名乗り出なかったのがその証拠だ!」

 

 小林は沈黙を保ち続けている。その態度の異常さに、野村も疑心の浮かぶ表情で彼を見ていた。

 

「知らねえかもしれないが、裂も『視て』た。そしてお前の魂の歪みを知っていた! それはお前がフラグメンツと同類だったからだろ。別の動物が混ざりあって生き続ける生き物は魂が歪むとあいつは言っていた。薙丸が青の一族だと知れた時、なんで言わなかった! 毒を扱えるなら、死人が出る前に使えばよかった!」

「……君の事だから、何か考えがあったのかもしれないけど……でも、でも今このタイミングじゃ、ただ君が何にも縛られずに行動したかっただけなんじゃないかと思ってしまうの。ねえ、どうして、五柳の子たちを……」

 

 野村が言葉を途切れさせる。白い尾が揺れたからだ。小林は目を細めている。まだ何も言わない。

 

「君……何がしたいの。何をするつもりなの」

 

 野村の声が震えた。彼女の指先は無意識だろうか、腿に取り付けられていたホルスターの銃に触れている。小林の雰囲気は今までのぼんやりとしたものではない。明らかな殺意と、敵意にも似た何かが彼に纏わりついていた。吉川は既に手を放して距離を取り、警戒するように小林を睨みつけている。青白い唇がようやく音を発し始める。

 

「言えないよ」

「雨覚っ、この期に及んで……!」

「お喋りは終わりでいいですか?」

 

 びくり、と小林を問い詰める二人の肩が跳ねた。ノアは間延びした声でのんびりと問いかけながら肘をついて座り込んだ。小林はらしくないほど剣呑な目つきでノアを見上げた。ノアも嘲笑するような雰囲気でもって小林を見つめ返す。

 

「困っている君たちにひとつ、耳寄りな情報をあげましょうか」

「信用出来ねえ」

「あは! どうでも良いですよそんなこと! 信用してほしいわけじゃありませんし……もう直に、僕は君に殺される。そしてこれが僕の最期になる。次の僕は生まれない。だから、ここで僕の知識を刃物に変えて、大きな傷を作ってやりたくなりました」

 

 『次の僕』。妙な表現だ。フラグメンツは再利用されることはあれど、その精神が引き継がれるなんて聞いたこともない。ノアのように意思のあるものは少ないから、僕らが知らなかっただけなんだろう。エメラルドが此方を映して不気味に輝く。

 

「そこの瓦落多たち。君たち、疑問には思いませんか。『まるで運命のように死んでいく人々』と『観測者を名乗る神の存在』。『未来の日付をした出土品』を見て、『有り得ない既視感』を経験したことは?」

 

 先週の、塔主と考古学班の発表。スターマンの親を名乗る、生命を逸脱した神にも等しいオブザーバーたち。異常なまでの鮮烈さを残して亡くなった鈴木逸頼。見たことはなかったはずだ、けれどその死は、まるで繰り返し見た映画のように鮮明に、目に焼き付いて離れない。

 

「『英智』のフラグメンツとしてお教えしましょうか。端的に言うならば、この世界は作り物です。たったの数人を救うためだけに作られたこの箱庭で、僕たちは戦争をするように作られました。ある時間だけが切り取られて繰り返され、何度も同じ運命を辿る。……ああ、いえ、正確に言えば元々は戦争などありませんでしたよ。『フラグメンツ』という存在は、輪廻を繰り返している間に生まれたのですから」

「そんな話があるわけ、」

 

 そう返した吉川の声が震えていたのは何故なんだろう。心当たりがあるからなのか。人々の記憶に殆ど残っていない先々代やそれ以前の塔主や戦争の歴史。写真ですら殆ど残ってはいない。もしもそれが、それらの時間が、繰り返されている範囲に含まれていないのだとしたら? 初めからなかったのであれば辻褄が合わないだろうか。『たったの数人』とは誰なんだろうか、『作られた』とは、では、いまここで命を懸けて戦っている、『僕ら』とは。

 

「なぜ? 君たち、なんにも知らないじゃあないですか。だから調査したり研究したり、疑ったりするんでしょう? 『英智』そのものである僕にはその必要が無い。未来の記録が今この世界で起きている事と同じ道を辿っていることの説明はできますか。長く生きているスターマンの、昔の記憶が無いことの説明は? 彼らには記憶能力の衰退など無いはずなのに。作者の管理不足によって世界の時間は歪み、何もかもが狂った。過去も未来も混ぜこぜになって、僕たちは何処にいるのかも分からない。ああ、まるでオルゴールやメリーゴーランドのように煌びやかで煩い世界。皆狂ったように同じことばかり繰り返して、外面ばかり取り繕って……」

 

 そうだ。僕たちは何も知らない。世界の創造者。世界を作った神様。ならこの世界の観測者は、星々を生んだ彼らではなく、

 

「こんな世界にしてしまったのは君ですよね、"Ray"」

 

「……」

 

 ノアが小林の顔を覗き込むようにして呟いた。驚愕に見開かれた吉川や野村の目が、彼を映し出した。誰もが、彼を見つめている。

 

「君は何らかの理由でこの世界を作った。そしてその中で何かを守ろうとした……けれども、それらは死んでしまった。僕たち始原のフラグメンツの数千年にも渡る記憶の中で、僕は何度も君に出会った。そしてその内の数百回以上は君に殺されている。僕らの記憶は失われないまま、千度もの時が経った。数千年の生を、千回も。気が狂うかと思いましたよ」

 

 小林は顔を上げた。表情は無い。ずっと沈黙を保っていた唇が、場に合わないほど平坦に、滔々と音を奏で始める。掠れた声が謳うのは、聖書の一節だ。

 

「──『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。…………わたしはこれらを造ったことを後悔する』……ね。俺はたとえ『ノア』であっても殺すつもりだ。きみに、箱舟の作り方は教えない」

「今さら神気取りですか? 傲慢で……相変わらず饒舌ですね、長い時を生きてしまえば言葉は錆び付いてしまうものですが……何処の誰に似たのやら。そういえばパンドラもやけにお喋りでした……君が殺しちゃいましたけどね」

「俺が神様だって? ……可笑しいな。神様じゃないから失敗ばっかりだ。パンドラだってきみだって、本当は殺す予定じゃなかったんだ。……記憶があったから」

「口先ばかり。ああ、そう言えば神たる観測者でもないのに始原のフラグメンツが記憶を保持し続けているのは何故ですか? 不思議ですね、僕たちは確かに君の作ったこの世界の内部にいます。でもまるで、この世界のものじゃないみたいに思える。君もおかしい。……君だけじゃないな、君たちもです。たかだか星の残光を手に入れただけの存在なのに、君たち天柱のように不思議にもスターマンに勝る者たちがいます。しかも輪廻を経る毎に、多くの者の力は歪んで弱っていくが、一部のものは変わらず神的とも言える力を持ったままです。例えばそう、僕がいつか殺した青い炎の男やイヴが目をつけたその男の弟子とかね」

 

 天児は弱い。スターマンには遠く及ばない。けれど、塔主は? α星を凌駕するほど強い者もいる。

 

 

「でも……"Ray"、君は弱くなりましたよ、確実に。君には守るべきものが多すぎたし、逆に守るべきものが無くなったとも言えますか。君はこの『世界』を持て余しているんでしょう。君が本来守るべきだったものは消え失せ、瓦落多ばかりが遺されています」

 

 小林の指先が僅かに震えたように見えた。ノアの話が本当なら、"Ray"と呼ばれたフラグメンツの、彼は創造神で、それなら、どうしてこんな無意味な戦争ばかりを繰り返す?

 

「君が作ったこの『世界』、運命は変えられるのでしょうか? 君が初め守りたがったもの以外は、瓦落多の域を超えるのでしょうか? そこにいる有象無象たち。彼らに"設定"された役目は、『世界の登場人物』以外になることがあるのでしょうか?」

 

 僕らは作り物。世界は作り物。この歴史は運命で、それなら死んでいくことだって当たり前で仕方がなくて、変えられなくて、小林はそれを知っていて、仲間たちの死を惜しんでみせて、それは心からのものではなくてかなしい振りをしていただけだったんだ。

 

「ねえ、"Ray"。裏切るんですか。君、あんなに僕たちの親身になって、助けようとして、とても醜くくて冷たくて温かかったのに。狂った世界で君は、初めから存在などしていなかったフラグメンツを助けようとしたのではないのですか。そこらの人間も、全て初めは居なかった、だからこんな酷い世界に僕たちを生んでしまった、その贖罪のために君は救おうとしたのではないのですか。結局は諦めるんですか、やはり君は、どっちつかずの半端者なんですか……」

 

 ノアが数回呼吸を深くした。

 

「パンドラも、アダムも、そして僕も……毒殺されました。君の毒で。あの日、アダムを刺し殺した刀に塗ってあったのは七歩蛇の毒なんかじゃない。君が殺したんです」

 

 小林が背に隠した手に刀を握る。ゆっくりと死に近づいていくノアに、彼もまた近づいていく。

 

「ずっとずっと恨んでいます。……君が、かれを食べた時から」

 

 動脈に白い手が触れた。刀が添えられた。小林は笑うでもなく焦るでもなく、ただ一言だけ呟いた。

 

「人間みたいなことを言うんだね」

 

 鹿の白く長い睫が上下した。蛇のような男の刃は、ゆっくりとノアの血脈を侵していく。

 

「ひとでなしの、きみよりずっと、にんげん、みたいにみえるでしょう……?」

 

 刃が引き抜かれた。夥しい量の血液が噴き出し、鉄臭い臭いが蔓延する。何事か、声にならない小さな音を漏らし、それきりノアの瞬きは止まった。最後の始原のフラグメンツは死んだ。多くの人を苦しめた存在がとうとう死んだ。それなのに、誰一人として歓声を上げず、誰一人としてその場を動かなかった。呆気に取られていた。恐ろしかったのだ、得体の知れないこの男が。

 

「……ノアの話を信じるかどうか、それはきみたちが決めて」

 

 小さな掌でノアの大きな瞼を閉じて、小林は投げやりに言い放つ。外套の裾を翻して去ろうとする肩を吉川が引いた。

 

「おい、排歌はどうするんだ!彼奴はお前を信頼してただろ、何て言うつもりだ、お前、彼奴と十年も同じ目標掲げて──」

「三留の『詞』使いを沢山見てきたよ」

「は……?」

「言いにくい事だけどね、彼はもうすぐ死んでしまうんだ」

「そんなの、皆分かって」

「解ってない」

 

 ここで初めて、小林は感情的に吉川を睨み上げた。

 

「解っていないよ、きみたちは」

 

 しかしその感情の色も、呼吸一つで直ぐに消え去ってしまう。諦念が滲んだような、投げやりなその様子は吉川の神経をいやに逆立てさせたようだった。

 

「奇跡のような詞の力の代償は大きい。詞業の使用者はみんな短命だ、排歌がじきに死ぬのは必然なんだ。逸頼が死んだのも、裁花や断丸や刑告のことも、そう作られた世界を俺が維持してきたんだから、死ぬのは当たり前だ。……運命なんだから」

「お前ッ、死ぬって知ってたなら助けてやろうと思わなかったのか、お前の言う『運命』がそんだけ大事なのか、『運命』なら救わなくて良いのかよ……!? 話せ、これから起こること全部ッ!」

「運命だから、見て見ぬふりをするんだよ」

 

 叫ぶ吉川の目を小林はじっと見つめている。運命、運命。佐々木が死ぬなら話す必要は無いのか? それは結果論じゃないのか。小林はちらと野村を見やった。彼女は信じられないものを見つめるように小林の視線を受けとめる。

 

「……随分昔、彼はパンドラの箱を見つけてしまった。それを開けたのは結局俺だったけれど」

 

 なんの脈絡もなく零された言葉は、静かに空を打った。象徴的な言葉が何を指しているのかなんて分からない。今までの全てを裏切った彼の言葉を何処まで信じていいのだろう、何処まで聞けばいいのだろう。視線は吉川に帰る。

 

「きみは箱に残ったものはなんだと思う。エルピス──希望か、期待か予兆か──けれど悪意を持って神から授けられた箱に、人間にとって良いものが入っていたとは俺には思えない」

 

 真っすぐ。信じられない男の言葉は真っすぐ僕らの耳に届くのに、その言葉の意味を教えてはくれない。ただ次に続いた言葉は、何故かやわらかく聞こえた気がした。

 

「ねえ、家に帰りたいと思うのは間違いじゃないと思わないか。見たことの無い世界をいくら望んでも、見知った暖かい場所に帰りたいと思うのは当然だろう。…………俺は、皆のことも彼の言葉も信じていたし愛していたけれど……それだけじゃ、何にもならなかったんだ」

 

 小林は吉川と野村に笑いかけた。細められて歪んだ透明な水色が、確かに二人を捉えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.aeus ex machina  ねえ壊して、愛しているんだ。全てを。跡形もなく、誰も君や僕や皆を見分けられないようにしよう。

                 君なんか嫌いだ。

 

 

 

 

 

「……どうなってやがる」

 

 時刻は深夜。はじめ、異変に気が付いたのはアルデバランだった。頬を血に濡らした彼の声に王たちはそれぞれ顔を上げた。彼らの手足にはべったりと血が纏わりつき、そこら中に獣やスターマンの死体が転がっている。

 

「なんで数が減らねえんだ」

「減るどころかどんどん増えてるよ!」

 

 彼のすぐ横でアルゲディが文句を言う。軽い口調の割にその顔には疲れが滲み始めていた。他の王たちも同じだ。身体の丈夫なスターマンでさえこの有様なのだから、同じく戦場に立つ天児たちの疲れは相当なものだろう。長期戦はスターマンの得意分野とは言え、あまりに長い戦争はすべての生き物たちを疲弊させていた。風が蠢く。竜だ、と誰かが呟く。溜息、咳込み。遠くで誰かが吐いていた。

 

「ペルセウスや極北の星座が直接施設を潰しに行ってんだ、今は耐えるしかない」

「もぉ、どうにかならないかなぁ。いい加減破壊者も諦めればいいのに!」

「戦争の理由も分かんねえような奴らに、戦争が止められるかよ……!」

 

 黄金を掴んで、アルデバランはその腕力でもって槍を投擲した。曇った夜空を裂いた輝きは稲妻のように走り、比較的小さな竜に直撃した。数秒後に地面が揺れる。気だるげに息を吐くアルデバランの顔色は悪い。先日の戦闘でかなり出血したと噂されていたから、まだそれが癒えていないのだろうと予測できた。獣の群れが近づく。束の間の会話も、不気味な鳥たちの歌声で押し流されていってしまう。

 ――戦況は、最悪。まず天児、彼らは残る天柱が六人になった。そのうち一人は衰弱によって戦線離脱、もう一人は反逆罪の扱いとなり、一応戦力として捉えられているものの規格外の事情を抱えていた。灯台守は残り四人。一方、スターマンは星座の四割ほどが既に無くなっていた。辛うじて王だけが残っている状態の星座も少なくない。星たちは統率を失って散り散りになり、はぐれた者から殺されていく。極風によって全体の戦局を見るアケルナルがいなければもっと酷い状態になっていただろう。彼は幾数回にもわたる戦争の功労者だ。彼がいても、こんなにも押されている。

 ぼんやりと考えていると、頬の横を掠めて飛んで行った光の矢が、数メートルのところまで迫っていた巨鳥を貫いた。慌てて振り向くと、真っすぐに切り揃えられた銀髪を揺らす背の高い女性が、左手を此方に伸ばしていた。

 

「まだ見ぬ未来を恐れるな、今は目の前のことにだけ集中していろ」

「は、はい」

 

 返事を待たず、射手座の王ルクバトは結晶で作られた馬に跨って走り去ってゆく。馬上で左手を敵影に向け、添えた右腕を引く。指、弾く。眩い光の群れが生き物のようにフラグメンツに襲い掛かり、肉を食いちぎり骨を砕く。そのすぐ近く、地上、シリウスが衝撃波を放って獣の群れを退ける。一瞥のみで恐怖を与え、たじろぐものを切り捨てる。異様な気配。彼女が飛びのいた地面から木の根が突出し、傍にいたカストルがそれを燃やす。光の向こうに見えたのは、女性の姿をしたフラグメンツだった。顔の半分は黒く塗りつぶされ、大きな瞳と生白い瞼が眼球のようにぽっかりと浮いて見える。スカートの裾は花弁のようで、脚は樹木となって地面に深く食い込んでいる。

 

「ついにお出ましか、看守 "レーヴェ"!」

 

 『レーヴェ』。その名はスターマンの間で広く知られている。始原のフラグメンツには劣るものの、非常に長い年月を生きているフラグメンツだ。何百年もの間、施設の周りを樹の壁で覆い、侵入者を悉く殺害してきた。青の一族によれば優れた頭脳を持ち、侵入者だけでなく逃亡しようとする実験体の捕獲も担っていたという。数百年に一度しか姿を見せないそいつがこの戦争に現れた。――いや、待て。今こいつがここに居て、ならば施設を直接襲いに行ったペルセウス座たちは?

 突如風の中から声が届く。珍しく焦燥の滲むその声はアケルナルのものだ。

 

『すまない、失敗した……!』

「どうした!?」

『ルージャの施設付近でペルセウスたちがやられた! 援護が間に合わなかった……パルダリスが向かっている。相手はスターマン植物型、例の白い毒持ちだ』

「"ギフト"か……!」

 

 『贈り物』、若しくはドイツ語で『毒』。大きく行動範囲を変えたことは無いが、十年以上前から多くのα星が手を焼いているフラグメンツだ。あの熟練のミルファクが敗れたということは、麒麟座でも勝負は五分五分だろう。加えて王であるパルダリスはまだ若く、ひかりも脆く歪だ。

 

『俺も今は手を貸せない。もしかしたら……!』

「くそっ、頼むぜ、勝ってくれよ!」

 

 ここに居るすべてのスターマンがその知らせを受けとって、あの優しかった王と若い娘たちの死を悲しむ。そして今死地に向かう青年たちを思う。

 

「どうしよう、北が死んじゃったら……」

 

 アルゲディの呟きに一番に視線を向けたのは意外なことにシリウスだった。足元にはレーヴェの死体が手折られた花のように転がっている。彼女はアルゲディに歩み寄り、手を差しのべて――胸を結晶で貫いた。悲鳴が上がる。

 

「……テメェ、なんで」

 

 シリウスは眉を顰める。彼女が貫いたのは少女の身体ではない。その背を庇ったアルデバランの身体だった。

 

「アルデバランっ!」

「……庇うだなんて、らしくないわね」

「意外でビックリ、したか……? 光栄だな」

 

 胃か肺に傷が付いたのだろうか、小さく咳をしたくちびるから血飛沫が飛ぶ。アクルックスが急いでアルゲディの腕を引いて遠ざけた。すぐさま立とうとした彼の手足は地に縫い留められ、無理に引き抜こうとする傷口の肉は引き攣り血が溢れ出す。それを無情な瞳でシリウスは見下ろしていた。

 

「私は星脈へ行く」

「何故……」

「決まっているでしょう、壊して力を手に入れるためよ。ひかりを手に入れるほど強くなるのは常識でしょう。だから邪魔をするなら殺すわ」

「アルゲディ、は、なんで」

「反抗しそうだったもの」

 

 恐怖で足が竦んで動けない。シリウスは全天いちのスターマンだ。仲間はここに多くいるけれど、誰もが染みついた恐怖心で動けなくなっている。騒ぎを聞きつけて集まってきた王たちに聞こえるようにシリウスは声を大きくした。

 

「オブザーバーは元々スターマンだ。サンと八の惑星にプルート、これら十のオブザーバーは嘗てスターマンだった。自分の生まれた星脈を食うことで自らを星の故郷とし、星を生み堕とす力を得る。代償に記憶を失うが、ただ一つだけ、信念は残る」

 

 周りに立ち尽くしていた星々をかき分けて、紅のドレスを纏った人物が来る。アンタレスだ。

 

「シリウスっ!」

 

 アンタレスが叫んだ。その目には絶望にも似た色が浮かんでいる。

 よもや正義を司る21煌から裏切り者が出るなど誰にも予想もできなかっただろう。

 東の国で神様を名乗る青年が出てきたように。

 

「まさか其方、観測者になるつもりか……!?」

「ええ」

「観測者になって、何をする」

「世界平和を」

 

 見開かれたアンタレスの目の奥底に悲し気な光が灯った。

 

「力で、恐怖で、全てを支配する」

 

 かたくなな心を和らげられる者は居なかったのだ。彼女は孤独な星だったのだから。

 

「"Fiat justitia, ruat caelum."」

 

 正義を行え。たとえ世界が滅ぶとも。

 

「皆、救われるべきだ」

 

 アルデバランに突き刺さっていた結晶が破裂した。分裂して数を増やした結晶の枝は内側からアルデバランの体の隅々までを突き刺す。跳び込んできたエルナトの太腿を刃が貫通した。シリウスと叫ぶ声があった。誰かが彼女に投げつけた氷の刃を、彼女はいとも容易く払い落としてしまった。瞳ばかりは結晶を生成し始めたアルデバランを見ている。跪いた状態でも、彼は毅然としている。

 

「お前のひかりは何処だ?」

「う、……ッぎ、うあ、あ、っぐ、誰が……いうか」

「強情が招くのは不幸よ」

「それ、でもいい。俺は王だ、……ッ、い、きのびて、まもるのがおれの、」

 

 王、と叫ぶ声があった。エルナトが必死に手を伸ばしている。その目は鮫の形になって、手には光の粒が集まり始めていた。足元を氷が這ってアルデバランを庇おうとした。砕けてしまった。琥珀の棘が波打つ。手の一振りで消し去られてしまう。金髪がさらりと滑る。その向こうから丹色が光って、彼の大事な仲間たちを見つめた。もう手を出すな、と言っているように。

 

「アルデバ、」

 

 アルゲディが手を伸ばしたかけた。瞳の輝きが明滅する。弱まっていく。不滅と謳われたその黄金が、今消えようとしている。止めようとする腕を振り切り、アルゲディが震える足で走りだす。

 

「流石、王家の星はしぶとい」

「いきのびることだけが、俺にできること、だった……」

 

 バツッと音がして、シリウスの片目が黄金に刈り取られる。

 

「ざまあみろ、盲目」

 

 その眼球はアルデバランの結晶に包まれて散り散りに引き裂かれた。医療に長けた蛇使い座にも再生は難しいだろう。刃に滅多刺しにされ、光の塵となりながら、アルデバランは笑った。その瞳が最後に映したのは、彼のちいさな友人の姿だった。瞬きもしなかった。その途切れた光の先で、アルゲディは立ち尽くした。震える手足が恐怖から怒りへと変わるのは一瞬だった。

 

「……っの、裏切り者! アルデバランを殺したな……!」

 

 アルゲディの明るいオレンジ色だった瞳は見る影もなく、銀色の光がその涙で濡れた眼球の中で乱反射して見えた。シリウスはつまらなそうに一瞥する。

 

「復讐のために誰かを殺そうとするなど、破壊者か人間のすることだ」

「私たちだってそうだろ」

「少なくとも私は違う」

「惨めなヤツ……!」

「知った口を利かないで。そもそも先に裏切ったのはアルタイルよ」

「何言って……」

「貴女みたいな臆病者には関係ない話」

 

 衝撃が爆ぜる。後ろへ跳び退いたアルゲディに追撃が迫る。周囲の星々も、フラグメンツも巻き込んで大風が吹き、岩が砕け散る。アクルックスがすぐさま前に歩み出てその背にスターマンたちを守る。

 

「『主は右の手で彼らを覆い、その腕で彼らを守られる』……」

 

 アクルックスが右手を差し伸べた。瞬間地面が波打ち、石の礫が宙に浮く。それらはシリウスから放たれる衝撃波を緩和し、近寄ってくる獣たちの胴を貫き飛び散ってゆく。容赦を捨てたシリウスを前に額に汗を滲ませ、彼は怪我が少なく足の速い僕を見つけると早口に指示を出した。

 

「伝令を、アークトゥルスに、シリウスが裏切ると……」

「はい……!」

 

 後ろ髪を引かれながらも走り出す。視界の端では、まだアルゲディとシリウスの光が激しく明滅していた。

 

 

 

 

 

 走る。騒ぎよりも悲鳴よりも遠く。シリウスが裏切った。彼女を止められるスターマンは多くない。カノープスやアークトゥルス、それからメリディエースの星々。アルタイルでも五分五分。今はっきりと居場所が分かっているのはアケルナルの元にいるアークトゥルスのみだ。傍にはきっとスピカもいるだろう。彼らが来てくれれば怖いものなどないのだ。遠くに三つの光が見える。きっと三人だ。フラグメンツの間を全速力で通り抜け、早口で状況を伝える。震えてしまった声でも彼らはしっかり拾ってくれた。

 

「シリウスが、裏切った……? 私たちを殺そうとしてるって、どうして……?」

 

 スピカの暗い色の瞳に疑心が灯りゆらりと揺れる。それを感じ取ったのか、極風に集中し各地に力を貸していたアケルナルが視線を向けた。

 

「そんなに自分の願いが大事なの? 皆の命よりも、たった一つしかない命よりも、自分の願いが大切なの? だから星帰も簡単に出来てしまうの……?」

 

 明らかにこれまでと様子の違うスピカに恐怖心を覚えてアケルナルたちに視線を送る。傍にいたおおぐま座のメラクも困惑した表情を浮かべている。気を張った様子のアークトゥルスがスピカへと一歩踏み出し、明らかに冷静ではないスピカをなだめるための言葉を掛けようとする。

 

「止めなくちゃ、私が、誰もやらないなら私がシリウスを殺さなくちゃ」

「待ってください、スピカ……」

「邪魔しないで!」

「早計です、彼女にもきっと考えが」

「死んでからじゃ遅いのよ!」

 

 スピカは肩で息をしていた。親友のアークトゥルスの言葉ももう届かなくなっていた。

 

「何もかも遅いの! 私の子たちだって、みんな死んじゃったんだから、もう帰ってこないんだから、お話も出来ないんだから、わた、私のせいなのよ、私が遅かったのよ。全部後回しにして判断を嫌がって、その結果がこれよ、シリウスなんか怖がって、言うこと聞いてばっかりで、何が王よ、何が……」

 

 スピカは落ち着こうとして大きく息を吐いた。そして顔を上げる。

 

「彼女を止められるのは21煌でも上位の人だけ。だから私、あなたの事がずっと羨ましかったの」

「…………でも、スピカ、私たち……」

「──親友。だからって、羨まないでいられる訳じゃないでしょ。……私があなただったら、あなたみたいに勇敢で力もあって、シリウスにだって恐れずにいられたら、あの人のこと止めてたわ。殺してた」

 

 まるで刃物のような視線をアークトゥルスに突きつけ、初めてたった一人の親友に向けて、全天を統べる王としての意思を見せた。彼女の声は既に友へ向けるものではない。同じく正義を求める者として、道を違えた者として、投げつけるためだけの言葉になっていた。募らせた不信が牙を剥く。

 

「悪い事をする人がいるから、いま世界が大変なことになっているんでしょう。そんな人たちは滅ぼすべきよ」

「そういう人にも事情はあるはずです、環境や遺伝や、そういう物事のせいで悪は生まれてしまいます。だから全てを罰するべきではありません。青の一族が言っていたでしょう、フラグメンツだって……」

「諸悪の根源が悪ならば、一体その悪は何処から来たの。突き詰めることなんてできない、だから一度、今一番危険な悪を排除するの。フラグメンツも、破壊者も……そして今は、あなたを」

 

 突然空気が膨張した。アケルナルが急いで僕とメラクの肘を引いた。スピカの発する鋭い光が集約し、長大な白い槍が空気を裂いて顕現する。アークトゥルスは、唇を引き結んで彼女から距離を取った。その左手には既に美しい細身の剣が握られていた。その目つきは未だ迷いの中にあり、親友へ刃を向けることを躊躇しているのは誰の目にも明らかだった。スピカの生成した礫が飛ぶ。弾く。振った剣から放たれた圧が地を砕く。気が動転したメラクがアケルナルの制止を振り切って彼らに近づき叫ぶ。彼の属するおおぐま座はアークトゥルスに助けられたことがある。優しい二人が争う様子を見ていられないのだ。

 

「スピカさん、アークトゥルスさん! 止めてください!」

「メラク、危険ですよ!」

「退いて、メラク。今は邪魔だわ」

 

 メラクの足元に結晶が突き刺さる。メラクは動揺と恐怖で後退り、その場から動けなくなってしまう。

 

「スピカ、貴女のそういう所が間違っているんです。力のないものを退けるべきではありません」

 

 もはやアークトゥルスの言葉は咎めるものへと変化していた。宥めるための言葉ではなく、反対するための言葉へ。この場で彼らを唯一止められる存在であるアケルナルは彼女たちを止めようとしない。

 

「アケルナルさん、貴方も止めてください…! 今スターマン同士で戦っている場合ではありませんよ!」

「……今の私に、彼女たちを止めるほどの力は最早ない。彼女たちを仲裁するより、世界中で今も戦っている仲間たちを助けるほうが大切だ」

 

 大風が吹く。まだフラグメンツは襲い掛かってくる。皆が戦っている。けれど敵はいったい誰なんだ。フラグメンツではないのか。間違っている仲間なのか。何も分からない。何のために戦っているんだ。世界を守ろうと志した末に、殺してしまうのが友なのか。

 目を開けて、アケルナルは二人を見つめた。静かな静かな瞳だった。光が明滅する。

 

「彼女たちもまた、世界のために戦っている。何方が生き残るにせよ、彼女たちは時の流れに身を任せ、ひとつの答えを決定しなければ」

 

 アークトゥルスの片腕が引き千切れて遠くへ吹っ飛んでいく。スピカの槍は決定打が打てずに迷っている。ひかりの在りかが分からないのだ。彼女の槍では一点を突くことしかできない。その殺し合いは数分しか続かなかった。当たり前だ、今まで抑え込み強い言葉を発さずにいただけで、アークトゥルスの実力はスピカよりも遥かに上だったのだから。殺し合いに至って初めて、彼女はその事実を理解したのだ。抑えつけていた彼女だけの意思が初めてスピカへ突きつけられる。

 

「スピカ、貴女はずっと昔、ひかりの場所を教えてくれましたね。だから今、私は貴女を殺せます」

 

 

 

 鮮血がほとばしる。

 剣を握っていた手がスピカの胸を刺す。

 骨ばった手がスピカの心臓を引き摺り出した。

 同時。

 光を纏った手がアークトゥルスの心臓を確かに刺し貫いた。

 背から突き出たその手にはぐしゃぐしゃになった心の臓が握られていた。

 そうして、スピカは──大きく目を見開いた。

 

 

 

「しんぞう……あなたここに、いたの」

 

 

 

 溢れた涙が彼女の目を満たした。大槍も剣も、ひかりとなって消えていく。もうひかりがないのだ。かつての親友の手に、魂が握られているから。彼女たちのひかりはずっと、同じ場所にあったのだ。

 

「しんじてあげられなくて、ごめん」

 

 アークトゥルスは心臓を抱いたまま、唇を震わせたスピカの肩をそっと抱きしめた。

 

「信じられたくなかったんです、貴女と私は親友ですが……」

 

 体が消えていく。光の粒が孤独な二人を中心に渦巻き、蠟燭の火のように揺れる。

 

「近づきすぎると破滅する、そういう星の元に生まれてしまいましたから」

「それでも、しんじたかった」

 

 最後の言葉は雪のように静かで、孤独な言葉だった。ひかる。光が失われて夜空に溶けた。

 そこに残されて立ち尽くした孤独がひとり。

 

「私、信念を貫けて嬉しいです、けれどスピカは死んでしまいました。スピカは私の親友でした、けれど……」

 

 アークトゥルスは笑った、その笑みは決して喜びなどではなかった。どうしようもなくなって、取り合えず顔に浮かべたものがそれだったのだ。

 

「ねえ、言葉にできないから、私……何も遺さないでいきます」

 

 アークトゥルスはそっと目を閉じた。スピカの心臓を握っていたその手を胸に当てた。すると静かな白い光が彼女の胸から溢れ出した。再び開かれた彼女の瞳は光を反射して銀色に輝いている。ふっと息を切るような呆気なさで、彼女のひかりは消滅した。彼女の体も、静かに霧散してしまった。

 呆然としていたメラクが、ちいさく、止められなかった、と呟いた。

 

「他に、何ができた……? 何か、何かあったんだろうけどさぁ、でもさ、あのとき何ができたんだろう……!?」

 

 その叫びは虚空に響いた。力のない僕たちに、できることなんてないのだ。

 

「世界とか、平和とか、そんなもの皆放り捨てて、友達とか家族とか、自分のことを大事にするべきだったのかなぁ、もっと、ねえ、もっと何か、方法があったんじゃないか。あの時何か選べたんじゃないのかな、あそこに居たのが俺じゃなかったら、何か……」

 

 両の手で顔を覆い、彼はひとつの告白を始めた。それは彼の星座に関わる王たちの話だった。

 

「百年前、俺たちおおぐま座はやまねこ座の殆どの星を滅ぼした。ただ意見が少し食い違っていただけで、御者座たちとの架け橋になってくれようとしていたあの子たちを殺したんだ……アルファは、まだ御者座の王に会おうとしないし、山猫の生き残りの二人のことも未だちゃんと見てない。それは全部、俺がアルファに対して身勝手なことを言ったからなんだ、お前がしたいようにしろって、お前が決めたんだから信念のために戦えって!」

 

 どうして言葉を掛けられなかったのだろう。正しい言葉があったら、王たちは耳を傾けてくれたのだろうか。正しい判断さえできれば。無力で無知な僕たちにできることはなかった。

 

「もっと、優しい言葉をあげたら良かった、もっとちゃんと皆の幸せを考えて……なんで初めから、上手くできないんだろう」

 

 それが運命だから。仕方がないんだ。

 

「後悔ばっかだ、そればっかりなんだよ…………百年。百年経っても忘れられないよ、こんなに時が経ったのに、忘れられなくて苦しいよ。嬉しいよ。だから尚更、考えずにはいられないんだよ、あの時、言葉をかけるだけじゃなく、もっと何か別のことができていたら、」

 

 ――本当に?

 はっとしてメラクは顔を上げた。

 

「何か、変えられたんじゃないか」

 

 彼は再び俯いた。

 

「……アルファと御者の王はまだ間に合う。今度こそ止めなきゃならない。このままじゃ同じことが起きる。彼らはまだ、戦わずに済む道があるはずだ」

 

 彼はアケルナルに頭を下げた。

 

「ごめんなさい、俺、行かなくちゃ……」

 

 アケルナルは頷いただけで、そしてほんの少し笑った。メラクは目に涙を浮かべ、身を翻して走り出した。風が彼を導く。アケルナルは極風に乗せていた意識を呼び戻して、目を閉じたまま静かな声で呟いた。いつの間にかフラグメンツの群れは居なくなっていた。静かな風が頬を撫でる。

 

「麒麟座は一時撤退。シリウスは去り、アルデバランとアルゲディ、スピカ、アークトゥルス、ミルファクとその子供たちも……死んでしまった。まさか彼らがこんな終わりを迎えるとは、…………」

 

 顔を上に向けて風の音を聞いていた。閉じていた瞼が開かれて、綺羅と光る瞳が姿を現した。静かな瞳が僕を見下ろす。

 

「哀しいな、皆……ここに静寂を飼っている」

 

 アケルナルは僕の胸に手を置いた。そのまま瞳を伏せて、風を聴くように一呼吸する。

 

「聞こえるか、聴こえるか、お前にはこの世界の拍動が感ぜられるだろうか。世界は胎動している。誰もが身体に巡らす熱と静けさを、呼吸と脈に乗せ、ないているのが聞こえるか?」

 

 とくとくと僕の内側で音が鳴る。僕らの生死を分かつことのない心臓。ひかりさえあれば無くたっていい、肉の塊。僕らは、どうして人の形を得て、はりぼての生命維持装置を抱えて、こころを繋ごうとするのだろう。孤独な星の光。音のない世界でたった一つだけ許されたひかりを大事に握りしめただけの、ただの光の残滓だったはずなのに。

 

「私たちはなぜ生まれたのだろう。また星が還ってゆく。そしていずれ、お前も私も還る。星は星から生まれる。だから私は、帰ろうとする場所に魂を還そう。たとえ、欠片だけになっても」

 

 どうして僕らは孤独なんだろう。触れようとすれば互いを壊し、音も伝わらぬ暗闇の中で、遠くにあるひかりを見つめるだけで。僕らは孤独。星は孤独。でもそうでなくては、美しくなかった。

 

「死は喪失ではなく姿を変えた循環だ──香りを変えた故郷の風を誰もそうとは呼ばず、気づかない──だが決して、それを喪失と呼んではいけない」

 

 もう一度風が吹いた。アケルナルは遠く地平線の夜空を見ていた。朝が来る。静寂。彼もひとりぼっちで、

 

「風はまだ、吹いているかい」

「はい」

「それなら、まだ大丈夫」

 

 ちいさく笑った。身体は光へ。魂は星へ。

 

「さようなら」

 

 ひとの傍に居ようとした、彼も孤独に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.orbis berrae  信じたいものはたくさんあるのに、信じられるものはたったひとつだけ。

 

 

 

 

 

 零れる汗が傷口に沁みて痛かった。背中や手足にこびりついた疲れと、反比例するように冴えていく頭。そして重くなった心が動きを鈍らせていた。冷たい風に触れられて傷が痛む。その繰り返し。近くに転がっている人型の肉塊が仲間のものだったのか敵のものだったのかさえ分からない。岩陰にいる私のすぐ左前、肩で息をしていた葉月は顎に流れた汗を拭って背負った鞘に刀を収めた。綺麗に切り揃えられていた前髪を頬の上で滑らせて、下駄の鼻緒を確認している。

 

「随分伝達が遅れている……流石の調査班にも死者が出始めているのか」

 

 誰に言うでもない呟き。瞬きの後には既に刀を抜いて襲い来た蛇のようなものを切り捨てていた。彼の視線の先、数百メートルの地点には霜月が二メートルもありそうな大太刀で二匹の獣を打ち払っていた。弾け飛んだ肉体から溢れた血が滅多に汚れることのない白い着物の袖を汚す。振りぬかれた刃の先から美しい氷が花開き、背後にいた妖星の手を切り落とす。跳躍、捻る身体、片腕に握る刀に全体重を乗せて振り下ろす。獲物は真っ二つに引き裂かれ、忽ち絶命する。そのすぐ後ろで隊員が死ぬ。片目に映して、悲しみに歪み、また振り返って柄を握る。

 前方。力強く両の腕を振るった葉月の周りで血が弧を描く。左に握っていた刀を一瞬の動きで右と持ち換える。左の刀が肉を裂き、右の刀が骨を砕く。骨折して地に転がる生き物を串刺しにし、跳びかかってきた獣の頭蓋骨を柄の頭で殴る。下駄の歯を一つ鳴らし、軽やかに跳躍。くるりと宙返りして腕を振りぬき、滑らせるように刃を入れ、するりと引き抜く。着地は二歩、しかし僅かに体幹がぶれて見えた。西から押し寄せた群れを中央都市に侵入させないために兄妹の塔主が揃って出てはいるものの、激しい消耗戦にさすがの葉月にも疲れが見え始めている。ここが突破されてしまえばゼペネは確実に崩壊するだろう。

 遠く、森から獣たちが向かってきているのが見えた。

 

「薙丸!」

 

 大きく刀を振っていた霜月が葉月の声に急いで顔を上げた。強張った顔を見て葉月は顔を顰めて厳しく言い捨てた。

 

「集中しろ、余計なことは考えるな」

「はい」 

「お前の弱さは周りを気にしすぎるところだ。犠牲無くして得られぬものをお前は求めない。塔主に付けられる人員が限られている理由は」

「塔主の業に巻き込まれても生き延びなければならないため、そして万が一にも私たちが死亡した場合にその死体を回収しなければならないため」

「そうだ。フラグメンツは己に欠けた星の力を取り戻すために天児やスターマンを食らう。俺たちの死骸を運ぶ隊員にはさらに危険が付きまとう。だから俺たちは簡単に死んではならず、最も優先すべきは己の命でなければならない」

 

 龍の目が地平を睨んだ。そしてふと彼の目は南を見て、ほんの一瞬黒く輝いた。彼は気味が悪いものを見たように眉を顰めて、すぐに霜月の瞳を見つめた。彼の常の冷たく硬質な瞳ではない。どこか熱を抱いて、けれど凪いだ瞳だった。

 

「手を抜くな。例え何を犠牲にしても、奴らはここで討つべきだ。それが俺たちの義務だろう」

「……はい」

 

 霜月は一度閉じた目を開いて走り寄る獣たちを、彼女の同胞だったものたちをじっと見つめた。そして長大だったはずの刀は短く重い刀身へと変化し、彼女の目の前に掲げられた。研ぎ澄まされた空気がその刃の周囲に満ちる。

 

「……氷業」

 

 霜月の放つ冷気が全てを焼いた。周囲を顧みることなく、それらは地上を覆う。嘗ての塔主、川反のように。きっとこれが彼女の本当の姿なのだ。

 

「『灘垂(なだれ)』」

 

 地鳴りがした。突如、巨大な怪物のように押し寄せる氷河。それは地面を削り、空気を引き裂きながら巨竜のように私たちの間すれすれを掠めて流れていく。霜の張り付いた皮膚が切れる。怒涛の波が全ての生き物を呑み込み、すりつぶし、目的地もないままに化け物と化す。白い靄が辺りを包む。空気が揺れる。白い垂れ幕を引き裂いて現れたのは人――ではなく、人間に近い形をしたフラグメンツだった。

 

「妖星っ!」

 

 霜月の声に葉月が素早く反応する。霜月は長い刀で防御の姿勢を取ろうとする。しかし間に合わない。山羊のような形をした後ろ足が彼女の胴を蹴る。嫌な音がした。彼女の部下である水背夏命が間に割り込んで追撃を辛うじて防ぐ。刀を短くして強度を高めた霜月が左手で突きを繰り出し、妖星の首に大きな切り傷を刻んだ。霜月は大きく後ろに跳躍して着地したが、体幹がぶれて右手を地につく。

 

「ッ、ふ」

 

 霜月が大量の血を吐いた。青白い唇を鮮血が彩り、グロテスクな美しさを醸し出している。

 

「どうした!」

「肋、が肺に」

 

 数体の獣を相手取りながら後退してきた葉月がフラグメンツの首を刎ねて止めを刺し、目線だけで霜月の様子を見る。霜月は普段から良いとは言えない顔色を更に青くさせ、静かに呼吸している。このまま防衛に回るか、隊員たちに任せて攻勢を取り続けるか、一瞬の逡巡が葉月の目に浮かぶ。常の葉月ならば有り得ないことだった。彼が指示を出そうと顔を上げた矢先、駆け寄ってきた傷だらけの調査班の隊員が掠れ声で叫んだ。

 

「一時間前、三留に敵襲! 現時点で約半数の死亡を確認……! 野村様と小林様が援護に向かっています!」

「小林、だと」

 

 周囲がざわつき、葉月が思わずといったようにその名前を零す。彼の足元では氷ついた表情の霜月が調査班員を見上げている。前と同じだ、と直感した。以前小林が部下を殺した時と同じシチュエーション。佐々木が生きているうちに到着が間に合ったとしても、小林は彼を殺すかもしれない。肩で息をして黙り込んでいた葉月も同じことを考えていたのだろう。

 

「……今すぐ全員連れて此処を去れ、薙丸」

「裂、雨覚は排歌を殺したりなんてしません、絶対に……!」

「信用ならない。根拠もない。奴は一度部下を殺した。それだけが事実だ。ノアの話もある。……それに、このままお前が此処に居て何が出来る」

「確かにそうです、しかし、此処を離れてしまう訳には……っ!」

 

 納得がいかず、立ちあがって尚も言い縋る霜月に葉月は厳しい表情をする。塔主たちの決定が私たちの命運を左右する。誰も口出しはできない。その間にも千を超える数のフラグメンツが押し寄せてくる。

 

「手負いでは足手纏いだ。行けと言って」

「ノアを信じるのですか!?」

「小林を信じたいのだろう! 小林の無実を信じると言うなら、お前が奴を追わずにどうする! よく聞け、吉川がこの知らせを聞いて動けば、今度こそ小林を殺すかもしれない。奴を庇いたいのなら、お前が無実を証明しろ!」

 

 咆哮。霜月は見開かれた銀色の目で兄を映した。激情だった。合理的で冷静で疑い深く慎重で、確実性のあるものだけを信じ続け、判断時もそれらに重きを置く葉月が、信じたいのなら信じろと、裏切り者でも構わないという。そして自身を心配する霜月にしっかりと目を合わせて、言い聞かせるようにひとつひとつ言葉を発する。

 

「敵は確実に減っている。ここは俺が引き受ける。一匹たりとも逃がしはしない」

 

 薙丸。彼は肩越しに霜月を見た。

 

「兄妹なんだ……信じてくれ」

 

 彼は再び両刀を引き抜いた。同時に霜月は背を向けて走り出す。隊員たちも後に続く。私も後を追って、何となく葉月を振り返る。そこで初めて気がつく。その鍔に鈍く輝くのは、見覚えのある椿の意匠と、百合の意匠。あれは、彼らの。

 

「……こんな時まで信じたくなかった。……兄さん、」

 

 にいさん、もう一度呟く、彼女の鉄色の目にはどんどん涙が溜まっていった。大丈夫です、きっと。そう声を掛けて、けれど彼女の涙は止まらなかった。信じている、だが不安が彼女を苦しめている。夥しい数のフラグメンツを前にしても、塔主が負けることは稀だ。だから大丈夫です、ともう一度繰り返す。霜月は小さく頷いた。彼女はもう振り返らなかった。葉月以外の全員がついてきていることを確認し、傍を走る水背に指示を出す。

 

「なーさん、バリーに連絡を。通信機器は使えますか?」

「すぐに通信できるか分かりません……全地域の電波が弱まっています。何とお伝えを?」

「六式の者たちと合流し、戦力を集めておくようにと。……葉月によって二日後に京沖の内海での中規模の戦闘が予知されました。同時に各班の重要な技術者や学者が狙われる可能性があります。敵が叩こうとするのは今最も重要な機関である化学開発班と看護班でしょう。その地域を重点的に守るようにと。……こんな状況では、調査班の脚と十桜の伝心だけが頼りですね」

 

 急ぎましょうと隊員たちに声を掛け、霜月は龍へと変化し、索敵のために上空へと昇って行った。

 

 

 

 

 

 半日が過ぎた明け方、辺りには焦げ臭さに包まれ始め、みるみるうちに腥い臭いまでもが混ざり始める。人のすすり泣く声に混じって聞こえる叫び声や残党の弱弱しい鳴き声が聞こえた。するりと上空から滑り降りてきた霜月が人型へ戻り、青白い顔色で素早く刀を引き抜き、不似合いなほど鮮やかな花畑を走り抜けて残っていたフラグメンツを切りつける。散った花弁の間を赤い血が舞って落ちる。美しい三留の塔の周りは悲惨な状態で、睡蓮の池は動物の死体で濁り、壁は崩れて窓は割れ、地面には生き物の肉片や衣服の切れ端、毛髪の束が散らばっている。泣き叫ぶ声を聞きつけ、入口の方へと回り込んだ霜月を追うと、そこには大量の血だまりと、数人の隊員に囲まれた見知った青年の顔があった。取り乱して何かを庇うように手を広げる青年――冬北悰逸郎は傍目にも酷く混乱していて、いつも綺麗に整えていた身だしなみも乱れたまま他の隊員たちに何かを訴え続けている。

 

「──違う! 怪物なんかじゃない、過真なんかじゃない! あの子は、」

「悰逸郎くん?」

「な、薙丸さん……!」

 

 冬北は同い年の顔見知りを見つけて安心したのだろう。先ほどまでの異様な迫力は消えて悲しみに濡れた声色が空気を揺らした。そんな彼の珍しい姿に、霜月も顔を強張らせたまま顔を見下ろす。

 

「薙丸さん、みんなっ、みんな死んじゃった……! せ、せんせいも、えいたろうも、みんな死んじゃった……! いなくなっちゃった……」

「……まさか、排歌」

 

 彼が唯一『先生』と呼ぶ存在。それは塔主の佐々木に他ならない。彼が亡くなった。そして灯台守の一人である剣芳までも。霜月の考えていることが冬北にも分かったのだろう。彼は口を噤んでしまった。逆に周りに立っていた隊員たちは不思議そうな顔をしている。佐々木がもしも殺されてしまったなら、小林が近くにいる可能性だってあるのだ。

 

「── 雨覚は!?」

「雨覚さま……? 後始末を西谷くんたちに任せてさっき出て行っちゃいましたよ? まだやることがあるって。野村さまも」

「排歌の死因は」

 

 処理班の神崎が彼らの後ろにあったドアから顔を出す。常に身に着けている白い手袋は血に濡れて、彼が『仕事』をしてきたばかりだというのは容易に予想できた。手袋を脱ぎ捨てて新しいものに換えながら簡潔に状況を共有する。

 

「遺体に刀による傷がありました。……死因はまだ断定されていませんが、ベッドの下に刀が落ちていたそうです」

「雨覚、です、か」

「まだわかりません」

「そうですか、」

「生存者はほとんど確認出来ませんでした。……三留はもう再起不能でしょう。次期塔主さえも失われたのですから」

 

 一瞬躊躇いをみせてから、しかし彼はきっぱりと言い放った。冬北は黙り込んで神崎の爪先を見つめている。霜月は頭を振って、初め彼を囲んでいた隊員たちに尋ねる。

 

「あなた方は此処で何をされていたのですか?」

 

 冬北はその質問に異様なほど反応し、顔を青くして霜月を見上げた。周りの隊員たちは弾かれたように口々に喋り出す。

 

「過真です、過真が現れたんです、ここに!」

「過真が……?」

「はい、頭には翼がたくさん生えていて、人間の胴があり、下半身は鯱のような姿だったんです!」

「私たちは戦おうとしたんです、でも冬北がそいつを庇いだして……! こんな戦場に出てくるなんて何か意味があるかもしれないのに! もしかしたら佐々木さまが亡くなられたのはそいつのせいかもしれないのに、」

「ち、違う! あの子は俺の後輩だったんだ!」

「冬北くんは混乱してるんですよ! 友達も佐々木さまも亡くなったから。じゃなきゃ怪物が隊員に見えるわけ――」

「皆さん落ち着いて、大丈夫ですから。過真は滅多に生き物に干渉しません。この戦いや隊員たちとは無関係です。今為すべきことは、いち早くこの場を持ち直し、傷を癒して身の安全を守ることです。貴方たちは神崎くんのお手伝いをお願いします。悰逸郎くんはまず看護班の元へ。ひどい怪我ですよ」

 

 まだ何か言いたげな双方を宥めようとする霜月の声を遮るように、重いドアが開く音がした。現れたのは布が積み上げられた大きな籠を抱えた滝沢火群だった。彼女は疲れた顔で入口を塞ぐ隊員たちを睨みつけ、霜月と冬北の顔を見て口を開いた。

 

「君たち、あっちに行ってなさい。霜月さまには治療が必要。邪魔をしない。凉、こっち来て冬北くん見てやって!」

 

 厳しい目線に震えあがった隊員たちが足早に去っていき、遠くからやや間延びした男の応じる声が聞こえてきた。冬北は小さな声で霜月に礼を言って館内へと入っていく。滝沢は霜月の手を取ると意識を集中させるように目を閉じ、再び開いて、声を掛けてから霜月の胴に触れる。霜月は黙り込んだまま、滝沢の手をじっと見つめている。兄を亡くした滝沢は、努めて優しい声を掛けたように思われた。

 

「骨が折れたのね……戻せば自分で治癒できるかしら」

「なんとか……」

「あとは裂傷ね。こっちは塞げるから安心して」

「…………」

「痛むかもしれないけど少しの我慢よ。すぐに楽になるわ」

「火群さん、私……」

「……ん?」

「雨覚を殺さなければいけないかもしれません。もし、雨覚が何かの目的のために排歌を殺していたら、……」

「…………死因は断定されていないと言っていたでしょう。元々、身体が弱り始めていたの。病気でもない、何か悪いことがあった訳でもない……けれど彼が戦う度にあれは悪化した」

 

 遺体の傍に刀が落ちていたと、それはもう殆ど答えと言っても過言ではなかっただろう。霜月は小林の殺人を確信し始めているようだった。暗い表情で地面を見つめている。葉月に願い出た、小林を信じると言った言葉が揺らぎ始めている。何のためにあの戦場へ兄一人を置いてきたのか。何かを変えたくて走ってきたのに、何も変えることができないまま、小林は疑われ続け、疑心はどんどん強くなっていく。霜月の顔色が変わらないのを見て、滝沢は細く息を吐いて遠くの庭を見つめた。

 

「高杉先生が詞をこれ以上使うなと彼に言ったの。恐らくあれが最も危険なものだった。奇跡を起こすことは人間には酷く難しい──いえ、不可能なことで、けれど彼はやって見せた。…………彼の部屋にちいさな庭があったらしいの、別の空間が──新しい世界をつくるなんて芸当を、少なくとも創れるという可能性を、彼は示してしまった」

 

 朝日が今日も変わらず花々を温め、蝶がはたはたと飛んでいく。

 

「美しい庭だった、って。空は青くて草花は鮮やかで、せせらぎと鳥の歌が聞こえて。──きっと彼、楽園が欲しかったのね。全てのための、永遠の楽園」

 

 優しい佐々木はすべてを救いたがっていた。友も、部下も、人間もスターマンたちも、そしてフラグメンツでさえも。小林の裏切りを知った時でさえ彼は静かに笑って見せただけだったのだ。遠い昔の出来事を守り続けていたいと思う気持ちはよくわかる、彼はそう言っていた。

 霜月は寂しそうな顔をしていた。最年少である彼女の面倒をよく見てくれた二人の年長を慕っていたのだ、どうして今だ未熟な彼女がたった一人でこの状況と向き合い双方の和解への道を探さなければならなかったのか。これが彼女の運命なのか。

 切れた呼吸音が近づいてくる。死を予告する烏のように、黒い影が走り寄り、嗄れた声で鳴き叫ぶ。ここ数か月のうちに、死の運び手となった調査班の声だ。

 

「緊急伝達! 調査班班長、雪後琳より緊急伝達……!」

 

 かつては勝利を告げた声が、今では死を叫ぶ。彼らは恐れられる存在にさえなりつつあった。霜月は疲れ切ったように無表情で、何も言わずに顔を上げた。滝沢は心配そうに彼女の視線の先を追う。

 

「十桜塔主、葉月裂さまがフラグメンツ約2000体を討伐し…………殉職されました……」

「………………」

「あの地域から抜け出たものは居ません」

 

 どくりと、心臓が止まったような気がした。死んでしまった。死んでしまった。ゼペネいちの武勇を誇った男が死んでしまった。私は昨晩、霜月に何と声を掛けただろう。無責任にも、葉月は生き残れるだろうと、彼女を勇気づけようとしたのではなかったか。

 

「薙丸、……落ち着いて」

「大丈夫、冷静です、分かっていました、兄が使ったのはあの空間の全ての魂を肉体から引き剥がす涯業で、死ぬこともあります。元より兄もそのつもりでした。ただ……」

 

 掛けられる言葉も見つからず、私は後悔のなかで立ちすくみ、滝沢は必死に言葉を探している。聡明な若すぎる塔主だけが現実を見つめて凍えるような息で肺を揺らした。兄と姉が去り、たった一人残っていた兄も死んでしまった。彼女はついに一人ぼっちになってしまったのだった。

 

「ただ、悲しくて」

 

 彼女は微笑んだ。氷の小さな粒が、彼女の青白い頬を転がり落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.verbam  Et arma et verba vulnerant.

      (武器も言葉も人を傷つける。)

 

 

 

 

 

 死なないで、と誰かが叫んでいた。私はそれを、地面に伏したままで聞いている。削がれた脚の肉からは絶え間なく血が流れ続け、立ちあがることは困難だ。すぐそばに誰かが立っている。上品で美しいひかりの女性だ。治癒が進んで霞が取れてきた視界に映ったのは、ケンタウルス座の王、リギルの静かな顔だった。

 

「生きているか?」

「は……い」

 

 嘔吐して傷んだ喉から出たのは酷く荒れた返事だった。彼女は私の声を拾い上げて、優しく笑った。痛みと苦しさに自然と流れ出した一粒の涙を見て、彼女はゆっくりと額を撫でてくれる。彼女の頬にもどす黒い血が流れていた。

 

「気をしっかり持つことだよ。絶望してはいけない。君はまだ立ちあがれる。君のひかりはまだ美しいままだよ、何処までも逃げておいで。もう戦わずとも良い。兎に角、生を諦めないことだ」

「はい……」

「激情を胸に、なんてタイプじゃないけれど……それでも確かに、心が力になることもある」

 

 徐々に鮮明になっていく感覚器官が、ここがまだ戦場の真ん中であることを知らせてくる。煙の臭い、血の鉄臭さ、そして涙が出るほど美しい、星の終わりの予感。そんなものでここは満ちている。リギルは殺意に顔を上げ、翳した右手に握っていた剣で飛来した結晶を弾き飛ばした。――徐々に思い出す。シリウス。そう、あの恐ろしい光が私たちを呑み込んで散り散りに引き裂いたのだ。巻き込まれた数多の名もない星は一瞬にして消え失せ、こうして運よく王の近くにいた者は辛うじて救われた。

 

「シリウス……」

 

 悲し気な瞳で見つめる先には、いまだに周囲の生き物全てを殺し続けているシリウスと、もう一人――民族的な衣装を纏った背の高い女性が戦っていた。身を低く屈めた女性は獣よりも速く疾駆し、シリウスの間合いの内側に潜り込み、強烈な蹴りを食らわせる。回避が間に合わないと判断したシリウスは薄い結晶の膜を瞬時に構築して直撃を避け、隙の出た女性に鋭い破片を向ける。

 

「コル·カロリ! 援護する!」

 

 リギルの右腕から放たれた光は瞬く間に優美な短剣の群れへと姿を変え、二人の間へ飛んで行く。僅かに上体を反らした女性の目の前まで迫っていたシリウスの攻撃は、衝突したリギルの結晶によって軌道が逸れ、激しく明滅した後に霧のように消える。

 

「感謝する」

 

 しなやかな獣の動きで後退してきたコル·カロリ――猟犬座の王は唸るような静けさで礼を言う。彼女の美しい色彩のスカートは血で汚れていた。すん、と鼻を鳴らした彼女は忌々し気に呟く。リギルは黙ってシリウスを見つめたまま、小さく口を開いた。

 

「どうしたの」

「アクルックスの血だ。シリウスの奴、とうとうメリディエースまで手に掛けた。アクルックスは一歩も退かずに戦ったよ、まったく勇敢な奴だ……」

 

 衝撃波。唸る声が聞こえて、コル·カロリが防御のための壁を構築したのが分かった。彼女は急いで私の半身を起こし、脚を確認した。

 

「走れるか」

「た、多分……」

「時間を稼ぐ。リギルの星が守っている者たちと合流して逃げろ。フラグメンツに会っても戦うな。南西の方角に行けば敵も少なくなる」

「はい、……はい」

「いい子だ。……忘れるな、心を。それが無くてはひかりは燃えない」

 

 涙が溢れ出した。頷いた私の背を二人のうちの何方かが強く押し出した。殆ど同時、コル·カロリの周囲に強力な磁場が発生して近くの金属類を引き寄せだした。走れ! 離れた場所にリギルの仲間であるハダルやメンケントが見える。彼らもボロボロだ。名もない星々を守りながら、少しでもシリウスを弱らせようと必死に戦っている。もう少しで合流できる、と少し気を緩めてしまった。ハダルの後ろにいた青年が内側から弾け飛ぶようにして大量の放射線を振りまきながら破裂した。その胸元にはシリウスのひかりの結晶が突き刺さっている。星の死。驚いて振り向こうとしたハダルと死んだ青年の間に身を滑り込ませたのはメンケントだった。ポルックスによく似ていた銀髪が揺れて、強烈なガンマ線を浴びた青年は絶叫した。

 

「逃げられると思うな」

「メンケント!」

 

 シリウスの冷酷な声を引き裂くようにしてリギルの悲痛な声が聞こえた。庇われたハダルは目を見開いて硬直している。その隙を逃すシリウスではない。瞬く間に空を覆いつくした槍のうちの一本がハダルの胴を貫通して、真っ赤な血が噴き出した。リギルが急いで駆け寄り、槍を抜いて止血を試みる。メンケントはひどい火傷を負っている。このままではひかりが消えて死んでしまうだろうが、リギルにはどうしようもない。彼らを見たコル·カロリがシリウスの前に立ちはだかり、姿勢を低くして唸る。

 

「愚かなシリウス……いま殺してやる」

「犬ごときが煩いわ」

 

 鉄くずで生み出された巨大な竜のような物がシリウスに襲い掛かる。辛うじて足止めはできているが、力が拮抗していて攻めの一手はない。リギルの傍に行ってハダルの様子を見れば、流石21煌に名を連ねるだけあって再生は驚くべき速さで進んでいた。リギルが立ちあがる。弾き飛ばされたコル·カロリが血と泥に塗れながら地のすれすれを駆け抜け、骨が折れても向かっていく。リギルの叩きこんだ結晶が、逆に嵐となって彼女を襲う。新しい結晶を生み出し、燃え盛る炎でもって凌駕する。いつの間にかその髪と瞳は真っ赤に変色していた。彼女が持つ三つの姿のうち今まで一度も見せたことのない、暴力的な力が渦巻いている。うつ伏せに倒れ込んでいたハダルが必死の様相で血飛沫を吐きながら叫んだ。声は何ものにも遮られずに真っすぐリギルへ届く。

 

「トリマン! 呼んでくれ、君の願いを叶えるから!」

 

 赤い髪がゆらりと揺れた。上品に切り揃えられていた前髪は宙に揺蕩い、冷たい額と鋭い瞳が真っ直ぐに彼らを見つめる。メンケントは叫ぶ力さえ無くしてただじっと、リギルを見つめていた。焼けた唇が『トリマン』と囁く。帰るのだ。王の元に。そして彼女の義を果たすのだ。ずっと、彼らはそうしたかった。

 けれど。

 

「私には、お前たちの名前を呼べないよ」

 

 髪の色は紅から透き通るような青色へと変化した。普段の彼女が司るのは『叡智』の姿だとされている。残る一つは。メンケントの目尻から涙がこぼれ落ちた。

 

「トリマン!」

「ハダル、シータ、どうか生き延びてくれ」

 

 もうお別れ。

 メンケントは立ち上がった。彼の顔に苦痛はない。

 リギルは三つの姿を持っていた。一つは叡智、一つは暴力。そして最後は苦痛。その三種を人に与え、そして受け取るのが彼女の本来の力だった。

 

「私はお前たちを愛してるよ」

 

 燃えるような赤い炎がメンケントを包み込んで、大きな生き物のように蠢いてシリウスへと向かっていった。

 リギルは地面に蹲り、苦しみで身体を震わせていた。みるみるうちに、服の裾から覗く肌が爛れていく。

 ハダルは身体を起こして、私の目をじっと見つめた。涙で濡れた視線はあまりにもリギルに似すぎていた。彼の手は私の背を押した。そこであの一瞬、私の背を押したのがリギルだったと気づいた。優しくて、燃えるような熱が布越しに沁みる。

 

「逃げろ」

 

 彼の直ぐ隣で、光の粒がとけていく。リギルの身体が消えていく。星が死んでいく。ハダルの目からもう一粒、涙が零れ落ちる瞬間、私は彼らに背を向けて走り出していた。走って、走って、その先でどうしたら良いんだろう。もしもほんの少しの名もない星たちだけがこの世に残ったら、私たちはフラグメンツに対抗できるんだろうか。本当に逃げるのが正解なんだろうか? 私にも救える命が、もしかしたらあるかもしれないのに?

 ふと見た草陰に倒れているスターマンの脚が見えた。周囲にはフラグメンツが大勢いる。きっとこの人物はとても強いひかりの持ち主なのだろう。食べられてしまえばフラグメンツはますます強くなってしまう。守らなくては、この人を、皆を。フラグメンツの群れを搔い潜って、できるかぎり攻撃を仕掛ける。駆け寄って顔を覗き込むと、この人物が天秤座の王キファであると分かった。端正な頬は血で濡れ、無感動に伏せられた瞼は無機物的に白い。慌てて胸に耳を押し当てる。

 

「音が……」

 

 もはや、と思った瞬間、ぴくりと彼の腕が動く。私の後ろに迫っていた影がずたずたに裂けて落ちる。

 

「心配するな、僕は心臓を無くしてしまったんだ。──とっくの昔に……」

 

 キファは静かに目だけを開いて私に語りかける。倒れ伏してなお戦い続け、同時に最小限の再生を試みている。

 

「動けるうちにここから離れた方がいい。じきに僕も立てるようになる。それまでは加減が効かないから、傍にいると危ないよ……彼処に、アルタイルがいるのが見えるかい。そこまで行くんだ。大丈夫、きっと彼が導いてくれる」

 

 彼がよろよろと挙げた手の指さす方向で、銀色の光が煌々と輝いている。そのすぐ傍にはフォーマルハウトの赤い光も見える。誰が生きていて誰が死んでしまったのかも分からなくなるほど混乱した戦場で、その光は希望にさえ見えた。思わずぼんやりと眺めてしまった私に向けて、キファは苦く笑ったような気がした。

 

「彼を信じてあげてくれ。ずっとひとりなんだ」

 

 行って、という言葉と共に彼から放たれた鋭い光が獣の爪のように地面とフラグメンツを引き裂いていく。アルタイルたちとの距離はそう離れてはいない。しかし彼らは私の存在にまだ気づいていないようだ。徐々に彼らの声が聞こえだす。アルタイルとフォーマルハウトは互いに向き合って立っている。こちらからはアルタイルの表情は伺えない。共に戦っていたはずなのに、二人の間の空気は嫌に緊張して、フォーマルハウトの目は鋭くアルタイルを睨みつけているようだった。

 

「『無知であればあるほど、お前は守られる。だがその代わり、お前は何も守れなくなる』。覚えてるよな、昔、お前が俺に言った言葉だ」

「…………」

「俺はあの後よく考えた。俺の過ちをお前は見抜いていた。なぜ見抜かれたのか、何故あの日、俺は失敗したのか」

 

 二人は私に気づかない。アルタイルが組んでいた片腕を挙げてひらりと振る。彼の周りに漂っていた銀色の炎もその動きに合わせて揺らめいた。

 

「……俺は、お前と違って無知になろうとした。何もかも忘れて、ただ、愚鈍でいようと思っていた。そうすれば俺は自由で、ただただ孤独で滑稽な一羽の鷲で、あるべき姿でいられたからだ。王としての責任もなく、憧憬も抱かれず、誰にもみられず、俺はただ……ただ、無でいたかった」

 

 らしくないほど静かな声に驚いたのは私だけではなかったようだ。僅かに目を見開いたフォーマルハウトは、けれど何も言わずに口を引き結んで言葉の続きを待っている。

 

「俺は正義の21煌だ……だが別に、正しいことをしたかったんじゃない。愛するひとの血が、父や母の血が、今もどこかで生きていて、流れ、愛するひとを生かし続けているんだと、信じていたかっただけだ」

 

 血脈を最も重んじていたアルタイルの一族は、純血であるだけあって確かに途轍もない力を秘めていた。私を含めた多くの星は、力を保持し続けたいがために頑なに血を守っているのだと考えていた。けれどそれは真実ではなかったのだ。全てが無や星に帰るという考えが浸透したスターマンの中で、彼だけは、自分の愛した者たちが血によって受け継がれることに喜びと寂しさを感じていたのだ。それでも受け継がれていく星の欠片と、星脈ではなく血脈によって結ばれた確かなひかりの繋がりを愛せずにはいられなかったのだ。

 

「でもそんな君が、星脈も、血脈までも、全てを星に帰してやり直そうだなんて、随分乱暴じゃないか。妻は? 子供たちは? どうするつもりなんだ、君の身勝手な行動で、君の愛したものが全て無くなってしまうんだよ」

「いつか必ず無くなっちまうから、だからやり直したって同じだろ。全部無くしても、また愛せばいいだろう。この戦争に終わりがあるかどうかなんて知らねえ、でも何度でもやり直せるなら本望だ。例え俺に記憶が無くても」

「――君に殺された人たちが、また生まれてくるなんて、本気で信じてるのか」

「ああ」

「今まで同じスターマンが生まれてきた例は無い。何処にも。それでも、」

「あるさ」

「…………」

「この世界は何度も繰り返してるんだろ。それなら必ず戻ってきてくれる。……そうだろ?」

「……有り得ない」

「…………」

「有り得ないよ、アルタイル。君も全てを忘れてしまうんだ、そうしたら、次に生まれてくる君は果たして君と言えるのか。君の愛するものたちは、本当に彼らなのか。何一つ忘れてしまうことなく生き続けられるのは、観測者や、始原のフラグメンツや、そんな神みたいな――」

 

 フォーマルハウトはそれ以上何も言わなかった。星脈を食らって神になろうとしたシリウス。大勢を殺して星脈に力を戻そうとしたアルタイル。手段は違っても、彼らの行く末は同じなのだと、彼は気づいてしまったのだ。そしてそれは彼だけではない。多くの星々が、王が、心の底に蔓延った諦念の中で、無責任にも生きていてほしいと願うから、星になった死者にもう一度会いたいから、その最後の灯のようにちいさなひかりを繋いで大きな炎になりたいと願っている。

 私たちは、どうしようもなく孤独で、光だけが私たちを繋いでいたから。

 

 

 

 地平線の向こうから、見渡す限りの地上から、空へ向けてひかりが掲げられる。星が帰っていく。

 淡い光も、鮮烈な輝きも。息を飲むほどの静寂の中で、王の元へと集っていく。

 獣たちも、スターマンに似たフラグメンツたちも、祈るように静かに光の群れを見上げていた。

 「やめてくれ」男が呟いた。それのちいさな響きは絶望にも似て、真っ暗な穴に落とされた小石のように空虚だ。

 草原の向こうで、魚座の挙げた左手にひかりが泳いでいく。

 崖の上、射手座の身体は弓矢そのものになり、血飛沫のようにフラグメンツに降り注いだ。

 おおぐま座の輝きは嵐のような結晶の渦になり、やまねこ座を包み隠した。

 蛇遣座は静かな雨に姿を変え、星々の傷を癒した。

 捧げられた数えきれないほどの祈りと、願い。それは巨大ないきものの拍動のように脈打って、地上を覆った。

 

 

 

「やめてくれ、みんな」

 

 フォーマルハウトは揺れる草原の波に揺られながらもう一度呟いた。彼のなかに生まれた切実な願いが、彼の赤い瞳を最も美しく輝かせた。けれど多くの願いの前に立ちふさがるための力が彼にはなく、また応えてくれる星たちもいないのだった。

 

「孤独なお前に、願う気持ちが分かるもんか」

 

 アルタイルは嗤って、光の群れの中に泳いでいるだろう、彼の子供たちのことを慈しむように笑った。

 

「次もまた、俺のところに生まれておいで」

 

 それもまた、様々なものに押しつぶされた彼のちいさな祈りだった。アルタイルは帰る場所も名もない私たちを見て、光のない暗闇の方角を指した。

 

「お前たちは逃げな」

 

 私は首を振った。

 

「……じゃあ、俺の友達か……スハイルに。アル·スハイル·アル·ワズンに会ったら、伝えてくれないか」

 

 彼の妻に何を伝えろと言うのだろう、既に死ぬ覚悟を決めた男の言葉を、果たして上手く伝えられるだろうか。

 

「許してくれないかって、さ……」

 

 嗚呼、と彼は吐息だけで笑った。左手で、その美しい金の髪を掻き混ぜた。俯いて、呆れたように、彼は笑っていた。聞いたことも無いような声色だった。21煌として恐れられ、信じられてきた男の声とは思えない、静かすぎる声だった。唯一開いた左目を伏せて、アルタイルは静かにその言葉を零した。そうして全てのスイッチを切るように、彼は両目を閉じた。

 

「"SWITCH"」

 

 目が開く。その真っ赤な両の眼には白銀の火の粉。彼の呼吸に合わせて収斂し、発散する光の粒、銀の刃となって風を切り、渦をまく、線香花火。燃えているのに静かな、銀の瞳が私を見た。目の合う瞬間、弾かれたように、私は走り出していた。最低だ。下劣な奴だ。私はいつも逃げ出した。力がないことを理由に、私はいつも逃げていた。まさに今のように、紅の光に見つめられて逃げ出したのは決して今日が初めてではないのだと、どこかで直感していた。

 走った。時々転んだ、横目に見た戦場は炎と煙に包まれている。

 シリウスたちの戦っていた方角を見る。コル·カロリの右脚が吹っ飛んだ。地面に倒れながら、作り出した大きな刃を我武者羅に投げつける。彼女は未だ戦っている。

 

「約束ッ、したんだ、シリウス、お前と……!」

「覚えがないわ」

「前のお前だよ、アンカアと、さんにんで、ッ!」

 

 シリウスが彼女の左大腿を刺し潰した。そしていとも容易く抜いた。杭の返しによって肉ごと引き抜かれ、血が溢れ出す。耳を塞ぎたくなるような絶叫が辺りに木霊しても、叫びに慣れすぎた戦場では誰も気づかない。ただ、どこか遠くから大きな炎の鳥が飛んできているのが見えた。

 

「ひかりの場所を教えれば楽にしてあげる。早くしないと全身粉々になるわよ。貴女は特に頑丈だから……」

「──もしお前が、何かをあやまりそうになっていたら、さんにんのうちの、だれかが、間違いをおかしたら、殺してやるんだって!」

「……何の話」

「忘れたか、忘れたよな、おまえはもうお前じゃない。シリウスはっ、死んだ……!」

「その名を口にするな」

「じゃあ、彼女をかえしてくれ、そして、おまえのほんとうの、」

 

 もう彼らが何を話しているのか分からない。けれど。

 

「なまえ、おしえてくれよ」

 

 けれど辛うじて、彼女の言葉にシリウスが目を見開いたのだけははっきりと分かった。

 

「おうでも、なかまでもなくて、ともだちとして、……ただ、おまえとはなしがしたかったんだ」

 

 炎の鳥が、シリウスを焼き尽くし、その目から隠すように伏せる猟犬の前に降り立った。炎が揺らめき、姿を現したのはほうおう座の王アンカアだった。永遠と謳われた彼女のひかりももう消えかかっている。かつて旧友だった三人の王が数百年の時を越えて再び出会った。

 

「コル·カロリ、勇敢な友。この永い一生の中に貴女がいて良かった」

 

 コル·カロリは伏せたまま笑った。アンカアも微笑んだ。彼女の美しい唇から鮮血が溢れ出して、顎も胸もしとどに濡らした。胸から突き出た結晶の刃が背へと続いて血を滴らせている。それは背から下へと続き、握る青白い左手がある。焼けただれたシリウスの顔は、瞳は、それでもまだ美しかった。

 

「すまない、シリウス。こうでもしなければ貴女は死なない」

 

 アンカアは左手を地面に向けた。地から突き出した二つの鋭い赤がシリウスの喉元から顎を、そして右手のひらを貫いた。シリウスは目を見開いて、それきり動かなくなった。

 

「神が星座についたけれど、今更、私たちは神に戻れはしないよ」

 

 アンカアは寂しそうに笑った。遠い東の空が薄らと明るくなる。彼女たちの頬を照らし、白々しい輝きで温めた。いつの間にか戦場は静まり返っている。フラグメンツの姿も、星の光も見えない。両手を見ると、既に砂のように崩れていた。私も、周りの星々も。そして三人の王の身体も、静かに燃えていた。

 

「星座、星の御座、勝手に闇に掲げられ、王となる運命に私たちは死ぬ……」

 

 ざあっと、風が草原を撫でた。

 静かな、朝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.oculls  例えば一瞬の間のような些細な違いが、貴方は変わってしまった、と私に言うのだろう。

       見えるもの全てが真実ではない。その両の目のどちらかが不必要なこともある。

 

 

 

 

 

「霜月さんが殺されたって、聞いたか」

「……死因は大量失血と凍傷だって。能力で自分の身すら滅ぼすなんて、塔主ってのは案外脆いのかもしれないな……」

 

 男がジャケットを叩くと、隊服に染みついた煙草の臭いが鼻を掠めた。真夜中だ。夜空は異様に晴れていて、恐ろしいくらい明るい星たちが私たちを見下ろしている。ぞっとして目を逸らす。男はそんな私を訝しんだが、結局何も言わなかった。

 

「夢屋が襲われたせいで高杉先生も前の塔主たちも亡くなられて、今の塔主もあと何人生きてるんだか分からない。何にもねえ、ゼペネはお終いだ」

 

 俯いた私を一瞥した後、男はポケットからシガレットケースを取り出しながらどこか遠い場所を見た。守庭は他の地域に比べて自然が豊かだ。無機質なコンクリートの町は少なく、開けた草原も多い。そんな背の高い草花の間を風のようにかき分けて進む真っ黒な影がある。

 

「ありゃ調査班の班長だな。生きてたか、流石だ……」

 

  雪後は私たちに気づく様子もなく、まっすぐ西の方へと走り去ってしまった。草花の先を赤く染めながら。塔主は殆ど死んでしまった。灯台守ももういない。ノアの言うように、全員が死んでしまう運命なら、私たちが精一杯生きてきた意味はいったいどこにあるのだろう。奇跡的な確率で天児はこの世に生を受ける。そんなたったの数パーセントの確立と、百パーセントの死亡率。本当に、いったいどうして、この世界の輪廻の隙間に埋め込まれた脇役である私たちは此処に座り込んでいるんだろう。

 

「生まれてこなきゃ良かったのに、俺たち……作らないでほしかったよな、苦しめるためだけに生み出すくらいなら。観測者がスターマンを創る理由も、天児が世界に生まれちまった理由も、結局誰にも分かんねえんだもんな」

 

 世界屈指の考古学班でも、解き明かすことはできなかった世界の不思議。運命と呼ぶにふさわしい、激動の数年間。何もかもが突然に動きすぎていた。一年のうちに世界は変わりすぎていたのだ。人間にその変化は耐えがたいものだった。

 

「神を信じたって救っちゃくれねぇよ。星に願ったって叶うわけねぇだろ。そんな事ができるんだったら誰も不幸になってねぇ」

 

 彼の指がライターを弄って、火を灯す。夜の闇を橙色の熱が温める。

 

「……ああ、ああ、結局俺みたいなやつが戦争のキッカケになるんだな。言ってたじゃねぇか、佐々木さんもよ。武器だろうが言葉だろうが、人を傷つけんのは簡単だって。殺せちまうんだって。やな世の中だ。何やんなくても死んじまうが、何やったって死んじまう。俺たちゃどうすりゃ良いんだよ」

 

 誰か教えてくれないか。言葉でも武器でもなく、呼吸でも瞳でもなく、衝撃でも静寂でもなく、そういう美しくも醜くもないもので俺たちに全てを教えてくれ。

 俺たちはどうすればいい。

 信じるべきか、或いは疑うべきか。

 願うべきか、或いは黙り込んで、己の無力さを嘆き悲しみ夜の苦しい温みの中で、自分が主人公でも登場人物でもなく物語すら持たないことを叫びに乗せて、そうして何十年という絶望的な歳を経て死ぬべきなのだろうか。歳をとれば何か分かるか? 果たして死ぬときまでに答えが見つかるだろうか? 老いぼれて歳をとったことを嘆かないと言えるか? 死の間際に良い人生だとか考えて、これが死だと納得するのは諦めでは無いのか? 思考を止めるな、眠る瞬間まで。飛び立つ瞬間まで地上を忘れるな。

 

「言葉を信じてりゃ、いつかは世界は幸せになるって、そういう教えだったかな」

 

 煙草に火をつけた。二指で支えて手のひらで顔を覆う。吐き出した煙が瞳に沁みた。昔、男にとって神さまだった人が、同じように吸っていた。

 

 

 

 

 

 男と別れ、一人きりで浅い草原を歩いている。この分ではもうじきに戦争は終わるだろう。しかし喜べるほどの気力はどこにもない。これからどうすればいいんだろう。繰り返されていた一定期間の輪廻が本当に存在するのなら、今生きている世界はあと何年続くのだろう。不安ばかりが胸を占めている。何とはなしに吐いた息は白く、そこでやっと冬になっていることに気づいた。そういえばこの間初雪が降っていたっけ。誰が生き残っているかな、友達は死んでいないだろうか。いや、こんなことを考えたって意味なんてないだろうか。どうせ何もかも無くなってしまうのだし。

 そう取り留めもなく考えながら歩いていたら、ふと前方に人影があることに気が付いた。隊服にしては白い。そして薄らと赤黒い。いつの間にか宙を満たしていた薄い霧が足元に纏わりついていた。影はどんどん近づいてくる。戦う姿勢を取って待ち構えていると、ついに霧が裂けて影は姿を現した。白い頭部。小さい身体。そこでほっとして肩の力が抜けた。犯罪者とは言え彼も戦いに尽力した者の一人なのだ。小林雨覚。血に塗れてはいるが、まだ生きていた!

 

「小林さま……!」

「……おはよう」

「あ、えっ? えと、おはようございます」

 

 ちいさく笑って、彼は未だ星の残る薄暗い空を見上げた。よく見ると、頬に火傷を負っている。けれど彼は場違いにも晴れ晴れとした顔で笑っている。あまりに多くの友人を失って気でも違ってしまったのだろうか、それともあの噂通り、すべてが終わりに向かっている現状が彼の望みだったのか?

 

「今日はいい天気になりそうだ。この霧もじきに晴れる」

 

 この混乱した戦場でも彼の瞳は、その光を失ってはいなかった。流石は塔主と言うべきか、彼は真っ直ぐ前を向いて、けれど散歩でもするかのような気楽さで、朝霧に沈むように山のある方角へと歩いていってしまった。

 いったい、彼は何処へ?

 ──ふと、私の目が、自然、彼が引き連れていた血の軌跡を辿った。長く、真っ直ぐに続く一筋。少しづつ広がっていく赤。目線を上げてゆく。予感。どくどくと心臓が鳴る。そう、これは予感だ。心臓が勝手に心拍数を増やしていく、どくどく、毒々、錆と赤。肺にこびり付く焦燥。見てはいけない気がした。私とすれ違い、真っ直ぐ歩いていた小林。彼を彩った赤色は、思うに、殆ど彼のものではなかったのだろう。ならばこの先にあるはずの幾つかの遺骸は、見るも無惨な様相をしているに違いない。

 暫く続いた導きの先にあったのは、赤黒い塊がふたつ。人の形をしている。妖星だろうか。出血量を見るに、絶命しているだろう。駆け寄って見る。黒髪の男性と女性、見慣れた黒い外套、長銃とナイフ。男性の投げ出された右手は焼け焦げ、薬指には十芒星の指輪──塔主の証が嵌められている。あわてて女性を見れば、左の中指に、指輪。指先には霜が張りつき、紫色に変色している。

 

「あ……」

 

 塔主である吉川稀助と野村赦理。どちらも身体はズタズタだが、顔は綺麗なまま、身元がすぐに分かった。降り始めた雪のひとひらが、僅かな体温を残す野村の頬に触れる。異常だ。塔主がふたり、重症を負った末に並んで絶命しているなんて。余程強い相手かフラグメンツの群れ、力が拮抗するような実力者が相手でなければ起こりえない。敵の死体はひとつも無い。つまり敵は相当強い個体で、さらにまだ生きていて、近くにいるということだ。先の小林の様子は、異常なまでに穏やかだった。もしや本当に気が違ってしまっていたのだろうか。彼も共に戦ったのか? 後を追った方が安全だろうか。彼も死んでしまったふたりと同じ塔主だ。それこそ、互いに力が拮抗する、ゼペネで唯一の存在──。

 

「え、」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終章

 

0/21.arcz  終わりに過ちを知り、真に至ることを求む。回帰せよ。私は明日、貴方を連れて旅に出る。

***

むかしむかし、まだこの世界に沢山の不思議ないきものがいたころのお話。

世界には神様と、人間と、巨大な獣や神様に近い怪物たちがいました。

天は星々の光で満ち溢れ、昼も夜もない明るい世界でした。

人間は星を信仰し、祈りを捧げることで願いを叶えてもらいました。

 

戦争がありました。

巨大な獣たちは"Eclipse"と呼ばれていました。彼らは星を食べ、人間を襲いました。

怪物たちの一部は人間たちを守るために戦いました。彼らは"セークレートゥム"と呼ばれていました。

野原を焼き払い旅をするもの、浜に立ち終わりを司るもの、あらゆる言葉を話す鹿の姿をしたもの。

さまざまなものがいました。彼らは戦争をして、獣たちと戦いました。

 

戦争がありました。それは終わりの見えない暗闇のようでした。

人間たちは星に祈りました。戦争が終わること、戦争で死んでしまった人々が生き返ることを。

けれど一度無くなってしまったものは戻すことはできません。

怪物たちは疲弊していきました。人間たちの一部は星を恨み始めました。

やがて彼らの中から"Eclipse"に加担する者が現れ始めました。彼らは復讐を叫びました。

 

戦争は終わりませんでした。ついに怪物たちのうち、炎を操るものが死んでしまいました。

悲しんだ彼の九体の友人たちのうち、詩によって万物を生み出す牡鹿が新しい世界を創ることを思いつきました。

彼はある世界を参考にして、美しい星と美しい自然に囲まれた、争いのない世界を創ろうとしました。

"セークレートゥム"の中には賛成するものも反対するものも、ただ傍観するものもいました。

 

戦争は終わりませんでした。仲間はどんどん死んでいきました。

四匹の龍の兄弟のうち、一番目と二番目が守りあうようにして死にました。

その次には鬼に似た姿のものが。その次には世界の核を創った牡鹿が。三番目の龍が。

やがて獣たちによって星々は食われ、空は暗くなり、"ソル"と呼ばれる獣が強い光を放って星々を弱らせました。

これが昼と夜の始まりでした。

怪物たちは急いで新世界の支度を進めました。

――しかし本当に、十体の怪物だけで世界が創れるのでしょうか?

ある身体を持たない霧のような怪物は考えました。

十の物を作るには同じ価値を持ったものが必要になるでしょう、

例えば百人の命をつくるには百人の命が。二百人の命をつくるには二百人の命が。

――足りない、とその怪物は思いました。

世界を創るには、自分たちの命を消費しても足りないのだと気づいたのです。

 

無理やり世界を創ったらどうなるか、その怪物は考えました。

――きっと報いを受けるに違いない。

――世界が完成した瞬間に、自分たちは命よりも大切な何かを失うに違いない。

さて、そう考えた彼の行動は決まりました。

彼は友達が大好きでした。

だから彼らが呪われるのは絶対に嫌でした。

 

彼は、友達を殺すことに決めました。世界が完成する前に。

そして自分だけに許された力で世界を完成させることに決めました。

決定打を打つのが自分だけなら、きっと仲間も世界も守れるに違いないと彼は考えました。

末の龍を殺しました。世界の外観をつくった真黒な怪物を殺しました。世界の原動力となった雷の大鷲を殺しました。

 

そして、何もかも居なくなってから彼は世界の仕上げをしました。

皆の犠牲、この世界で死んでしまった沢山の命、そして自分の命を対価にして、

彼はすべての命を世界に送り込みました。

きっと満天の星があるでしょう、いきものは美しくて、人間も怪物も、きっと素晴らしい一生を送るでしょう。

彼は微笑んで、そうして最後の眠りにつきました。

 

 

 

 

 

それは呪いでした。繰り返される数十年が、世界に生まれました。

最初のうちは、世界は完璧でした。

新しい命も生まれました。星の力を持った人間や、星の名を持つ不思議ないきもの等です。

前の世界で死んでしまった妖たちは、その世界では星の力を持った人間の一部として生きていました。

霧の怪物に殺された三体は当然怒っていました。

理由を尋ねても霧の怪物は答えようとしないので、次第に問い詰めるのを止めました。

 

それは呪いでした。その世界は永遠ではなく、前の世界と同じように争いが起きました。

そして、妖たちは同じように死にました。その後、また同じように妖たちは生まれ、そして死にました。

だんだん、彼らは思い出せなくなりました。

転生を繰り返すうちに、この世界の始まりを忘れてしまったり、友人のことを忘れたりしました。

そして数百回ほど繰り返したでしょうか。彼らは全く、自分たちの本当の姿を覚えていませんでした。

たったひとり、霧の怪物を除いては。

 

彼はまた気づきました。繰り返している、その輪廻が歪んでいると考えました。

円滑に回っていた歯車が歪んだのです。

そう、前の世界で行ったことをそっくりそのまま行わないから、完璧な円環はずれていったのだと理解しました。

例えば、最後の日に、三人の友人を殺すこと──。彼は百回ほどの間、全く仲間を殺していませんでした。

だから歪んだのです。そして彼は、その事実を理解してしまいました。そして、世界を直そうとしました。

そうすればまた思い出してくれるかもしれない。また世界を愛してくれるかもしれない。

それから、彼はまた仲間たちを殺し始めました。同じ日、同じ方法で、今までに殺すしかなかった人々も全て。

殺されてしまうことを知っていながら、見ないふりをしました。

 

彼は、思い出せなくなっていきました。世界は戻りませんでした。

生まれてすぐに思い出せた記憶が、やがては七歳に、そして十歳にならなければ思い出せなくなりました。

――もう戻らないのかもしれない。

ほんの少しの疲れと諦めが彼の中に生まれました。

 

だから、もうお仕舞いにすることにしました。

 

変わってしまった友人たちが残してくれた『世界』という形見に縋るのをやめることにしました。

彼らは今を生きていて、もう前の彼らではありません。世界の苦しみを受け続けさせるのは間違いでしょう。

それから数百回の生の間、彼は沢山模索しました。

どうしたらこの世界を壊せるか。どうしたら彼らを外へ送り届けてやれるだろうか。

彼は考えて考えて、やがて一つの答えに辿り着きました。

彼はあの牡鹿が残した身体と魂の一部を持つ"ノア"という新しい生き物から着想を得ました。

――そう、それはノアの方舟でした。空へ向けていきものたちを送り出すのです。

真黒の怪物が死んでも唯一青いままだった空だけが、この世界の出口だったのです。

 

彼は万物に干渉することができ、また名前を呼ぶことで鳥を操ることができました。

世界中の魂を鳥の姿に変え、送り出してやろうと考えました。

干渉の力によって魂を一度体内に保存しました。

来るべき最後の日まで。

 

 

 

最期の日、彼はとても凪いでいました。

清々しい気持ちで、外の世界へ飛び立つ仲間の名前を一人ずつ、大事に、大事に呼びました。

たくさんの白い鳥が、群れをなして美しい青空へと飛び立ちました。

あるものは彼の周りを旋回し、あるものは彼を少し待とうとしました。

彼は一緒には行けません。方舟の扉を外から閉じるのは神様の役目でした。

外の世界では、きっと苦しいことが沢山あって、悲しいことが沢山有るでしょう、

それでも彼は皆に、運命に縛られない、自由で美しい、彼らだけのたった一度きりの命を謳歌してほしかった。

 

彼は皆が居なくなったあと、静かに目を閉じました。

その後のことは、もう誰にも分かりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2022.02.19 『全天戦記』/ 記録者不明)